第9話 赤い痕
「な、なんで?」
倫也が部屋に戻ってきて、いきなりの恵のメインヒロイン降板宣言に倫也は戸惑いを隠せなかった。
「『なんで?』って、言わないとわからないかなぁ?」
「いやいや……、ついさっき『わたしメインヒロインやるよ』って言ってたじゃん?」
「さっきはそうだったけど、今は気が変わったから」
「え、ええええええぇぇぇぇぇっ!?」
倫也がトイレに行く瞬間まではメインヒロインをやらないなんて言い出す雰囲気など全くなかった。むしろ、どう考えてもメインヒロインをやる気の方が上回っているくらいだった。
トイレから戻って来るまではわずか数分しかなかったのに、恵は掌を返すようにかなり苛ついた表情で倫也を見ている。
「だ、だったら、どこが悪いのか教えてくれよ!?」
「じゃあ、もう一回企画書を読み返してみればいいんじゃないかな?」
「お、おう……」
そのまま、恵に悪いところを直接教えてもらう方が早いかもしれないが、どう見てもめちゃくちゃ不機嫌になっている恵に反論するなど倫也にできるわけもない。倫也は言われるがままにPCの前に座って企画書のプレゼンファイルを見直す。恵が気になりそうな部分がないかひとつひとつ丁寧に目を通して確認していった。
そして、数分かけて最初から最後まで、読み返してみたが特に悪いと思われるところは見つからない。
「え~っと、恵?どこが悪いか全然わかんないんだけど……?」
「ふうぅぅぅぅ~ん?」
『そんなこともわかんないんだ?』みたいな不機嫌な声と顔で恵は倫也を咎めるように追い詰めていく。
そんな恵に倫也は気圧されて逃げ出したくなるのを我慢し、恵の言葉を待つ。
「倫也くん、最初にこれ全年齢向けって言ったよね?」
「あ、ああ……」
「じゃあ聞くけど、プロットの所々に、キスシーンとか、えっちなシーンが多々あるんだけど?これはどういうことかなぁ?」
恵はプレゼンファイルを操作し、プロットを説明したページを開く。
恵が指し示すメインヒロインのプロットには確かにキスシーンやえっちなシーンが含まれることが記されている。
「これって、わたしとのそういうことも元ネタにしてシナリオに入れるつもりなのかな?」
「ちちちち、ちが、違うからああぁ!!」
「そういう考えでメインヒロインをやらせるつもりだったのかな?」
「あああぁぁぁ!違うって違うって違うってええええぇぇぇ!!」
倫也は恵の詰問に対して必死に否定するが、恵は倫也の言葉に耳に貸す様子はない。倫也は恵が勘違いしているのではないかと思い、こういうシーンがあったとしても全年齢の理由を説明する。
「ぜ、全年齢向けでも、直接描写がなければセーフなんだよ!?二人でベッドに入って、それで暗転してしまえば、特に問題ないんだよ!?だからそういう描写はゲームには入れないから!!」
ちなみに現実のゲームで例を挙げると、女子高生とのデート後のシーンの背景がラブホでも、夏の学校の教室で二人っきりで汗だくになっても、直接描写がなければ全年齢扱いである。(
「でも、それってその直前のやり取りまではあるってことだよね?」
「………………………………はい」
「…………ふうぅぅぅぅぅぅ~ん?」
それも恵の指摘通りで、えっちなシーンは描写しなくても直前までは描写する予定はあった。
倫也は恵が怒っている様子に冷汗がどんどんあふれてきて、背筋が凍りついていく。
「ふうぅぅぅぅぅぅ~ん。そうなんだ~?倫也くんはそうやって誤魔化すんだ~?」
「しょうがないんだよぅ。やっぱり付き合ってる前提だと、そういうシーンがないとなかなかイチャイチャが進まないんだよぅ」
結局、主人公と巡離の過去の思い出を振り返ったり、イチャイチャしていくのに、どうしてもそういうシーンを追加せざるを得なかった。……というか、妄想駄々漏れの倫也のプロットではそういうシーンが書きたくて仕方なかったのも事実だった。
「それってさっきまでの説明になかったけど、わたしのこと騙してたのかな?」
「別に騙してたわけじゃないって!これから説明するつもりだったんだよ?だからちゃんと企画書に書いてあるじゃん!?」
「だったら、それを説明する前にメインヒロインをやってくれって言うのはおかしくない?」
「ぐ……」
恵からの問い詰めに対して倫也は返す言葉がなく、苦しそうに呻くしかなかった。
恵の言う通り、全部説明する前にメインヒロインをやってくれと頼んだのは事実だったが、ちゃんとプロットを含めて説明する予定だったのも事実ではあった。
ただ、『恵にメインヒロインをやってもらいたい』という願望が先走ってしまっただけで。
「……企画は面白いと思うよ?
……さっきメインヒロインやるって言ったのも本当だよ?」
その恵の顔には、怒りだけではなく、悲しさも混じっていた。
恵の言っていることは本当だとは思う。『メインヒロインをやるよ』と言った言葉以上に、そのあとに『期待してるよ』って手を繋いだのが、嘘だとは全く思えなかった。
だからこそ恵は裏切られたと感じてしまったんだと思う。
「……でも、こんなプロットなら、わたしメインヒロインやらない」
恵はそう言って立ち上がり、部屋の隅に置いてある自分の鞄を取りに行く。
「わたし、今日はもう帰るね」
「ちょ、ちょっと!?」
倫也は引き留めようとするが、恵は倫也の言葉に耳を貸すこともなく、鞄を乱暴に背負ってそのまま扉へと向かう。
「このまま話しても何も解決しないから。一旦、頭を冷やしてからまた話をさせて」
恵は倫也を見ることもなく、そう言って部屋から出て行った。背後からでも明らかに恵が苛立っているのが伝わってきて、倫也は何もできなかった。
そして、一人残された倫也は『はぁ』と大きくため息をつきながらベッドに倒れ込む。
(やらかした……)
恵にメインヒロインをやってもらえそうだったのに、それを目の前で掴み損ねたそのショックは倫也の体に重くのしかかる。
なぜ、きちんと手順を踏んで説明しなかったのか。例え、恵が納得しない今のプロットであっても、少なくとも事前に説明しておけばここまでこじれなかったのではないかと思う。
ただ、そんなことを今さら後悔しても仕方がない。とりあえず、一旦気を落ち着かせてから、企画書の見直しをすることに決めた。
「あ……」
そして、倫也は一つ思い出したことがあった。
「……恵、俺のジャージ着たまんまだわ」
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
恵にもう一度メインヒロインをやってもらうために、今やれることはプロットの見直しだった。恵は『
まずは現状のプロット全体を眺めてどのように削減すべきか、頭を巡らせるためにPCの前に座った時だった。
スマホが震えているのに気がついて画面を確認する。それは伊織からの電話で、倫也は画面に触れて応答する。
「もしもし、伊織?」
「やあ、倫也君。調子はどうだい?」
開口一番、嫌なことを聞いてくる伊織に思わず倫也は眉を顰める。
「……ついさっき、メインヒロインに逃げられたところだ」
「はっはっは、それはタイミングがよかった」
「……喧嘩売ってんだろ?そうなんだろ?」
恵に逃げられたのは結構な痛手なので、流石に冗談でもやめて欲しいと倫也は思う。
先月の定例ミーティングの様子では恵と伊織は割と和解していたような感じなので、別に恵がいたところで問題ないとは思うが。
「まあ、冗談はさておき、企画は進んでいるのかい?」
「ああ、とりあえず一度作ってみて、今日恵に説明したんだけどな……」
「内容が気に入らず断られたって感じかい?」
「そんなとこだな。企画自体は問題なくってメインヒロインやるって言ってたんだけど、このシナリオだったらやらないって言い出して……」
さっきの恵とのやり取りを伊織に説明する。ところどころで恵の苛立った、悲しそうな顔が頭に浮かび、倫也は頭を掻きつつ溜息を吐く。
「まあ、加藤さんがメインヒロインをやるやらないはともかく、倫也君がちゃんと企画を進められているみたいで安心したよ」
「……その企画をがもう既に頓挫しそうなんですけどぉ?」
恵がメインヒロインをやることを想定して企画もプロットも考えていたので、恵がメインヒロインをやらないとそもそも何も始まらない。
「まあ、加藤さんも気分、と言うか感情に左右されるところがあるからね?前作のラストシーンもそうやって揉めただろう?」
「……そんなこともあったな」
確かにそう考えれば、このままのプロットでも……とはちょっと考えたが、あの様子だと結構怒っていたので、そんな甘い考えは捨てることにする。
「それなら、定例ミーティングを開こう。企画内容を全体で共有したいし、もうGWだ。冬コミで出すなら、休みのうちに宣伝もしておきたい」
「そうだな。なら……3日後の木曜日に召集でいいか?」
木曜日は5月の連休の初日。大学生でも高校生でも休日だ。
……まぁ倫也と美智留に関しては毎日が休日なのだが。
「了解だ。じゃあ、共有ストレージに企画書を上げておいてもらえるかい?ミーティングまでに目は通しておくよ」
「でも、まだ未完成だからな?この3日間でまた変わるかもしれないぞ?」
一応、プロットを修正して恵に了承をもらう努力はするつもりだったので、変更する可能性があることについては釘を刺しておく。
「大まかな流れは変わらないだろう?まずは方向性だけ確認しておくよ」
「わかった。後で上げておく」
「完成していなくても、ミーティングの中で方向性を決めて行けばいいさ。じゃあ、また木曜日に」
「おう」
そう言って、倫也は電話を切り、現状の企画書のプレゼンファイルを共有ストレージにアップロードした。
そして、改めてプロットの見直しだ。やはり、恵にメインヒロインをやってもらわないとこの企画は成り立たない。
再び、企画書のファイルを開いてプロット全体を眺める。
(今日も徹夜かな……)
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
恵『没。やり直し』
「なんでえええぇぇぇ!?」
修正した企画書を恵にメールで送ってから、わずか1分足らずで帰って来たメッセージがこれだった。帰ってくる返事がそういう内容になるのは予測できなかったわけではないが、そのメッセージのレスポンスの速さが納得いかなかった。
そして、恵の頭が冷えた様子も全くなさそうだった。
ちなみに今日は火曜日。最初に恵に企画を説明してから二日後だ。
昨日(月曜)のうちにプロットの修正は済んでいたので、昨日のうちに恵に見てもらおうとしたのだが、恵の姉がゴールデンウィークで帰省していたため、電話やスカイプをしたり、企画書を開くようなことができなかったらしい。
……ちなみに倫也のジャージを着て帰ったことも、その奥に隠れていたキスマークも全部姉に問い詰められたらしい。その問い詰められ方もかなり酷かったらしく、問い詰められている合間に倫也とメッセージのやり取りをしていたが、そのメッセージも大荒れだった。
そのおかげで恵の不機嫌さは増し増しで、今日も企画書を見てもらうために説得するのにかなり時間がかかったという裏話があったことを補足しておく。
倫也『ちゃんと読んでる?』
恵『読んでる』
倫也『没の判断が早くない?』
恵『早くない』
恵からの即返信に倫也は溜息を吐く。恵の機嫌が悪いのがレスポンスの速さからも、メッセージの言葉からも伝わってきているからだ。
この時点でもう心が折れそうだったが、諦めるわけにはいかないため、またメッセージを送る。
倫也『じゃあ、どこが悪いのか教えてくれない?』
恵『全部』
恵の返答に倫也はがっくりと肩を落とす。
やはり伊織の予想が正しくて、ただ単に感情でNGを出しているようにしか感じられなかった。
恵に頭を冷やしてもらうために日を改めることもちょっと考えたが、
また、次の言葉をどうしようか選んでいたところ、先に恵からのメッセージが届く。
恵『まだキスシーンとかえっちなシーンが残ってる。全削除で』
どう考えても、無理な修正だった。
もともとそういうところを隠してメインヒロインをやってくれとお願いしたのが事の発端なので、そういうツッコミを予想して修正したプロットではそういうシーンは減らすように努力はした。そのシーンにできる限り感動が凝縮されるようにプロットも考え直してみた。
ただ、さすがに全削除は無理だった。そもそもギャルゲーで付き合っている二人がスタートでキスすらも削除はゲームとして成り立たない。
そして、何より倫也自身がメインヒロインにキュンキュンできない。
倫也『それだとギャルゲーとして成り立たないんだけどぉ!?』
恵『それはシナリオライターの倫也くんの腕の見せ所じゃないのかな?』
倫也『だってコンセプトが前作で「イチャイチャし足りなかった分をさらにイチャイチャする」なんだよ!?イチャイチャするシーンがないとダメなんだよ!?』
恵『倫也くんなら大丈夫だよ。巡離15とか巡離16とかでキスとかしなくても十分に恥ずかしいくらいにイチャイチャしているシナリオ書けてたし』
ちなみに巡離15は深夜の本読みでのやり取りを元ネタにしたシーンで、巡離16は下校時の手繋ぎデートのシーンのことである。(原作十一巻八章参照)
倫也『あれは恵がメインヒロインをやってくれたからこそ、あんなシナリオになったんだぞ?』
恵『じゃあ、わたしがメインヒロインやれば、そういうシーンがなくてもイチャイチャシーンが書けるってことだよね?』
(んん……?)
その恵の返答について頭を巡らせる。少し前のやり取りから見返して、どういう流れになってしまっているのかを確認する。
そして、墓穴を掘ったことに気がついた。
恵『そういうことだよね?』
倫也『あああああああ!違うんだよおおおおぉぉぉ!』
結局、この全く進展しないやり取りは数時間続いた。お互いに譲れないポイントの妥協点が見つからず、ひたすら平行線だった。
* * * * * * * * * * * * * * * *
「だめだこりゃ……」
そして、日付が変わりそうになる頃、メッセージのやり取りではもう埒が明かないと、この平行線は絶対に近づくことがないと判断する。
そして、倫也は恵に了承を得ることなくいきなりスカイプで通話することにした。
呼び出し中の画面が表示され、恵が応答してくれるのを待つ。正直、あんなにイライラしている恵がそもそも出てくれるかもどうかも怪しいとは思っている。でも、このままの状況では何も変わらない。何か変えないといけない。
(お願いだから出てくれよ……)
倫也は顔の前で祈るように手をこすり合わせる。
そして、十秒、二十秒、……一分、とひたすら呼び出し中の画面が表示され続ける。
でも、これくらいでは諦めない。出るつもりがないならそもそも拒否されるのだから、まだ恵が出る可能性はある。
そして、二分、三分と経過する。
『……倫也くん?』
そして、五分が経過しようとしたとき、画面に恵のめんどくさそうな顔が表示され、恵のめんどくさそうな声が聞こえてきてた。
その瞬間、倫也は安堵した。諦めなくて良かったと。
「あ〜、やっと出てくれた」
『ほんと、めげないね〜?』
「当たり前だろ?メインヒロインのためなら俺はめげないんだよ」
『でも、わたしメインヒロインやらないよ?』
「あ……?あ~、そうだったな……」
『……そういうつもりで連絡してきたんじゃないの?』
「何か、恵が出てくれただけで安心しちゃったんだよ」
スカイプをかけた理由は確かに恵の説得だった。でも、ずっと恵の応答を待ち続けていたら、いつの間にか、理由が変わっていた。
画面越しでも恵の声が聞けて、恵の顔が見られるだけで、倫也は満足してしまった。
わずか二日ぶりで、しかも実物ではない画面の越しであっても、ちょっとだけ怒りが収まりつつあって、ある意味いつものめんどくさい表情の恵の顔だったからこそ、ちょっとだけ癒された。
だから、思いっ切り口が軽くなっていた。
「……まだ、首元赤いんだな」
その瞬間、パソコン上のスカイプの画面はバンというノートパソコンのディスプレイを閉じる大きな音とともに真っ暗になり、恵のとの通話が不可となる。
「あ……」
そもそも今日はそのキスマークが原因でこんなこじれた状態になっていたのはわかっていた。それなのにわざわざ恵の逆鱗に触れるどころか全力で掴みに行くようなその失言は、ようやく手に入れた対話のチャンスを自らの捨てることになった。
そして、背筋が凍りつきダラダラと冷や汗が流れてくる。そして、
「ああああああああぁぁぁぁ!!」
とんでもないことをやらかしたと、深夜に関わらず思わず絶叫した。
慌ててもう一度スカイプで連絡を取ろうとしたが、恵はすでにログアウト状態になっていた。
電話もかけてみたが、すでにスマホの電源が切ってあるようで、メッセージを送ってみても既読になることもなかった。
結局、翌日も恵の機嫌が直ることはなく、企画書の修正もまともに行うこともできずに、木曜日を迎えることとなった。
(次話に続く)
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