ねずみ次元
アスカ
ねずみ次元
脚の折れたピアノの影から出ると、足の裏から伝わる突き刺すような冷たさにひげが震えた。
一呼吸置いて、改めて辺りの様子をうかがう。
微かにかさかさと足音がするが、いずれも細かく、小さく、そして軽い。虫か、そうでなければ仲間のねずみだろう。
匂いの方も、相変わらずほこりっぽく、煤けている。危険な香りはしない。
僕は諦めてごそごそと床を歩くことにした。
決して寒いわけではない。大きなガラスから入ってくる光は暖かく、むしろ気温は少し高いくらいだ。
けれど、砂埃にまみれた石の地面はよく冷えている。
それでなくても身を隠せる場所がピアノの他には壁のようにしか見えないほど大きな本棚の下(二つあるうちの一つは倒れているため使えない)くらいしかない、だだっ広い空間に全身をさらしながら歩くというだけでも不快だというのに。
それでも、ただピアノの下に引きこもっているだけでは種も草も食べられないし、虫もそれほど間抜けではない。にもかかわらず、腹は減るのだから仕方がない。
ここは洋館という場所なのだ、という者がいる。この洋館に住み着いているねずみの中でも一番の御長寿様で、やたらと口を出すのが好きなねずみだ。
別に敬えとか従えとか言われたことはないが、ぞんざいではある。元々は余所者だったくせに。
厄介なのは、足を舐めながらの助言がだいたい正論なことだ。
苦言を申し立てようにも、胡乱げな目で一瞥するだけだったりする(もちろん僕にはそんな勇気はない。そういう場面を見たことがあるだけだ)。
彼が言うにはガラスから見える世界こそが本物の世界らしい。
それではこの洋館は本物ではないのかとたずねると、この洋館も本物だ、という訳のわからない答えが返ってきたのを覚えている。ただ次元が違うだけなのだと。
次元。
では次元とは何なのか。
そう思ったけれど、たずねることなく今まで来ている。話をそこで切り上げられてしまったのだ。
僕がいつも隠れ家にしているものをピアノだと教えてくれたのも彼だった。本来は外の世界にいる人間という生き物が、音を出して楽しむためのものだという。
もちろん、僕はピアノから音が出たところを見たことはない。
そびえる本棚を横目に見ながら、鼻とひげを頼りに虫を探す。
「よう、チビ!」
ふてぶてしく無礼な声をかけられて振り返ると、ねずみが毛繕いをしていた。
彼の前には、どこから持ってきたのか、おいしそうなアリとてんとう虫の死骸が転がっている。
「何さ、デカ」
やれやれと言い返す。
彼は僕を『チビ』と呼ぶが、決して僕は小さくもないし、そこまでひ弱でもない。並だ。
どちらかというと、彼の方がでかいのだ。きょうだいの中でも一番でかく、力が強い。いや、力が強かったからでかくなった、というべきか。
力が強いということは、そのままご飯をたくさん食べられるということにつながる。その逆は、その逆だ。飢え死にした小さなねずみの死骸をみたことがある。
「おいおい、せっかくメシ持ってきてやったっていうのにそれはねーんじゃねぇの?」
ともかく、そんな彼がなぜ僕だけを『チビ』呼ばわりしてこんな風に話しかけてくるのかは謎だ。
……やたらと僕にだけご飯を持ってくる理由も。
何度かたずねてみようと思ったことはあった。だが彼の顔を見ると言葉が引っ込んでしまう。
そんなことを繰り返してきたから、結局今に至るまで彼の本意を僕は知らない。僕の知らない何かがあったのかもしれないし、僕が忘れている何かがあったのかもしれない。あるいは、こうやって高圧的に接することで、いじめているつもりなのかもしれない。
「……僕のこと舐めてる?」
正直なところ、余計なお世話だったりはする。
僕は僕なりに食べる方法を見つけているし、てんとう虫くらいであれば狩ることだってできる。
だから、僕を不快にさせることが彼の目的だというなら、そこそこ成功しているのかもしれない。
「いいじゃねぇか、メシこれからだろ?」
なにせ、かなり押しの強い彼に、こちらは毎回辟易させられることになるのだから。
「貰っときなさい」
と、しわがれた声が挟まってくる。
勝手に間に入ってきた割には、さして興味なさそうな声色だった。
また面倒なヤツが、と脱力しそうになる。
「食える時に食っとくものだよ。特に若いうちはね」
御長寿様があくびをしていた。
とたんに喜び出すのはデカだ。やたらと嬉しそうに、
「な? じーさんもああ言ってる」
と便乗する。
これだから嫌なんだ、とうなだれる。口が利く二人を相手にした勝負。どうあがいたって勝てっこない。
理由はわからないが、なぜかご長寿様はデカのことを気にかけているらしい。結果的に、デカによく絡まれる僕が被害を受けることになるというわけだ。
わかったよ、と諦めてご飯をもらうことにする。
腹の底まで呆れているつもりでも、体は正直だったりする。
一口食べてしまうと止まらなくなってしまうのだ。
これもいつものことで、かなり悔しい。
「やっぱり腹減ってるんじゃねーか」
すかさずデカが煽ってくる。やはり僕を虐めるためにこんなことをやっているのかもしれない。
「減って……ないっ!」
てんとう虫を食い尽くしながら言い返す。そうしながらも、体はアリを平らげようとしているのだから、我ながら情けない。けらけらと笑われたのも当たり前のことだと思う。
でも、本当にお腹が減っていたわけではないのだ。
狩りだってそこまでヘタクソでもないし、虫以外にも何が食べられて何がそうではないのかくらいわかっているつもりだ。独り立ちしてから一週間ほど経つが、飢えたことはない。彼の援助なんかなくても十分生きていけるはずだ。
ただ、これはなぜなのかはわからないのだが、ご飯を見るとどうしようもなく食べたくなってきてしまうのだ。尻尾が震える。
多分、僕が我慢のきかない弱いねずみだからなのではなく、ご飯の方にそういう魔力があるのだと思う。あるいは、デカは実は魔法使いで、ご飯にそういう魔法を掛けているのかもしれない。
ごそ、と小さな物音がしたのはその時だった。
「――っ」
思わず顔をあげる。
がらりとした砂塗れの広い部屋。
薄暗い部屋、煤けた窓ガラス。
音の出ないピアノに、大きな本棚。
目に映るのはそれだけ。
難しいことはわからない。でも直感が囁いていた。
ねずみよりも大きな何かが、こちらを見つめている、と。
「おい、どうした?」
遅れて、デカも首をもたげる。
「――逃げた方がいい」
御長寿様がそう言った。彼の体はすでに後ろを向いていた。
「――え?」
僕たちがそう声に出した次の瞬間、そいつは上から降ってきた。
外の光に照らされ、デカの背後でそいつの爪が光る。
声も出なかった。
湧き立つ衝動のままに、僕は回れ右をして老ねずみの尻尾を追った。
あの影に捕まらず、走ることができたのは奇跡的なことだった。
振り下ろされた爪がもう少し逸れていなければ、僕がそいつのご飯にされていただろう。
部屋から出て、広い廊下を走る。ばたばたという足音を隠すことができず、不安になる。
壁の割れ目に飛び込み、その狭さを感じるまで恐怖は続いた。
ホッと一息つく。心臓がまだ滅茶苦茶に鳴っているのを感じる。
「今のは……」
思わず息を切らしながら呟く。
「ネコは初めてか」
と、御長寿様が言った。
ネコ、とひとりごちる。知らないわけではない。聞いたことくらいはあった。
曰く、長い尻尾を持っていて、鋭い爪と牙を有するねずみの化け物だとか。
曰く、いつも寝ている呑気な可愛い生き物だとか。
……いや。僕は、知っている。
もっと心の奥深く、全身の記憶として。
体験として、知っている。
「いいえ」
――僕は、ネコを、見たことがある。
ずっと昔。僕がまだ小さかった頃のことだ。
僕は、餓死寸前だった。
体は今よりずっとずっと小さくて、力もずっと弱かった。だから、いつもご飯を他の兄弟に取られていたのだ。
それでも僕は兄弟の真似をした。死にたくはなかったから。
ある日、家族が揃って遠出をすることになった。理由は覚えていない。狩りの練習をするだとか、何が餌なのか学ぶとか、とにかくそんな感じだったと思う。
一歩足を踏み出した時のあの感覚。むしろなぜ覚えていなかったのかがわからない。
ぐらりと地面が傾くような感じがした。
なぜだか目の前は暗くなって、必死に地面を踏み締めている僕を嘲笑うかのようにぐらぐらと揺れている。
なぜだか兄弟たちはそれに慣れている様子で、簡単にその揺れをいなし先に進んでいた。
待ってほしい、と思った。でも声は出なかった。
いや、もう随分と声を出すことができなかった。最後に声を出したのはいつだっただろう。考えようとすると揺れが激しくなった。
屋敷の重苦しい空気の匂いが頭に広がる。
前をいく兄弟の尻の後を追う。追っていた、と思う。少なくとも僕はそのつもりだった。
ごつん、と鼻に奇妙な感覚があった。
目を開ける。閉じたつもりはなかったのに、目を開ける。
苔が、目の前にあった。
いつの間にか、壁に向かって歩いていたのだ。
慌ててあたりを見まわす。家族の姿はなかった。
絶望。
この時感じた吐き気は、絶望というものだったのだと思う。
取り残されたのだという絶望。誰も助けてくれなかったという絶望。
母ですら、僕のことを待ってさえくれなかった。
いや、わかっている。最初から、家族は力の弱い僕を気にかけてなどいなかった。むしろ早く死んでくれることを願っていたのだ。軟弱な僕に構うほどの余裕なんてないのだから。
腹を地面につける。
もう足に力は入らなかったし、入らなくてもいいと思った。
あたりはとても静かだった。
その不思議な静寂には、心地のよい暖かさがある。
ずっとこうしていられるなら、それも悪いことではないのかもしれない。
それが何を意味しているかはわかっている。でもそれの何が問題だというのだろう。どうせこうなる運命だったのだから。
ふわふわとした思考の底に沈みかけていた時、声が聞こえた。
ただの声ではない。
悲鳴だ。
夢の中のような暖かさは突如として消え失せ、真冬の隙間風のような寒さが通り抜ける。
予感がした。お腹の中をとても小さな蛇が這いまわるかのような嫌な予感。
どこにそんな力が残っていたのかはわからない。
気が付いたら、僕は声が聞こえた方向へと走っていた。
そこはだだっ広い部屋だった。
優しい匂いがするオルガンが、何かから取り残されたかのようにぽつりと壁際に置いてある。
本棚には古い本と、黄ばんだ紙が詰まっていた。いくつかは地面に落ちて、埃を浴びている。それらには黒い模様が書いてあった。まるで見たこともない種が散らばっているかのような模様だった。
青い空が見える小さな窓から柔らかな光が差し込んでいて、埃が舞っているのが見える。
そこで、家族の強烈な匂いを感じた。鼻に突き刺さるほどに強い匂い。それなのに、姿は見えない。
それがなぜか、不快に思えた。
ふと、奇妙な視線を感じてそちらを見る。
「――ッ!」
瞬間、体が凍り付いた。
心臓どころか、時間すらも止まってしまったかのように思えた。
部屋の隅にいたのは怪物だった。少なくとも、その時の僕にはそう見えた。
そいつは四本の脚と長い尻尾を持っていた。そういう意味では僕たちねずみによく似ている。
けれど体躯は影のように真っ黒だったし、何よりも巨大だった。僕の体など簡単に踏みつぶされてしまうだろうということが容易にわかるくらいに。
ねずみの怪物。
真冬の風よりも冷たい金色の視線に、頭の奥がくらくらしてしまう。
実際、冬のように時間の流れが遅く感じた――あるいは、とても速く感じた。
やがて、ネコは不意に僕に対する興味を失ったようで身軽に動き、飛び跳ねるようにして部屋から出て行った。
僕はといえば、しばらくの間動くことができなかった。そもそも、何が起きたのか理解すらできなかったのだから動きようがなかった。
「おい」
と小さな声が聞こえて振り返る。
まず目に入ったのは、アリの死骸だった。喉が鳴り、次に腹が震える。
けれど、濃厚な香りのするそれにはすでに持ち主がいた。
体の大きなねずみだ。僕よりも頭一つは大きい。
ごそごそと彼は何か言っていたが、何を言っていたかは記憶にない。聞いていなかったのだと思う。
とにかく、アリが欲しかった。貰えたらいいのに、とそれだけしかなかった。
奪いにいかなかったのはそれだけの体力がなかったということ以上に、貰えるわけがないという諦めがあったから。
「……これ、やるよ」
だから、彼がそう言いながらアリを鼻で押し出してきた時、僕はしばらくそれが何を意味しているのかわからなかった。
じっとアリを見つめながら、そのことについてずっと考えていた。
「食べろよ。食べないと死ぬぞ、チビ」
貰えるのだ。
そう気づいた時、僕は全てを忘れて飛びついた。
自分が空腹であることも、どうしてこんな場所にいるのかも、ここに家族がいないということも――家族のことも。
たぶん、この瞬間だったのだと思う。
僕の記憶は書き換わった。
「……ああ」
と、老ねずみが小さく頷いた。しまった、と言うように。
「知ってたんですか」
僕の質問には答えなかった。はぐらかすように目を背ける。ひくひくと彼の鼻が動いた。
肯定的沈黙。
僕も口を閉じ、老ねずみを見つめる。
やがて、諦めたように「あの坊主から聞いた」と自白した。
デカが、とつぶやく。埃が舞う中、彼が最初にくれたアリのことを考えていた。
あの黒さや、ゆっくりともがく細い脚。自分よりもはるかに小さく、そして力のない体の形。まるで初めて見たゴキブリのように濃厚な記憶として形作られているのに、どうして僕は全てを忘れていたのか。
そしてきちんと記憶を正した今でさえ、その味は思い出せないままなのだ。
「……どうしてデカは僕を助けたのでしょう」
老ねずみはしばらく答えなかった。答える必要のない質問だと思われたのかもしれない。
あるいは、本当に何も知らないのかもしれなかった。デカ本人から話を聞いているらしいとはいえ、その本意まで聞いているかはわからない。
「……さあな」
だから、老ねずみの言葉をどう捉えればいいのか判断ができなかった。
正直なところ、自分がそれについて本当に知りたいのかどうかもよくわからなかった。
重要なのは、そのデカさえも、失ってしまったということだ。
「悲しいか」
そう言われ、考える。
「よくわかりません」
というのが、僕の結論だった。
考えたことがなかった、というのがより正しいかもしれない。悲しいという感情がどういうものなのか。
そうか、と彼はそう言って黙り込んだ。
だがこのねずみにしては珍しくあくびを見せたりしない。彼なりに気を使っているのだろう。
「僕に関わると、みんな死んでしまうような気がします」
だからある意味で少し安心してしまったのかもしれない。
「僕のせいなのでしょうか」
そんなことを口にしてしまった。
老ねずみは耳を動かし、しばらく僕を見つめていた。
呆気に取られているからというよりも、僕の言葉について何かを考えているかのように見えた。
「ふむ……」
やがてそうつぶやくと、彼はひくひくと鼻を動かした。
「坊主、おまえはあの猫がどこから襲ってきたかわかるか?」
「どこから……」
言われて、考える。だがすぐに諦めざるを得なかった。見当もつかなかったからだ。
「わかりません」
素直にそう答えると、老ねずみは足を舐めた。僕の返答に呆れたのかとも思ったが、どうやら僕を落ち着かせようとしているようだった。
「本棚の上だ」
それが、彼の答えだった。
「本棚……?」
思わずそうたずねてしまう。
「あの高いところから?」
あそこまで高いところから飛び降りれば、無事では済まないのは子供でもわかる。第一、どうやってよじ登るというのだ、あのそびえ立つ壁を。
「そう、あの高いところから」
どうやら、老ねずみは僕の反応に満足したようだった。
「わしらねずみにとっては壁でも、奴らにとっては道なのだよ。あれを登ることなど造作もないことなんだ」
そんなあほな。それくらいだったら、何もないところから突然降ってきたと言われた方がまだ信じられる。
彼は僕の考えを読み取ったようだった。
「わしらと奴らとでは体の大きさが違う。大きさが違えば、ものの見方が変わる。見えなかったものが見えるようになる」
足を舐めるのを止め、毛繕いを始めた彼に「つまり?」とたずねる。
話が見えてこない。ねずみとネコの体の大きさと、僕に関わるとみんな死んでしまうことと、何の関係があるのだろう。
「つまり、大きくなればわかる、ということだ」
毛繕いも止め、老ねずみは僕を見る。
「大きくなれば」
呟いて、目を閉じる。しばらく、デカの体の大きさのことを考えていた。
それがやってきたのは、数日後の夜のことだった。
もちろん、この洋館に誰が何の目的でやってくるかなんて誰も気にしないし、そもそも把握している者なんていないだろう。
つまり、それくらい事情が違ったということだ。
いつも通りピアノの下で息をひそめていると、そいつは壁を割って入ってきた。
もちろん、正確には扉を開けて入ってきたのだ。ごく普通に。
だが錆びついたそれが開くところを僕は見たことがなかったし、開くとは思ってもいなかった。実のところを言うと、僕はそれを壁だと思っていた。開いていないのだから、壁なのだろうと。
入ってきたのも、不思議な生き物だった。
後ろ足二本で立って歩き、余った前足で大きな入れ物をそれぞれ一つずつ持っていた。右の入れ物は四角だったが、左の入れ物は形の悪い蕾のようなシルエットをしている。
足につけている黒い物のせいか、歩くたびにカツカツと無機質な、おおよそ生き物とは思えない足音が聞こえた。
歩き方が奇妙なら、姿そのものも奇妙だった。
黒い布を身にまとい体を隠しているかと思えば、腰に巻いているひらひらした灰色の布からは細い脚がそのまま露出している。
頭から生えているせっかくの長い毛も、二つにまとめて肩から垂らし、身を守ろうという気は皆無なようだった。
身を守る気のない生き物がどういう奴なのか。それは二つに一つだ。
とんでもない阿呆か、その必要がないくらいに強いか。
不気味なことに、僕にはその判断がつかなかった。
部屋を見まわしたそいつの顔はとても不安げで、だから弱いようにも見える。だが、その体はとても大きかった。あの大きなネコよりも、ずっとずっと大きい。
体が大きいということは、そのまま力が強いということでもある。
「人間だ」
と、となりにいた老ねずみが囁いた。
「あれが……」
人間。外の世界にいるという、ピアノから音を出すことができる生き物。
不思議なことだが、妙に納得できた。これだけ奇妙な生き物なら、この隠れ家から音を鳴らすことだってできるかもしれない。
だが、続く老ねずみの「まだ子供だ」という言葉には仰天した。
「子供? あんなに大きいのに?」
思わず囁きかけると、
「まだ大きくなる」
と老ねずみは事もなげに答える。
背筋が震えた。これ以上大きくなるとは。いったいどうなってしまうのだろう。
そんなことを思いながらじっと人間を見つめる。
奴はちらりとピアノのほうに目を向けて、少し目を細めた。ひょっとしたら老ねずみが言った通り音を出してくれるかもしれないと期待もしたが、そんなことはなくそのまま通り過ぎていく。
その足取りがいやに気になった。まるで、夢の中を歩いているかのようだったからだ。
そいつはそのまま、通路の向こう、闇の中へと消えていく。
ほとんど無意識に一歩踏み出していた。
「行かないほうがいいと思うぞ」
老ねずみの言葉を聞いて、ようやく自分が何をしようとしているのかを理解する。奴の後をついていこうとしているのだ。
老ねずみを振り返る。
彼もまた、こちらをじっと見つめていた。
「人間など、ろくなことのない生き物だ。わしらとは生きている次元が違う」
次元。
頭の中で反芻する。
結局、次元とは何なのだろうか。
老ねずみを見ると、しまった、という顔をしていた。
どんな言葉を返せばいいのかわからないまま、僕は踵を返す。
突如、がたん、というものすごい音がした。あまりにもすごい音だったので、世界が驚いて飛び上がったのがわかった。
階上だ。
突然の来客者の雰囲気に、ほかのねずみたちも、ネコも、虫も、どうやら縮み上がっているようだった。
委縮する世界に逆らうように、人間の後を追う。もちろん姿が見えているわけではないが、難しいことではなかった。
嗅いだことのない匂いが微かに漂っていたし、何よりあまりにも特徴的過ぎる足跡がくっきりと残っている。それを辿れば簡単だ。
暗い通路を通り、いくつかの段差を登る。かなり高さのある段差だ。それを何度も必死に登っていく。あの人間はまだ子供だというが、大変じゃなかったのだろうか。
登る最中、奇妙なうめき声が聞こえた。「うう」とも「ぐう」とも聞こえる、不思議な声だ。聞いていると背中の毛がぞわぞわと逆立ってくる。
呆れるほどたくさんある段差を登りきると、匂いはすでに空気の中に溶けて消えていた。
「……」
呆然としてしまったのは、その風景が見覚えのあるものだったから。
何かしらの予感がした。
足跡を辿り、一つの部屋に入る。
「ここは」
つん、と鼻につく匂いがした。生き物が死んだ時の、独特な匂い。
嗅ぎ慣れているようで、そうではないような気がした。
随分と重い匂いだ。とても狭くて、窮屈な場所に押し詰められてしまったかのような気持ちになる。
ぎり、ぎり、と微かな音がする。微かなはずなのに鮮明だった。低い残響音すらも不気味なくらいとてもよく聞こえる。
静かで、動く物が何もないこの空間には不釣りあいな雑音だった。
気味の悪いその音を聞いていると、胃の底が苦しくなってくる。
怖い、と一言思った。これもまた不釣りあいな思いだった。
ネコがいるわけでも、蛇が舌なめずりしているわけでもない。
むしろ、誰も自分を見ていないということが、とても恐ろしく感じる。
なぜかと言われると答えることができない。本来、誰からも見られていないという状況は安心すべきことなのだ。ましてや、自分を襲う天敵がいない空間というのは願ってもない幸せであるべきなはず。
なのに。
とても、不安だ。
本能とか、そういうものとは別に、身の縮むような恐怖を覚えていた。
優しい匂いがするオルガン。
古い本と黄ばんだ紙が詰まっている本棚。
地面に散らばっている、黒い模様が描かれた紙。
窓からは、満月が見える。
あの部屋だ、と思った。あの日、僕はこの部屋で家族を失い、そして得たのだと。
窓から差し込む光が、部屋の真ん中を照らしている。何かを指し示すように。
見えなければいいと思った。そこには何もなく、誰もいなければいいと。
ゆらりゆらりと僅かに揺れている。
大きな、人間の脚が揺れている。
それはどこか異様な光景だった。奇怪と表現してもいいくらいだった。
まるで何かから逃れてきてここで力尽きたかのような印象を覚えるその体を、慈しむかのように月が照らしている。
でも無意味だ。今更慈しんだところでこの死体が生き返るわけではないのだから。
よく見ると両前足の右と左で指の数が違う。僕は人間という生き物を知らないから元々そういうものなのかもしれないが、それのせいで何とも言えない歪さを感じた。
この人間は、何を見たのだろうか。ふとそう考える。僕には見えないものを、この人間は見ることができたのだろう。
それが、何を意味していたのだろうか。
音は続く。何かの足音のように、正確な拍子を刻みながら。
そして、暗闇の中へと溶けていく。
大きくなればわかる、と老ねずみは言った。
――わかるのだろうか。大きくなれば。
ねずみ次元 アスカ @asuka15132467
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