第30話 犬宮の御百日の祝い
その頃、正頼の三条殿では大宮の所に、大納言の北の方である七の君が訪れていた。
「呼ばれた理由は判っていますね」
大宮は優しく、しかし毅然とした態度で問いかける。
「こんなに自分から離れよう離れようとしていれば、大納言もあなたのことを頼りにならない女だ、と思っているでしょう」
七の君は黙ってうつむいたまま、母の言葉を聞く。
「あなたのこの様な態度は父上も良くない、と思うでしょう。そもそもあなた方、どうしてこんな仲違いをしたのです?」
七の君はしばらくうつむいたまま考えていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「何と申しましょうか、あの方は今では私のことなど人とも思っていない様ですから」
言葉はひどく平板なものだった。
「今では私のことなど軽蔑しているだけなのでしょう。そんな人と会うのも何ですので」
「そうは言っても七の君、あなた、幼い子も居るのですよ。それにあなた…… その身体」
すっ、と七の君の頬が赤らむ。
「また子供ができたのでしょう? ますます良くないことですよ。そんなことじゃ来春早々、大納言も一人で困ることとなるでしょう。今夜にでも早くお帰りなさい」
大宮は一人の母として、七君が一人前の妻であることを望む。
大納言がどんなことをしたのかは具体的に知っている訳では無い。
しかし娘がその様に言って夫を遠ざけている以上、何となく予想はつく。たとえば自分以外の女に軽々しく手を出したとか。
よくあることだ。
そもそも、大宮の夫である正頼にしてもそうだ。
彼は自分と大殿の上の二人を、それぞれ公平に扱ってはいる。だが自分の身の回りの世話をする女房に全く手を出したことが無い訳でも無い。
よくあることなのだ。そのくらいで、妻の立場にある自分や大殿の上が慌てふためくことは無い。
もっとも七の君の場合は、貴宮程では無いにせよ、蝶よ花よとばかりに育てられた一人である。その彼女一人を大納言は大事に守っていた。
そう思っていたとしたら、ちょっとした好き心も七の君にはひどく自分を馬鹿にしている様に感じられたのかもしれない。
だが現在、彼女は「姫」ではなく「妻」である。
大宮は母として、ここはその立場をわきまえる様、強く言わなくてはならないと思ったのだ。
だが七の君はそれからずっと口をつぐんだままだった。強情な子、と大宮は思う。
やはりその辺りは貴宮や今宮とも通じるところがあるのかもしれない、とふと彼女は感じた。
だがこのままではいけない。
彼女と大納言の間には五歳の男の子、三歳の女の子が居る。特に女の子の方は、大納言が大層可愛がっている。
そしてその上、現在もまた、七の君の腹には次の子が居るのだ。きっと次の子も大納言は可愛がるだろう。いい父親になるに違いない。
だとしたら、余計に。
だが押すばかりでは仕方が無いことも、沢山の子を持つ大宮は知っている。
「とにかく二人の子、これから生まれてくる子のこともよく考えなさい。それにあなたのここのところの様子に、五の君が心配していますよ」
「お姉様が」
七の君はようやく顔を上げ、母を見つめた。沢山居る姉妹の中でも、同じ大宮から生まれ、歳も近い五の君は、七の君にとって一番心を許しあえる仲だった。
「ああそうそう、五の君はいつも安産でしたね」
「お姉様に会いたいわ、お母様」
「まあ、子供の様な言い方だこと。五の君にあなたの所に顔を出す様に伝えましょう」
姉の言葉だったら聞くかもしれない。そんな気持ちを込めて大宮は七の君に言う。
五の君の方には、その辺りを言い含めて置かなくてはならない、と一方で考えながら。
*
その様に女が悩む正頼邸ではあるが、着実に正月の支度は進んでいた。
種松が正頼に届けた米五石と炭五荷は仁寿殿女御と女一宮の元に回されたとのことである。
*
さて年も明けて、一月一日。
三条殿の正頼が住む北の御殿の東面に、子息達十一人がずらりと並び、大宮と正頼に新年の挨拶をする。
また、仁寿殿女御の元にも、息子達四人の皇子、続いて仲忠が挨拶をする。
彼等はその後に正頼の元へ向かった。そこでは青色の表衣に蘇芳襲の汗衫を着た童が褥や御馳走を運んで来る。
やがて正頼は皇子の一人に杯を持たせると、そこにこう書き付ける。
「―――私の大切な人とこうして団欒できることは何と嬉しいことだろう。今日の様に毎春を皆と共々祝いたいものだ」
歌と共に杯が仲忠に渡される。杯の中の歌を見て、仲忠も返しを詠む。
「―――たとえ春が来ない様なことがあったとしても、今日のように団欒することは決してありませんよ」
その様な応酬の後はもう皆で酒を酌み交わすばかりであった。
*
その後正頼の一族は皆で参内することとなった。
この日、内裏には公卿達がずらりと揃う。ただ一人、藤大納言を除いて。
妻である七の君が籠もってしまって装束を整えることができないのだ。仕方なく彼はお気に入りである娘を可愛がってあやしていた。
この様にして上達部達は内裏の右近の陣に到着した。女御腹の皇子五人、正頼、仲忠が帝の元へと向かおうとする。
彼等がいつもの様に女御や更衣の局の前を通って行くと、中宮の女房達の囁き声が聞こえる。
「あの仁寿殿女御の皇子達をごらんなさいよ。ずいぶんとおませなことじゃありません?」
「皇子達というより、まるで皇女達が揃っている様に見えますこと…」
「この名高い美しい皇子が、どうして仲忠どのに目をつけられたのでしょうね」
など、口さのない言葉がぽんぽんと行列に投げ付けられる。
ちなみに仁寿殿女御腹の皇子は、一宮が三品、帥の宮は四品の位を与えられている。
次の皇子は、親王ではあるが位は与えられていなかった。ただ、この宮も上の二人同様、黄丹色や梔子色の袍を着ることが許されている。
六宮はさすがにまだ大人では無いので、その扱いは受けられなかった。
皆揃って蘇芳襲の綾の表の袴をつけ、御所へと向かって行った。
そんな中、仲忠は一人、目的の場所へと足を進めていた。
彼がまず向かったのは藤壺だった。
「まあ、仲忠さま」
「久しぶり」
取り次ぎに出た孫王の君の表情がふわりと明るくなる。仲忠もまた、昔なじみの笑顔に気持ちが明るくなる。
「仲忠が拝賀に参上した、と藤壺の御方に伝えてくれないかな」
すると相手の表情がふと曇る。
「このところはこちらではなく、上の御局にいらっしゃるのですよ……」
「と、言うと?」
怪訝そうな表情で仲忠は問いかける。東宮は藤壺をずっと離さないというのだろうか。
「先日、大殿が御方さまをお迎えにおいでになって以来、東宮さまのご機嫌がずっとお悪く……」
「引き込んだままってこと?」
孫王の君は黙って苦笑する。
「その時一緒に居た女房以外、同じ局であっても近づくことを許されないのです」
「誰?」
「兵衛とあこぎが一緒でした。それは確かです」
「兵衛の君とあこぎなら、まあ安心だ。他の女房や女童よりは信頼できるしね」
「ですので、せっかくおいで下さったのに折角なのですが…」
「いやいや」
仲忠はゆったりと首を横に振る。
「そういう事情なら仕方無いよ。じゃあまた日を改めて。あなたも元気でいてね」
「仲忠さま」
孫王の君は不意打ちの言葉に顔を上げた。ここで仲忠が自分のことを気に掛けてくれるとは、彼女は思ってもみなかったのだ。
「僕はこれから梨壺の妹の所に行くけど。他人のことに熱心なのはいいけど、根を詰めすぎてあなたが倒れでもしたらどうするの」
「私は大丈夫ですわ」
「そう?」
「いつだって、そうだったじゃないですか」
少しの沈黙の後、そうだね、と仲忠はつぶやくと藤壺を立ち去っていった。
その背を眺めながら、孫王の君はつぶやいた。
「あなた様こそお元気で」
*
その後仲忠は、東宮が藤壺の元へ向かった辺りを見計らい、異母妹の梨壺の君の方へ向かった。
「まあ、お兄さま」
穏やかで爽やかな気性の彼女はこの日も仲忠を気持ちよく迎えた。
だがこの日、梨壺の君はさらりと、だが心配そうに問いかけてきた。
「近頃、東宮さまと正頼どのの間に何かあったらしいのですが、お兄さま、何かご存じですか? 何でも、東宮さまは帝から何やら言われた… とも聞いているのですが… それがまた、私のことらしいので驚いているのですが…」
「うん、あなたのことを確かにこの間、帝と東宮さまの間で聞いたよ。内容はぼんやりとしていてあまり判らなかったけど」
本当は知っている。だがそこは本人の前では内容が内容なので、少しぼかす。
「最近はあなたはどうなの? 東宮さまのお召しはあるのかな」
「先夜お召しがありました。参上致しましたところ、東宮さまは女四宮さまを召したいのだけど、少し前の…… ちょっとした騒ぎのこともありまして、どうもその気になれないと」
確かに、と仲忠は思う。話に聞いただけでも、男としてはためらいたくなるいきさつだ。
「藤壺の御方はどう?」
「可哀想です。ただもう東宮さまの御簾の前に居間をしつらえせされて、そこで窮屈な思いをしてらっしゃる様です」
そう言って梨壺の君は自分の広々とした空間と比べるかの様にふっと天井を仰いだ。
「あちこちの乳母達も―――、ええ、藤壺に仕える方々も、噂しています。嘆いています。『どういうことでしょう、東宮さまは全くよそ目さえ遊ばさない。お二人は一体どういう御仲でございますのでしょう』と」
「まあ、ねえ……」
ふう、と仲忠は一息つく。
「ご寵愛が深すぎる方にはそういうこともあるんだろうね。ただ人であっても、愛しい愛しいと思うひとは、一時も離したくないと思うものだもの」
「そういうものですか。お兄さまも?」
彼はそれには笑って答えない。逆に問い返す。
「で、あなたのことはどう?」
「どう、と言われますと?」
「父上ったら、あなたの今度のことで、何か馬鹿げた想像もしてるんだよ。今更一体、まさか、ってね」
梨壺は少し考えていたが、やがて頬を赤らめて声を立てる。
「まあ、父上ったら」
娘が東宮を置いて誰か別の男と通じたのではないか、と想像しているなど。
「そんなことある訳ないじゃないの。東宮さまももちろんご存じでしょ?」
「ええ。昨晩『藤壺もそなたと同様に懐妊している様だ、ここ数年そういうことも無かったのに、不思議なことだ』と仰いました」
仲忠は苦笑する。
それまで淡泊だった方が、藤壺が入内したことで、何かしらに目覚めたのかもしれないな、と。
*
やがて七日になって人々の位階の昇進が発表された。
右大臣正頼は正二位、左大将兼雅は従二位、左衛門左は四位、宮あこと呼ばれていた行純はここで正五位となった。
一方、女叙位の方にもやや動きがあった。尚侍である仲忠の母が三位となったのだ。
*
さて、一月の最後の子の日である二十五日はちょうど犬宮の御百日に当たっていた。
この日の祝いの席は、祖母にあたる尚侍が賄いをすることになっていた。
当日になると、尚侍は車六台を仕立ててやってきた。
食事の用意となると、犬宮の前に沈の折敷が一二、それに金の坏といったものがずらりと並べられた。料理の入った檜破子は百も用意された。
曾祖父である正頼は司召の夜だったので昨晩から参内し、その場に居ないが、左大臣はやってきた。
仁寿殿女御や男宮達の前にも衝重や破子が並べられる。大宮や女宮、東宮の若宮達、その他の人々隅々にまで、檜破子が用意される。
また、藤壺には檜破子と、普通の破子をやはり十ずつ差し上げようと、仁寿殿女御が文をつけた。
「…新年には早速に賀状を差し上げないといけないとは思っていたのですが、不思議にも貴女様はこちらからの文はごらんにならないと承っておりまして。
その様に此方も控えているうちに、犬宮の百日の祝いをする頃になってしまいました。さすがにそれは申し上げない訳にはいけないと思いまして……
―――幾千万の御代を、かねて生まれ出た小松―――犬宮―――に月末の子の日の今日が百日の祝いであることを知らせてきます―――」
女御はその様に青い色紙に書くと、小松につけて送った。
藤壺は月半ばにあった踏歌の夜からは東宮から許されたのか、下屋に居た。おかげでこの消息文も読むことができる。
皆そのことにはほっとしていた。彼女はここしばらくというもの、ずっと東宮の側に居ることを強いられ、窮屈な思いをしてきたのだ。
若宮達もこの折りに母の元を訪ねることができた。
藤壺は送ってもらった檜破子は殿上人に分け与え、その後女御へと返しの文を書く。
「誠に不安になる位、この数日は里のお文も見ることができませんでした。お祝いの言葉はぜひ直接お目にかかって申し上げたいです。
犬宮はどんなにか大きくなられたことでしょう。楽しみです。
―――仰せの通り、幾千万にも及ぶ御代の子の日を迎えるはずの姫松――― 犬宮――― に、私も色々告げてあげたいことがあります―――
退出したいと思うのですが、なかなかそれが思うに任せないのが……」
女御はそれを受け取ると苦笑する。全く大変な妹だ、と。
やがて犬宮に祝いの餅を、と女御が折敷の洲浜を見ると、鶴が二羽と松が設えてある。そこへ兼雅の手でこう和歌が書き添えてある。
「―――百日の祝いが乙子の今日だ、と知らせてくれた。その乙子を数えていけば、姫松の齢は幾千年の代を保つだろう―――」
「これは大層立派なお手本ですこと」
女御は柔らかに微笑み、こう詠む。
「―――生まれてからもう百日の祝いになりましたね。めでたい子の日に当たって小松はその日を幾千代も数える程迎えることでしょう―――」
そしてまた尚侍、女一宮がそれに続き、犬宮の長寿を願う。
「―――百という数のの今日を今知った姫松は、どうして千という数を知らないことがあるでしょう―――」
「―――めでたい子の日に百日の祝いを迎えた姫松は、これから子の日を数え数えて長寿を保つことでしょうよ―――」
尚侍はそれらの和歌と洲浜を一緒に外に居た仲忠へと渡す。彼はそれを見てまた詠む。
「―――姫松は限りない乙子を迎え迎えて先年にもなる春を見るに違いありません―――」
仲忠は元の場所に差し入れたので、この歌は誰にも知られることはなかった。
その後、正頼、仁寿殿の宮達、祐純、行正、親純、行純などが次々に祝いの歌を詠んだのだけど、ここには特に載せない。
仲忠はその後、東の大殿の南の方へと向かった。
そこで藤壺腹の宮達の前に沈の折敷に小さな瑠璃の坏を捧げる。
次いで可愛らしい雛形の小車や銀や黄金で作られた馬等を並べ「宮様達、お出でなさいませ」と声を掛ける。
若宮と呼ばれている一宮はこの時、綾掻練を一襲、袷の袴、織物の直衣を身につけていた。現在五歳で、年の割に大きく、肌の色や髪の筋の美しさは母である藤壺の御方に似ている。高貴さは父東宮譲りであろうか。髪は背中にまで伸びて、海松の様にふさふさとしている。
同じ格好をした弟の宮は一つ下で四歳。髪はまだ短くて、肩までかかり、兄宮の様に気高い。
仲忠は兄宮弟宮の二人を一緒に膝の上に乗せ、話しかける。
「あちらに居る、うちの子に餅を食べさせるのですが、まずお二人に召し上がってもらって、そのお下がりを貰おうと思いまして」
「大将の子ね。僕、見に行ったことあるよ」
一宮は無邪気に仲忠に向かって言う。仲忠は内心はともかく、にっこりと若宮に笑みを向ける。
「そうですか、如何でしたか?」
「うーん、けど僕、見られなかったんだ。女一宮が隠しちゃって」
「僕がひどく泣いたの。そうしたら見せてくれたよー」
弟宮が割って入る。ぴく、と仲忠の頬が引きつる。
「それでね大将、抱っこさせてもらったんだけど、重くてね、落としちゃって。みんな大騒ぎ」
さっと仲忠の顔から血の気が引く。
「そ、そうですか。で、どうでした? みっともない子だったでしょう?」
「ううん、すっごく可愛かった! こっちに連れて来ようとしたけど騒いで止められちゃった。ねえ、大将が今抱いてきて」
子供だ子供だ。しかも宮だ。仲忠は内心の苛立ちを必死で押しとどめながら、精一杯言葉を紡ぐ。
「今は汚れていてきっと気持ちが悪いし、色々失礼なこともしますよ。いつか大きくなったら近くにお召しになって可愛がってやって下さいね」
「わあい、嬉しいな。遊ぶ子が居なくてつまんなかったんだあ」
ね、と若宮は弟宮とうなずき合う。
子供は純真だ。さりげなく仲忠の言葉の端に、未来の後宮入りを匂わせているのにはさすがに気付かない。
その後は仲忠が手ずから食事の用意をし、宮達にも箸で「あーん」と口まで御馳走を運んでやる。
「雛に子の日をさせるために、車を引いてきました」
そう言って用意した小さな車を宮達に渡すと、宮達は喜んでそれで遊びだした。
仲忠はいつもこの様に趣のある玩具をこの小さな宮達にあげたりする。含みが無い訳ではないが、それでも基本的にはこの藤壺腹の宮達は彼も好きなのだ。
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