第28話 東宮の執着の強さに退出できない藤壺の君
やがて三条堀河の家へと辿り着くと、南の大殿に車を寄せ、皆それぞれ降り立った。
この夜の殿移りについては、宮、兼雅、仲忠とそれぞれがしなくてはならないことをそれぞれに分担していたので、移動中はまるで顔を合わせることがなかった。
その三人がここでようやく皆一斉に顔を合わせた。
兼雅はこの晩はそのまま、南の大殿の女三宮のところに泊まることとなった。仲忠は母尚侍の方へと向かった。
「今から三条殿の方へ戻ります。でも母上、僕はまた明日も来ますから」
そう言って彼は正頼の三条殿の方へと戻った。
何せ涼に車も返さなくてはならない。向こうものんびりしていてはやきもきするだろう。
*
さて仲忠が返した車は予定通りに使われることとなった。退出する予定の藤壺の御方を迎えに行くのだ。
中心となるその車に、糸毛の車が三台、黄金作り、
前駆もまた凄く、今現在都に居る四位五位の者は殆どやって来ている。
とは言え、実際のところ東宮は藤壺の退出を許した訳ではない。仲忠の読みより更に事態は厄介なことになっていたのだ。
仕方なく、正頼は皆を引き連れ、自分が直接東宮に頼んで退出を許してもらおうと思っていた。
さすがの東宮も、これだけの用意をされては断れないと彼は考えていたのだ。中納言忠純を除く一族の男達を皆連れて行くのだから。
そのまま彼等は朔平門、縫殿の陣に車を引き立てて行く。
一方東宮はと言えば。
正頼達のその様子を寝所にて昼頃から眺めだし、不機嫌そうな声で「妙に気分が悪いな」とつぶやく。その手には藤壺を捉えたままで。
「そろそろお起きにならないと」
「嫌だ」
きっぱりと東宮は答える。
外では正頼が東宮に会おうと女房達に取り次ぎを頼む声がする。だが中の様子を聞くと、彼もそれ以上足を踏み入れることは出来ない。
仕方なく下に立ち、息子達はそのまた下、
正頼は幾人もの人々を間に入れて藤壺に迎えに来たことを告げようとするが、なかなかその言葉が届かない。
そうするうちに、昭陽殿の君に女房が告げる。
「うちの御方様と比べ、長年宮仕えをしている訳でもないのに一人寵を集めていた女が、今夜やっと里帰りをなさいますよ。ああ、すぅっと致します」
承香殿では下仕えの童などが、わざと聞こえる様な声で口々に言い立てる。
「御方さまー、今日は絶対に吉日ですよー。縫殿の陣の方に、物でも散らした様に車が立ってます」
「今日退出するんですよきっと。いえ絶対」
「出て行くひとなんて、百本の楚の鞭で打ってやるのがいいですよ」
あははは、と不躾なまでの笑い声が正頼の耳に飛び込んで来る。彼は思わず爪弾きをする。せずにはいられない。
正頼は口走る。
「―――は、娘を持った親などいい犬乞食だな。娘の中でも出来の良いと思ったのを宮仕えさせたというのに、こうも悪口を聞く様な羽目になるとはな! だったらいっそ、犬や鳥にでもやって大切にしてもらった方がましだったかな」
ちなみにそんな正頼の言葉は東宮にもちゃんと聞こえていた。
女房達に「もう夜が更けました」と正頼が催促しても、知ったことではない、とばかりに無視し続ける。
困ってしまい、彼女達は正頼には「お伝えすることができません」と告げるしかない。
正頼は仕方がない、と孫王の君を呼び立てる。
「……殿!」
「いいか、藤壺に後ろの方からそっと申し上げるのだ。『度々退出をお願い申し出てもお許しが出なく、また今こうやってあなたに思いもかけず敵が多かったのを知り、心配のあまりお迎えに参りました』とな」
「承知致しました」
うなづくと孫王の君はするりと裏側から忍び込む。
だがそれに気付いた東宮は慌てて起きあがる。あっ、と藤壺が思う間も無く立ちあがり、荒々しく出ようとする。
だが運悪くそこに脇息があった。
「うわ」
東宮はつまづいて倒れ込む。屏風や几帳がばたばたと倒れ、彼自身は腰をひどく打ち付けてしまった。
孫王の君はうわぁ、と思いつつ、東宮のその様子をしばらく躊躇いながらも眺めていた。
やがて来た時同様、彼女はするりと抜け出すと、中で起きたことを正頼に伝える。東宮たる者のあまりの醜態に、正頼は大きく深く、しかし聞こえない程度にため息をつく。
「ああ更に御気分を害したことだろうな」
「恐れながらその通りかと」
孫王の君も聞こえるか聞こえないか程度の声で答える。
「だが翁のわしが夜分ここまでやってきたというのに、そのまま帰れるか」
めげてはいられない、とばかりに正頼は息子の一人に命じる。
「
しかし顕純も気がすすまない。その役目であるから余計に、東宮の性格は良く知っている。
「ご機嫌が宜しくなさげですので……」
「不甲斐ない奴め!」
そして東宮はその様子を聞こえる範囲で聞き耳を立てている。無論聞いていて気分の良くなる話ではない。ただでさえ腰も痛い。醜態を藤壺に見られたことも情けない。
その藤壺は、と言えば、それでもできるだけ平常心を保とうとしている様だった。表情をできるだけ動かさず、失態も見ないことにしようと決めているかの様だった。
だが東宮にしてみれば、それが余計に腹が立つ。彼はぐい、と藤壺を引き寄せた。
「そなたが呼び寄せたのか?」
「いえ、そんな」
「いや、そうだろう。そしてああやって親兄弟大勢で詰めかけて、私を責め立てるのだ。それも私に黙って」
「知らないことです」
「そんなことは無いはずだ。いいか、これから私に黙ってそんなことをしてみるがいい。死んでやる。そなた無しで私は生きていけない」
「何をそんな不吉なことを!」
「いいやそうだ。ああやって皆で詰め寄ってそなたを無理矢理にでも退出させようというのは、一度出してしまったらもう参内させる気がないからだろう。そんなことは許さない。許さないぞ」
ぐっ、と抱きしめる力が強くなり、藤壺はうめく。
その動揺が伝わったのか、彼女の中、五ヶ月に育った子が無闇に動く。騒ぐ。外からも中からも責め立てられ、藤壺はどうしていいのか判らず、知らず、涙を流していた。
さすがにその様子に東宮も力を緩めた。自分に言わず、勝手に退出したがる。軽んじているのか、と憎くなる。だがそれを遙かに越えて、藤壺のことは愛おしい。
自分のその気持ち自体が東宮は嫌になる。そしてついこう口にしてしまう。
「そなたが何も言わないからだ」
「……」
藤壺は震えて何も言うことができない。
「私はそなたのためなら何でもする、と言った筈だ。してきた筈だ。なのにそなたは今でもこうだ。強情なまでに私から離れようとする。誰のせいだ? 仲忠か?」
「そんな」
「ああそうだ。入内さえしなければそなたは仲忠と一緒になれたかもしれない。あれと一緒になった妹の様な幸せが待っていたかもしれない。そうだ仲忠。私もとても大好きな男だが、時々居なくなってしまえばいいと思うこともある。親が大事にしている一人子、父帝にとっては、最愛の女一宮の婿に許した男、二つとなく労りたくなってしまう様な!」
違う、と藤壺は声も出ないままに首をただ横に振る。
「その様にしていてもそなたはただただ美しいな、藤壺よ。だがその美しさは罪だ。一体そう、仲忠にも匹敵した様な男達が、どれだけそなたのために無用の者となってしまったことか! 天の下全ての人々を悲しませるためのものだな、そなたの美しさは。なのに心は善くない。何故だろうな」
矢継ぎ早にまくし立てられる言葉に、藤壺は水を掛けられた様にがたがたと震えた。
彼女自身、東宮がある程度その様に思っていることは知っていた。判っていた。
だがこの様にあからさまに怒りをぶつけられるとは考えていなかった。
怖い。怖くて仕方がない。彼女は汗と涙でびっしょりと濡れたまま、腹のことも忘れたかの様にうつ伏せで震えるだけだった。
そして東宮は思う。この様な姿をしていて、それでもこの女は美しいのだ、と。どうしようもない程に。
「これからは私に隠し事などしないように。いずれにせよもうじき嫌でも出なくてはならないだろうから、それまでの辛抱と思うがいい」
その言葉に、東宮は自分をぎりぎりまで退出させないつもりなのだ、と彼女は気付く。
「無理に退出しようとするなら、どうなっても知らぬぞ」
どうなっても。藤壺は脅えた。他の妃達から四面楚歌の中で、たった一人守ってくれなくてはいけない人からこう言われなくてはならないなんて。
彼女はぐっ、と息を詰め、見えない様に拳を握りしめて堪える。
そして強く思う。誰も自分を無条件に守ってくれる者など居ないのだ。
強くあらねば、と彼女は思った。
*
正頼達は夜半過ぎまで立ち尽くしたが、結局暁には引き上げることとなった。
朝早く、
「昨夜は道が心配でお迎えに伺ったのだが、お許しが出ないので暁に退出した。車などの用意をするのも色々と厄介だったのだが。
子供は二十人がところ居る訳だが、そなたばかりを秘蔵っ子扱いに育て、早く人並みになって、光栄ある身になる様にと思ってきた私だ。実際入内させ、次々と皇子を誕生させてくれたことは非常に嬉しく思う。
だが昨夜、そなたを待つ間、そこらかしこで聞こえてきた忌々しいそなたへの悪口に、私は大層気が塞いだ。
いや私自身はともかく、そなたのきょうだいなど、若い者達に聞かせたい様なことではない、と思った。
どうか早く退出して、皆の気持ちを鎮めてやってくれると嬉しい」
藤壺がそれを読んでいると、東宮は「見せなさい」と言って取る。
父親としての正頼の心については、東宮も「実に気の毒だ」と思う。だがその一方で「退出せよ」との言葉に腹が立つ。
そこで彼は文を持ってきた親純にこう言伝させる。
「藤壺を謗る言葉を聞いてしまったことは気の毒だと思う。だがここの他の妃達の女房が勝手にすることにまで私は責任が持てない。正頼よ、そなたにとって面目が立たないというならば、そういう言葉は聞かなければいい。態度が目に余るなら見なければいい」
親純はしぶしぶそれを帰って正頼に伝えた。無論彼の気分が怒るやら悲しむやら最悪のものになったことは言うまでも無い。
そんな夫の様子を見ながら、大宮は呆れ半分、情けなさ半分にこう言う。
「だいたいそんな、これ見よがしに子供達皆ぞろぞろと引き連れて行くからいけないんですよ。しかも困った消息までして。あなたはともかく、子供達の将来のために困ってしまいますよ」
一方仲忠はそんな大宮の言葉をまた人づてに聞き、はあ、とため息をつく。
そして。
「だから言ったのに。そう簡単に退出なんて無いだろうって。藤壺の御方自身は人並みでなく慎重なひとなのに、ああいうことがあっちゃ大変だ」
そう独り言を漏らしたとのことである。
*
十二月。
京官の日がやって来て、左大臣忠雅、右大臣正頼、左大将兼雅が宮中に召された。
そして翌朝早くから、行事が済んだと言っては皆騒いでいた。
この時、正頼の家に関わる者達の中でも、大勢が新たに任命された。
衛門督には忠純の中納言、右近少将には親純、あこ君の一人が内蔵頭兼左衛門尉になった。だが彼等は誰一人として、東宮のもとへと慶びの挨拶には出向かなかった。
仲忠は、と言えば、帝の側に東宮が居ることから、皆に交じって参内する。その場で東宮が仲忠に向かって嫌味めいたことを口にするが、仲忠は気にしない。いちいち気にしていたらお勤めなどできないのだ。
挨拶もきちんとする。
「先日は文書の講読で大変お近くに寄らせていただきましたのに、他のことで色々と忙しく、ご挨拶もできなくて失礼致しました。御仏名が終わってから是非、とも仰有られ、ひたすら文を読むようなことが続きそうだったのですが、何かと用事がございまして」
ですので、と仲忠は続ける。
「年が明けましたら致すつもりでございます」
その様子を見て東宮は「上手く逃げたな」と思う。彼が決して好きで講読をしていた訳ではないこと位は東宮にも判るのだ。
そんな東宮はと言えば、ここしばらく藤壺を側から離さない。
本来彼女が居るべき藤壺ではなく、自分の御座所の近くに局を特別にしつらえ、そこから出そうとしない。
兵衛の君、孫王の君、あこぎの三人だけを側に置かせ、東宮はこう彼女に言い放った。
「用があるならこの三人に言いつけるがいい」
それ以外の者を近づけるな、自分の側から離れるな。
そんな東宮の思いが鋭く彼女に突き刺さるかの様で、藤壺はぞっとする。
怖い。ひどく怖い。だが彼女はその一方でくっと口の中を噛みしめ、心に強く決意する。何も言うものか。脅えてみえるならそれはそれでもいい。
いずれは退出できる。しきたりがそうなっているのだ。しなくてはならない。その時までは心を強く持たねば。
不安になるのは自分ばかりではない。腹心の女房達、いやそれ以上に自分を宮中に入れた父母、一族郎党に及ぶのだ。
怖い。だが。
藤壺は耐える。
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