第27話 女三宮を迎えに行く

 さてその翌日のことである。

 仲忠は装束を改め、香をしっかりと薫きしめると女一宮に向かって告げる。


「三条の父上の家に行ってくるよ。ずっと考えてた、やらなくちゃならないことをやって来るから」

「やらなくちゃならないこと?」

「いろいろとね」


 その辺りは曖昧にぼかす。こういうことはきちんと出来上がってから自然に知れる方がいいのだ。



 仲忠はまず三条殿の南の御殿へ向かった。涼の所だ。約束は守ってもらわなくてはならない。

 やがて、お揃いの装束を整えた男達二十余人を付けて、新しい黄金づくりの車が用意される。

 糸毛の車には束帯をつけた身分の低い男の侍が三十人ほど付けられている。

 また、四位の者が十人、五位が二十人、六位ともなると三十人…… とばかり、沢山の者がお供に、と控えている。

 仲忠は彼等に命じた。


「あのね、こんな感じにして欲しいんだ」


 はあ、と彼等はうなづく。


「まず、馬に鞍を置いて。そしてそれを引き連れて父上の家へと向かって欲しいんだ」


 ややこしいことだ、とその場に居るものは思う。偉い人はそうなのだろう、と納得する者も居る。

 ともかくその様に、との命である。従者達は言われた通りの態度を取る。そして仲忠は一度三条の兼雅邸へ向かう。

 そこからは身軽だ。親子揃って一つ車に乗り込み、先駆けも二人ばかりで、彼等は女三宮の一条の家へと向かった。


 一条殿に着くと、二人は西の門の方で車から降りた。

 仲忠はそのまま女三宮のもとへ挨拶に出向く。

 一方、兼雅は前々から気になっていた中の君の様子をこっそりと窺いに向かう。

 ちら、と覗くと。

 う、と兼雅は思わず声を立てそうになった。そこにあったのは、あまりにも哀れな光景だった。

 部屋の中にはうち破れた屏風が一揃い。煤けた夏の帷子をつけた几帳を一つ二つ立てたところに中の君は居た。

 そしてまたその姿が。

 煤けて黒ずんだ白のあこめに、所々破けた綾の掻練かいねりの袿を重ねただけ。

 そして。やはり煤けた火桶に少しばかりの火を起こし、夜とも朝ともつかない様な食事をしている様に見える。

 食台にあるのもごくわずか。白い陶器の椀に姫飯ひめいいを少しだけ盛って、おかずには山椒と蕪の漬け物、それに固い塩だけ。

 また彼女の前の調度と言えば、古びた革の蒔絵の梨地の箱や、硯の箱等が置かれているくらいなもの。

 ふと見ると、乳母が櫛の箱の蓋を取りのけて、いつぞや兼雅が彼女にと贈った黄金の粒が入った柑子の壺から残りを掻い出している。

 そしてその乳母の娘や孫が、中の君に仕えている様なのだが―――それだけである。他にちゃんとした下仕え一人も居ない。

 兼雅は愕然とした。昔は華やかに暮らしていたのに。そのはずだったのに。

 思わず彼の目から涙が溢れた。袖がびしょぬれになる程に泣いた。

 元々彼は決して悪い男ではない。ただあまりにも正直で迂闊なだけなのだ。

 ふっと見渡すと目の前に硯があった。そこから筆を少し借りると、兼雅は懐紙にさらさらと歌を書き、それを硯の上にそっと乗せる。

 今すぐに彼女と直接顔を合わせるのは実に辛かったのだ。


 一方、中の君は兼雅がそっと来て去って行ったのを知ると、嗚呼、と転がり廻って嘆いた。


「あのかたに今のこんな様子を見られてしまったなんて… でもどうしたらいいの、どうにもならないことだわ、もうどうなったっていいわ、私に何ができたって言うの、全てあのかたのせいじゃない……」

「御方さま」


 乳母はなだめようとするが、彼女の動揺はなかなか治まらない。


「それにしても嫌だわ。恥ずかしいわ。あの方にだけは、と隠していたのに。どうして私ばかりがこうなの? 私ばかり不幸なの? 生まれつきそうなる運命だったっていうの? ええきっとそうなんだわ。私のせいじゃない。運命よ。宿世よ。だからどうしようもないじゃない。けど嫌嫌、恥ずかしい……」


 自分でもどうしようも無い気持ちをただただ繰り言にする中の君に、乳母もその子もおろおろとするしかない。ただその中で孫の童が一人、彼女に紙を差し出した。


「何」

「御硯にかかっておりました」


 見覚えのある筆跡に、中の君の表情が変わった。


「―――見るからに涙が雨のように降って何もかもわからなくなり、言うべき言葉も見つかりません」


 中の君はどう返事をしたものか、と思った。せめて、何か。すぐには浮かばない。

 が、結局こう書いた。


「―――かつては二人で眺めた雲井を、別れたきりお見えにならないので、独り恨んで眺めています」


 さてそれではこの返しをどうしようか、と彼女が思ったとしても―――

 悲しいかな、ここには兼雅を追いかけて渡せる様なきちんとした女房が居ないのだ。

 中の君は返しを握りしめて、立ち上がり、寝殿に面した柱の辺りにたたずむ。

 ちょうど兼雅が東の一の対、女三宮の居る辺りへ行くところが中の君の視界に入る。う、う、と彼女はただ声を押し殺してうめくしかなかった。

 兼雅に追いつけないのが悲しいのか、悔しいのか、向かう女三宮が憎いのか、彼女にもよく分からなかった。

 ただ暫くの間、じっと男の背中を見据えていることしかできなかった。


 一方、女三宮の所には、二十人余りのきちんとした装束の仕える者や青い袙を着た童の姿がまず兼雅の目に飛び込んできた。

 ここは昔と変わらない、と彼は思う。建物も、御簾や屏風や几帳といった調度も、その整頓も、そこで仕える人々の立ち居振る舞いも、彼がまだここに住んで居た頃そのままだった。

 女三宮は仲忠が先に先触れをしていた為か、兼雅を迎える準備を既に充分していた。彼女は御簾の前に、褥を敷いて夫を待ち構えていた。

 ああ本当に変わらない、彼女もまた変わらない、と兼雅は思う。

 年こそ少し重ねたが、さほど容貌が劣ることもない。綾掻練の濃いもの薄いものを重ねた細長を季節に丁度良い程にきちんと着こなしている。

 火桶もすっきりと手入れがされており、炭櫃には赤々と火が焚かれている。

 やがて兼雅の前には昔と変わらず豊かな御馳走が出された。

 兼雅は女三宮に向かって言う。


「ここ数年は、朝廷からは見捨てられた様なみじめな有様でね。昔はそれなりに自分も出世するものだと思って、皇女であるあなたとそれなりにつり合いが取れるのではないか、と思っていたのだが…… 今では私の出世も立場もここ止まりではないかと思っている」


 女三宮はそんな兼雅の言葉を黙って聞いている。

 無論彼女は、夫の言い分が本当ではないことは判っている。兼雅はあくまで仲忠の母である尚侍一人に心を奪われて、自分達を放っていたのだ。

 そんなことは良く判っている。元々そういう人だということも、良くよく判っているのだ。

 そんな彼女の気持ちに構わず、兼雅は尚も続ける。


「そんな自分が恥ずかしく、わざわざそんな男があなたの様な方についていては、あなたの評判にも関わると思って、似合いの程度の女のところにずっといたのだ。だが私の命もこの先そう長くないと思うので、今私の住んでいる所…… まあ、漁雄いさおの住む様な所だが、時々いらしてはくれまいか?」


 長い長い前置きの末、ようやく兼雅は本題を切り出した。ああやっと言ったか、と女三宮は思った。


「今では、こんな風にでも生きていけるものだなあ、と思う様になりました」


 彼女はおっとりと言う。長い間自分を放っていた相手を恨むという風でもなく。正直、さほど関心が無くなっていたと言ってもいい。


「私のことはそれでいいのです。ただ心苦しく思うのは、私同様、妹の女四宮も…… 多少気性も何ですが、夫に見捨てられ落ちぶれてしまった、という評判が多少なりとも立ってしまったことです」


 女四宮が現在、東宮から避けられていることは既に噂になっている。


「私達自身がどう思おうと、世間の口に戸は立てられません。『親である嵯峨院や大后の宮の面目を潰した』と言われる中、参内もできないこと、それが苦しうございました」


 殊更にさらりと言うだけに、彼女の言葉は兼雅に突き刺さる。


「以前は『暫くのこと』だとあなたは仰有って、時々はおいで下さったものの、その後…… それを思うと、今の妹の様子も非常に自分と重なって悲しく思われることです」


 そうかそういう問題もあったのか、と兼雅は思う。女三宮だけの問題ではなかったのだ、と。彼は自分の迂闊さを呪った。


「それで先日仲忠どのに申し上げたのです。女四宮のこともあるから、と」


 成る程それで熱心だったのか、とようやく兼雅は納得した。

 やがて彼の前には、昔と変わらぬ程の御膳部が出てきた。とりあえず何かしら口にしつつ、兼雅は考えることにした。

 ふと、彼の目に、見覚えのある女房がよぎった。


「そなた、そう、左近と言ったな。昔を思い出して、私に湯漬けをもてなしてくれないか?」


 言われた側の左近は、ああ覚えていてくれたのか、と恐縮しつつ、金の坏に湯漬けを用意し、おかずとなるものを一緒に非常に美しく盛りつけて兼雅に差し出した。



 一方その頃、仲忠は仲頼の妹の住む方へと向かっていた。

 簀子の辺りに彼が立つと、女性の声がする。


「まあ、思いもかけない方がおいでになって。誰かの所とお間違えになったのでは?」


 いいえ、と仲忠はにこやかに答える。


「皆さんがあなたをお探しだったから、それをお知らせしようと思って」

「そんな人は知らないよ、と仰有ったので、まあそんなお気持ちだったのか、と気が付きました」


 妹君はそう言うと、簾のもとに几帳を立て、仲忠に茵と、絵を美しく描いた赤色の火鉢を火を起こして差し出した。


「もう少し近くにいらっしゃいませんか? 山に住むあなたの兄君とは僕も仲良くしていて、いろいろお話したものです。あなたもそれは聞いていると思うのだけど」

「あなた様のような素晴らしい方のことなど、法師となったひとの知ることではないだしょう。それに兄も、私の所には何の音沙汰も無く」

「どう致しまして。とっても良く知り合っている仲です。そう、先日もこれはあなたに言うべきだったと思ったんですが、あなたが彼の妹君だということを知らなくて、大層失礼致しました。父から聞いて、これは大変だとこうして伺った次第です。あの仲頼さんの妹君ならこれはもう、急がなくちゃ、と慌てて」


 まくしたてる仲忠に、くす、と妹君の笑う気配がする。


「本当言うと、色々聞いてはいました、あなた様のことは、兄から。でも今は疎遠になっていると噂に聞いておりましたので」


 遠慮していたのだ、と仲忠はぼかした言葉の向こうを推し量る。


「ねえ、これからは双側に親を持っていると思って欲しいんです。僕は、うちの父と仲頼さん、両方の代わりになりたいんです。僕は大した者ではないけど、あなたにとって、多少の頼りにはなるとは思うんです。どうでしょう? あ、そうだ」


 ぽん、と仲忠は手を叩く。


「仲頼さんは出家してしまって…… あの奥方はどうなさったのでしょうか。今どちらにいらっしゃるのでしょう?」

「ああ、あの方でしたら、親元にいらっしゃいます」

「宮内卿どのの所に?」

「ええ。先頃お訪ねした時には、私も身につまされて悲しく思いました。吹上から兄が帰還した頃がございましたでしょう。あの頃を思い出したのか、ずいぶんとお泣きになりました。あの頃はとてもあのお二人は仲がよろしかったのに」

「あの頃は、楽しかったなあ。確かに……」


 仲忠もしみじみと思い返す。


「あの方も、兄同様に出家したいと言われている様ですが、ご両親がお許しにならないので、せめて心ばかりは、と思って日々をお過ごしになられている様です」

「彼には子供も沢山いて賑やかだったと思うんですが、男の子だったか女の子だったか…… 今幾つくらいですか? どうしてますか?」

「女の子が一人、十少し、というところですか。男の子は二人。女の子より一つ二つ下ですわ。女の子は母君のところに、男の子は何やら物を習わすと言って、兄の元に呼ばれています」

「へえ、いいなあ」

「この上の子が、兄によるとずいぶん見込みのあるらしくて、自分より優れていると言ってましたわ。弟の方はさほどではないので、兄は困っている様です」

「彼は楽器なども、大層良いものを持ってたけど。山に持っていったのかな」

「子供に習わすから、と後で取り寄せました。ただ女の子には習わせません」

「何故でしょう」

「さあ…… ただ、兄はいつも、今居るところよりもっと山奥へ奥へと入りたい、と言ってよこします」

「どういうつもりなんでしょうね。そういう寂しいところに、幼い子供達と住んで。

 ―――睦まじいひとも妻までも捨てて、寂しい山にどうして独りで住む気になったのだろう―――」


 そう仲忠が詠めば、妹君はわっと泣き出し、こう返した。


「―――頼みにした夫も時々見えた兄も忘れることができないで、独り住みは里にしても心憂いものでございます」


 彼女が落ち着くのを待って、仲忠はこう言った。


「今日は女三宮が三条にお渡りになるというので参ったのですが、僕の住まいもそのうち広くなると思います。その時にはあなたをお迎えしようと思いますので、暫くはご辛抱願えますか」

「そんな」

「僕がそうしたいのです。それでは」


 そう言って、仲忠は女三宮の居る側へと戻っていった。



 やがて時も経ち、日も暮れる頃、兼雅は車の用意を整わせる。

 十二月、寒い時期である。政所から炭を沢山取り出し、所々に火を起こさせる。

 車に付き添って供や前駆けをする人々には餅や乾き物を出すなどの気遣いも忘れない。樽に入れた酒は貝づくりの器でもって温められる。果物や乾物などもそこに添えられる。

 やがて出発の時間が来る。まず髫髮や下仕えと言った者達が控えの車に乗る。

 次々に人々が乗って行く訳だが、その様子が外を窺っていた中の君にも判る。


「そうよね、今日は女三宮さまをお迎えにきたのよね……」


 乳母達は女主人を心配気に眺める。


「私は一体どうしたらいいの。この返しの文さえ、あの方に見せることすらできないままなのかしら」


 先程書いたものの、渡せないままになっている文を中の君は握りしめる。

 そんな彼女の気持ちが伝わったのだろうか。女三宮を車に乗せて出した後、中の君の所へと足を向けた。

 顔を出す訳ではない。だが言葉は伝えなくては、と兼雅は声を上げる。


「今日は女三宮のためだから、今度改めて必ず迎えに来るよ」


 すると中の君はたまらなくなって、手の中の文を思い切り投げた。

 お供の一人がそれを拾うと、兼雅に届ける。彼は後で読む、とばかりにそれを懐に入れ、車に乗り込んだ。

 仲忠は馬に乗って、前駆の役をしていた。

 その様子を見た世間の人々は驚くやら感心するやら。


「大将ともあろうお方が、継母に当たる宮をお迎えして前駆さきがけの役をお勤めになっていらっしゃるとは!」


 家に居たものも車を引き出してわざわざこれを見物しに来る。中にはわざわざ馬を駆り立てて来る者も居る。由緒ある檳榔毛びろうげの車から簾を上げて身を乗り出し、落ちそうなくらいの姿勢でしげしげと眺めている者すら居る。

 さすがにその様子には仲忠も呆れて、見物車の側によるとこう言った。


「何をご覧になってるんです? 僕? そうでしょ、僕以外に見るものは無いでしょう?」


 くすくす、と笑いながら。そして適当に女三宮からは視線を外させながら。

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