第23話 仲忠、父に本来の正妻・女三宮を迎えさせようとする

「い、いつからだ、それは…… 東宮さまはご存知か? ……まさか梨壺が、何処かの男と……」

「何言ってるんですか父上!」


 ぴしゃりと仲忠は怒鳴りつけた。


「冗談でもそんなこと言わないで下さいよ! 東宮さまがどうして知らないことがありますか! そもそも梨壺の君のところには、……まあ藤壺の御方はともかく、他の妃の方々よりは随分と東宮さま招いているんですよ! ご自分の娘がそんなに信じられませんか?!」

「そ、そうか……」


 兼雅はほっと胸を撫で下ろす。ああもうこの父は、と仲忠は眉を寄せる。荒げた調子も整えて。


「七月くらいからだということです」

「そうか…… それならまあ、よかったよかった。いやもう、昔梨壺を入内させて、この先頼もしいと思った頃には全くそんな兆しも見えなかったのに……」

「こればかりは天の配剤。どうにもならないことでしょう」

「だがしかし、こう騒がしい世に、ともかく懐妊したということは、何か不思議だな」

「僕が参内していた時、東宮さまも帝に知らせよう知らせようとしていた様でした。東宮さまはこの程は、帝のお側に二日ほどいらっしゃいましたよ。以前よりも御立派になった様な気がしました。御即位が近づいたせいでしょうか」

「東宮さまか……」


 ふむ、と兼雅は顎に手をやる。


「とても御立派な方だとは思う。思うのだが、現在藤壺の御方以外の妃に目もくれない状況というのは困りものだな……」


 仲忠は黙って微かにうなづく。兼雅は続ける。


「しかし藤壺の御方というのは凄い女性だ。現在はもう、后並みの扱いを受けている様なものだ。次の東宮に成りうる皇子を一人でなく、二人までお持ちだ。こういう幸福を独り占めしている様な人を、何でもない私達只人までが懸想していた訳だ。何とまあお気の毒なことをしたものだな」


 どちらにとっても、と兼雅は微妙に含める。


「あちらも梨壺同様、またご懐妊だそうです。少し梨壺よりは遅れて、だそうですが」

「それは…… ふむ。惜しいことだ。明王とおなりになる筈の東宮が、ただいまは大勢の方々を嘆かせておるのだな」

「ええ」

「藤壺お一人のために、他の妃達が父母同胞と一緒に嘆く。その下も嘆く。一体どれ程の者があの方一人のために嘆くことになるだろうな…… 特に嵯峨院の女四宮はどう思っておられるのだろうな」

「帝もそれをたいそうご心配に。……それでですね、父上」


 口調がやや改まったものとなる。


「な、何だ」

「父上も東宮さまのことをおっしゃる前に、どうか梨壺の君の母上、女三宮をお訪ねになって下さい」

「は? 何を突然」


 兼雅は驚く。まさかそこで自分が出てくるとは思わなかったのだ。


「帝はこちらにもそう仰られたのですよ。さりげなくですがね。妹君お二人までが似た様な哀しい境遇にあるのはたまらないものでしょう。……と言うか、女四宮の件と梨壺の件があったから、きっともう一人の妹君のことを思い出されたのですよ」

「ううむ」

「嵯峨院の御世も長くはお続きにならないでしょう。ですから、せめてお元気なうちに。宮にこう申し上げて下さい。『こちらにいらっしゃい』と」

「……何故だ? そんないきなり」


 兼雅は息子に向かって問いかける。そんな、父の妻に関することに息子が口を出すなどと。

 尚侍は不安そうにそんな二人を眺める。


「ここはとても広いですから。僕のためにと父上が新築して下さった所にぜひ」

「……何でそういうことを言うんだ。ここ三条の家は、そなたの母のためにと上げたところだ。そこに他の者が住むのは―――」

「心変わりだ、と母上に思われたくないと。そういうことですか?」

「仲忠!」

「すみません。お気持ちは非常に素晴らしいことですが、それは父上の独りよがりな思いではございませんか? 母上の気持ちを聞いた上でのことですか?」

「いや、それは……」

「全く違う宮とか女性ならともかく、おおもとの正妻である女三宮でしたら、母上とて何の不都合も無いのでは?」


 ちら、と尚侍の方を仲忠は見る。


「それにこの三条の家全てを宮に差し上げるのではなく、お招きして、そこへ時々父上が通うだけなら、何の遠慮がいりましょうか?」

「お前そうは言うが」

「母上だったら、きっとこう思うのではないですか? 自分が来る前はあんなに遠慮も無く振る舞っていた身分も高い方が、自分のせいで肩身の狭い思いをしている。ああ何って自分は罪なことをしている、辛いことだ、と」

「ええ…… 確かにそうですわ」


 尚侍はそう言ってほろほろと涙を流す。


「つい最近まで連れ添った方で、しかも今は宮仕えをなさっている御方までお持ちになっているというのに、今こうして侘びしい生活をしているのとは、どんなに哀しいことでしょう……」


 仲忠の言葉に、尚侍は口を添える。


「そうです仲忠、何も心配することはありません。母はここ数年ここにこうして居ることで、殿の御心は充分過ぎる程判っておりますから。もし今、殿が母を忘れてしまったとしても、何も恨む筋合いすら無いことです。それより何より、そなたの口からその様なことが出る、それが母はとても嬉しいのです。立派なことです」


 二人の会話を聞いて、兼雅は頭を抱え、ため息をつく。


「……ああもう、二人で勝手に…… 私は知らない。二人の間で勝手に決めるがいい」


 そう言って退散しようとする父の着物の裾を、仲忠ははっしと引き留める。


「そうはいきませんよ父上」

「……一体何をさせようというのだ? お前は」

「御文をお書き下さい。『何日に御迎えに参ります』と」

「何だと」

「それを持っていった上で、向こうの方にはこれからのことは詳しく申し上げましょう」

「……そなたの口から言えばいいだけじゃないか。今更私が何を?」

「いいえそうは行きません。父上の御文無しでどうして僕は行けましょう」


 そう言うとてきぱきと仲忠は硯や墨を揃えて父の前にどん、と置く。


「……何を書けばいいんだ? さて。今更別に書くことも無い」


 そう言いつつ、兼雅はさらさらと書いた。


「数年来、如何と申し上げるのも恥ずかしく、今ではどうおなりかとお案じ申し上げております。

 不思議な気がするのですが、どうしたことでしょう。昔の様に歩き回りもせず、無精になったのは。衰えて役にも立たなくなったのでしょうか。もうろくしたのとかさえ考えます。

 そういう訳で、そちらにも疎遠になりました。

 ここ三条は誰かしらおりますから、嫌だと御覧になる所もあろうかと恥ずかしくて、わざわざ申し上げることもできませんでした。

 こちらに住むひとのことは全くご存知ではないとのこと。この際、むさ苦しいところですが、こちらへお引き移りになりませんか?

 そうなさって下さるなら、当日迎えに参ります。

 改めて考えてみると不思議です。

 ―――どうして長い間疎遠に過ぎたろうと思います。恨むという時さえ無しに。

 詳細は使いに出す仲忠の方からお伺い下さい。仰せは承る様に、と申しつけておきます」


「はい、素晴らしい御文です」


 仲忠は満足そうに大きくうなづくと、それを押し巻いた。


「さすがに今日すぐにということはできませんが、明日必ず参ります。女三宮のことはいろいろと思うにつけて、おいたわしく存じ上げることがありますからね」



 やがて日が暮れてから、仲忠は涼のところへと、家司の中でも気の利いた者を召して使いに出した。

 「何を」と問いかける父に、仲忠は「少々借りたいものがありまして」と答え、三条の父の家を後にした。


 返事は、中の大殿に戻った仲忠が髪をとかせて入浴をしている時に来た。

 涼は予想通り「喜んで」と返してきた。仲忠は使いの者に沢山の禄を渡した。


「ずいぶんと身支度を熱心にして。どうなさったの」


 寝所に入ると、そう女一宮は問いかけてくる。


「明日はね、そのまま会うには恥ずかしくなってしまう様な方のところへ行かなくちゃならないんだ」

「……何処なの」

「嵯峨院の女三宮。あなたの叔母にあたるひとだね。僕の妹の梨壺の君の母にあたるひとだ」

「その方のところへわざわざ……?」


 怪訝そうに女一宮は首を傾げる。


「色々あるの」


 そう言うと、仲忠はそのまま休んだ。



 翌日目覚めると、美しい直衣装束を取り出して、薫物をしっかり染み込ませて、仲忠は出掛けることとする。

 その途中で藤壺の生んだ宮達が走り回っているのを見て、ふっと仲忠は笑った。



 女三宮の住む一条殿は二町の広さがある。

 中の大殿、すなわち寝殿があり、その東西に対の屋。渡殿がそれぞれに通じる様に掛けられている。

 寝殿から東の対屋にかけては宮が占めている。

 西には、兼雅の子を一人生んだひとや、昔寵を受けて全盛だった人達が、対屋の一つずつに住んでいた。

 全体的に、庭の池、木立の佇まいなど、実に良い風情がある。

 元々この一条殿は、兼雅が入内する娘、梨壺の君のために作ったものであるが、今ではその母である女三宮が主として住んでいる。

 他の人々も、上達部や皇子の娘ではあるのだが、親からは見放された形となっており、ただもう兼雅の世話にだけなって暮らしてきていると仲忠は聞いている。

 それだけに現在の様に寵も衰えてしまったというのに、帰るべき里も無い。立ち去ることすらできないのだと。それぞれの使人らしい者も、見込みの無い主人を捨てて、次々と去ってしまったとも。

 とりあえず仲忠は、東の一、二の対、南の御殿の前から、宮へと丹後丞を使いとして文を送る。

 すると兼雅の妾達についている女房は、こそこそと言い立てる。


「……ご主人様を悩ませた盗人の一族が何を! 冗談にも程があるわ。きっとあれよ。ここを寺と間違えたんだわ。そして途方もない願文を捧げてるのよ」


 もっともその様に言う者だけではない。今までの生活から救い出してくれる方がやっときた、とばかりに揉み手さすり手をする者も居る。或いは様々な呪文を唱える者も居る。

 かと思えば。


「……ああ、何って素晴らしい方なんでしょ。あの方を子に持つ方だもの。どうして殿がおろそかになさることがあるのかしら。私達の不幸は全て前世の宿縁が切れたからよ」


 そう言って泣く者も居る。

 中には自分の不幸も忘れ、仲忠を見て褒め称える女主人も居る。

 仲忠はそんな周囲の騒ぎはとりあえず受け流し、静かに歩いて、多くのお供を率いて寝殿の階の所に立った。

 すると宮の使う、可愛らしい童が四人程、大人が十人程やってきた。


「宮様はこう仰っております。あなた様に来て頂く筋合いは無い、間違いでしょう、と」

「ええ、今日このたびは、私は父兼雅の使いで参りました」


 仲忠はそう返させる。

 女房達は南の廂に御座を敷くと、可愛らしい童を通して仲忠に「こちらへ」と伝えた。

 やがて女三宮と対面が叶うと、仲忠は即刻用件を伝えた。


「度々参上したいとは思っていたのですが、いつも何やかや、忙しいことがありまして……」


 几帳の向こうに遠く、宮からの返答は無い。


「今日は父の使いで参りました。と申しますのも、『この御文を他の者から差し上げても信用なさらないだろう、ちゃんと御覧になる様に』ということで僕が直接」


 そう仲忠が告げると、ようやく女三宮は返事をする。


「仰る通り。あなたの様なお使いでなかったなら、思い出すこともなかったでしょう……」


 そう言って兼雅からの文を受け取る。


「仲忠どの、これは誠に兼雅どのからの文ですの?」

「はい」

「怪しいですね。一体、本当のお心でこの文をお書きになったのでしょうか」

「どうして嘘など。ご安心下さい。父は『三条の館には大勢住んでいますから、昔のようにはいきますまい。もしかしたら不愉快なこともあるかもしれない。だがやはりこちらへ来て欲しいのだ』と」

「……」

「向こうには大した女人は居りません。ただこの仲忠の母のみが、女あるじの様にして宿守をしております」

「その方お一人こそ、世間のさばさばして考えも無い女達大勢より、私には恥ずかしい方なのです。……時々お会いした折りにも、私の側から嫌なこともあったでしょうに、一体どういう」

「そんなことはございません」


 仲忠はきっぱりと言う。


「僕の母、そのひとこそが、いつも貴方様のことを思っては悲しんで父に申しておりました。それ故に、父もこうして思いだし、御文を差し上げるのです」


 宮はため息をつく。


「仲忠どの、私の人生はまあこんなものです。このままでも生きていけるでしょう。ただ父院が、『私の面目を潰す様な者が生き長らえるのが気がかりだ』と仰るのを聞くのが、大変悲しいのです」


 やがて女三宮の目には涙が溜まり始める。


「何も気の強いことを申したとて、勇ましい訳ではありません。兼雅どのが私のことを少しでも考えてくれた、と父院のお耳に入れば充分です。本望です」

「ああ、それなら」

「……ただ、何れにせよ、これとはと人に見られもし聞かれもする位に言い交わした女が、男から忘れられてしまう程情けないことは無いでしょう。そしてあなたの母君、あの非の打ち所も無い、申し分も無い北の方が現在は居るというのに、そこへどうして私が行かれましょう。……でも」


 宮は苦笑する。


「ここはあなたに免じて、私は参りましょう」

「本当ですか?」

「嘘は申しません」

「ありがとうございます! ああ今日ここに来た甲斐がありました。では二十五日あたりにお迎えに参ります。つきましては、父へその故を少々お書き願えませんか」


 そう言って今度は宮からの返事を催促する。


「そのようなもの……」


 女三宮は躊躇する。


「わざわざ書かずとも、私がこう言ったとあなたがおっしゃって下さればいいでしょう」

「それは困ります」


 仲忠は本当に困った様な表情になる。彼も確約を取れないことには本当に困るのだ。


「御返事をいただかないことには、僕のほうが本当にそちらのご意向を伺ったのか、と父上に疑われてしまいます」


 そうですね、と宮は考え込む。

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