第24話 兼雅が後にしてきた女達のこと、そして正頼体制に対する愚痴愚痴愚痴

 その様に仲忠が女三宮と話している間、お供について来た人々は、宮の家司から政所に呼び入れられ、酒などを出されていた。

 主人のほうには、美味しそうな果物や乾物などが湯漬けや酒と共に出される。

 この賄いをしたのが、昔兼雅の召し使っていた右近というひとだった。今でもその容貌は衰えず、美しいままである。


「ああ、これが、父上が忘れられなかった程の一人ですね」


 思わず仲忠は大きくうなづく。


「そういうことを? 私の所には、良いとか悪いとかそういうことでは、そう思い出す様な者はおりませんのよ」


 宮は苦笑する。


「これからは僕もあなたを忘れないよ」


 そう言って仲忠は改めて右近に杯を差す。 

 その様子を見ていた宮は、とうとう自ら几帳の側まで進み、仲忠に度々酒をすすめる。


「ああ、ずいぶんと酔ってしまった」

「まあ。そんなにすすめた覚えはないのですけど?」

「御返事が無いと帰れないし。女三宮さま、どうぞこちらへ置いて下さいな」

「まあ」


 宮は思わず呆れる。困ったものだと思いつつ、返しを書き出す。


「珍しいあなたからの御文は本気でもあるまいと存じますが、不思議にも誠実で熱心なお使に心を惹かれてしまいました。

 ―――どれほどの年月をお恨みしていたから存じませんが、その間中泣き暮らしておりました―――」


 宮はそう書いて、醜く枯れ、紅葉の、枝にしがみついている様な一差しに文をつけて仲忠に渡した。


「夜の錦ということですね」

「……あなたが辛いと思うことは無いのですよ、仲忠どの」


 それでもやはり、やや申し訳無さそうに仲忠はそこから退出する。



 南の大殿に差し掛かった時、仲忠に向かって柑子を一つ投げつける者が居た。


「お、待っていました」


 仲忠はそう言うと、それを拾って胸元辺りまで差し上げる。

 同じように東の一の対、二の対から、それぞれ橘と大きな栗が投げ出されてきた。

 仲忠はそのどちらも拾い上げる。

 すると一の対から、三十歳くらいの人が、上品な愛嬌のある声でこう問いかけた。


「さあ、誰の所へ投げたのでしょう」


 ふふ、と仲忠は笑う。


「きっと『浮かれ人』にじゃないですか」


 そう言って帰途についた。



 そのまま三条の兼雅の家に向かうと、仲忠はまず兼雅に女三宮からの文を渡し、その時の様子を話した。

 兼雅は文に目を通しながらつぶやく。


「……お気の毒なことを仰る。時めいていた昔でも、皇女としては栄えの無い立場だった。ましてや今は、生きるにも甲斐がないと思うのに…… よく承諾したな……」

「父上」


 咎める様な目で仲忠は父を見る。


「ああそうだ、仲忠、一条殿は荒れてはいなかったか? どういう風に宮はお住まいだった?」

「奥の方は見ませんでしたが、見える限りでは、格別荒れた様子もありませんでした。政所の家司も沢山居りましたし、下人も多く、倉を開けて物を出し入れしていました」

「それは良かった。困っている様子は無いのだな」

「はい」


 兼雅は露骨にほっとした様子を見せる。


「元々あの宮は、嵯峨院から見れば三人目の皇女だが、母君からすれば一人娘だからね。その母君という方が結構な資産家だったから、受け継いでそのまま裕福に暮らしているのだろう。その中でも特に細やかな調度などは、宮の方にあるのだろうね」


 成る程、と仲忠はうなづき、納得する。しかし。


「……ん? 何かまだ言いたいことがあるのかね?」

「ええまあ」


 仲忠はそう言うと、懐から先程投げつけられたものを取り出した。

 柑子に栗と橘。


「これは?」

「父上がお忘れの、お気の毒な所を通りかかったら、ひどく打たれてしまいましたよ」


 ちら、と仲忠は父を見る。 


「……変なことをするものだな。どれ、見せてみなさい」


 兼雅はそう言ってまず栗を取る。

 するとその栗は、割って中の実を出して入れ物にしたものだった。実の代わりに、檜皮色の色紙に次の歌が書かれて入っている。


「―――去ってしまうとしても、来ればお立ち寄りになった道ですのに、今ではお通りになっても過ぎてしまうあなたの無常な仕打ちを見るのは悲しいことですわ―――」


 これは、と兼雅の顔色が変わった。

 物も言わずに次に彼は橘の方を見る。それもまた、中身をくり抜いた中に、歌が書かれた黄色の色紙が入っている。


「―――昔のことを忘れかねて、住み慣れた宿を離れることが出来ないでいます―――」


 慌てて兼雅は柑子の方も手に取る。そちらには赤みがかった色紙にこう書かれていた。


「―――私の親は私共二人を結んで安心してこの世を去りました。それなのにどういうおつもりで私のことをすっかりお忘れになってしまったのでしょうか―――」


 ああ、と一声うめくと、兼雅はその場に泣き崩れた。

 その様子を見て尚侍は気付いた。


「……このひとは、この様に沢山の、相思ったひとを全て捨てて、私とだけで暮らしてきたのだわ」


 そう思うと、様々な思いが胸に沸き上がってきて、彼女もまた涙を流さずにはいられなかった。

 仲忠はその母の涙を見て、ここで出すのでは無かった、とやや後悔する。母を悲しませるのは本意ではないのだ。

 それでも兼雅は、何とか立ち直ると、ぼつぼつと話し出した。


「この柑子を投げてきたのは、故式部卿宮の中の君だ。父宮が私を呼んでこう仰った。『私はもう長くない。可愛い可愛い娘のことが心配だ。そなたは浮気者だという評判ではあるが、私の娘は大事にしてくれるね』と。そして彼女が十三の時に見初めて、その後まもなく宮はお亡くなりになった」

「ほう」


 仲忠は冷ややかな目で父を眺める。


「堀河へ来てからずっと放っておいてしまった。きっと私のことを恨んでいるだろう」

「そうでしょうね」

「そう言ってくれるなよ」

「だって実際そうでしょう。では栗を投げた人は?」

「彼女は仲頼少将の妹だ」

「……仲頼さんの!」


 仲忠は驚く。自分の親友の。


「あのひとは、立派な人の妻に納まるべき素質を持っていた。遊芸の面では、兄の少将にも勝っていただろう」

「……そんなにも」

「本当に、この様な暮らしをするべき人では無いのだ。姿形も美しく、愛嬌もあった」


 仲忠は思わずため息をついた。どうしてそういう人を忘れられたりするんだろう。


「では橘の所は?」

「あれは先日話したろう? 先の大臣、橘千蔭どのの妹だ。大臣とは腹違いでな、皇女を母とする方だ」

「……ちょっと待って下さい、父上」


 仲忠は手を挙げる。


「当時お若かった先の方々はともかく、先の大臣の妹君ということは」

「うむ、まあ何というか」


 やや言い辛そうに兼雅は口ごもる。


「嵯峨院の梅壺の御息所と言って、大変な色好みだった方が当時居られてな……」

「無理矢理妻にしたのですか」

「……そういうことになる。歳は私より大分上で、親子くらい離れているはずだ」


 何とまあ、と仲忠は呆れる。


「他には?」


 もう驚かないぞ、とばかりに仲忠は重ねて問いかける。


「西の対には、更衣だったひともいる。先の宰相中将の娘だったが、琵琶の名手だった。その女は子供を一人生んだ様だが……」

「生んだ様だが、じゃありませんよ! 父上の子供ということは僕のきょうだいじゃありませんか!」


 どん、と仲忠は床を叩く。


「……い、いや、他にもあるんだよ。数えきれない程にはね」

「……威張ることですか」

「いいじゃないか、私は『色好み』で通ってたのだから。それが許される立場だったんだから」

「他の誰が許そうとも、この仲忠には納得がいきません。……ああもう、その方々に、母上がどんなに恨まれているかと思うと」

「……そ、そうか…… そういうこともあるな。……うん、ともかくこの中の君には返事を書こう」

「どうして中の君だけなんですか! 全部書きましょう全部!」

「……全部かね」

「受け取ったのは僕ですし。受け取らなかった、父上に見せなかったと思われるのは嫌ですし」

「そうか……」


 兼雅はやれやれ、という顔になると、人を呼んでこう命じた。


「納所にある大柑子の中から、大きくて疵の無いものを三つ持ってきてくれ」


 そして底の凹みのある所から中の実を取り去り、壺の様に細工する。


「……さて、何を入れたものやら」


 細工を終えた兼雅はつぶやく。すると尚侍がすっと小さな桂の箱を兼雅に差し出す。


「何かね」

「御覧になれば判りますわ」


 蓋を開ける。そこには金の粒がぎっしりと詰められていた。


「……ああこれは。これなら…… 向こうも助かるだろう」


 尚侍は黙って微笑む。

 渡された金の粒を、兼雅は柑子の壺の中にそれぞれ縁までいっぱいに満たした。その上に蓋として、切り取った部分を乗せ、全体を黄色の薄様の一重ねで包み込んだ。


 まずその一つ、柑子の相手、中の君にはこう書きつける。


「―――父君と昔固く約束したことを忘れていないのに、あなたと訪ねないという私は真の私ではないのでしょう―――」


 栗を投げた仲頼の妹の所にはこう書き付ける。


「―――宿を出るとどこと言って当てもなく彷徨うので、どう歩いているのかはっきりしないのです―――」


 そして最後の一つ、橘の所には。


「―――私が通った宿を形見として、物思いに沈んでいるあなたを哀れに思わない日はありません―――」


 そう書き付け、それぞれに印をする。

 そして「これは南の大殿、それは……」と区別し知らせる。仲忠はそれを聞いて、御供の中の小舎人の中に居た殿上童を呼ぶと、届ける様に命じた。


「ところで父上、除目じもくがありますけど、おいでになりますか?」


 仲忠は父に問いかけた。


「は、どうして参内なんかできようか」


 兼雅は皮肉気に笑う。


「また何故」

「何故とそなたが聞くのか? そなたにとっても面目つぶれなこの父に」

「また面目つぶれなどと」

「実際そうだろう。先にそなたが昇進した際も、正頼どのは右大臣になったが私はなかなかなることができなかったではないか」

「大臣に欠員が無かったんですから、順番として仕方ないでしょう」

「その欠員だ。どうしてその欠員が無かったんだ。誰かが辞職くれていれば良かったではないか。この頃ではもうあの右大臣の一族で独占して、金釘の様に固めてしまった。そなたまでも引き込んでな」

「またそんな」

「いやいや実際そうだ。だいたいそなたを女一宮の夫にして、一族に組み入れてしまったではないか。そなたを中納言にするべく空けさせた場所には、親である私こそを入れるべきではなかったか?」


 仲忠はまた始まった、とこっそりため息をつく。

 父は基本的に悪い人物ではない。だが能力の無さを愚痴にするあたりは仲忠もややうんざりするのだ。


「正頼どのは仁寿殿女御を大事にするあまり、そなたもまた大事にしてくれる。まあそれはそれでいいんだが、では私は何だ? そのそなたの父親であろう? その私を差し置いて、正頼どのは今は内裏で好き勝手している。全くけしからんことだ」

「はあ」

「新嘗祭の時もしばらく参上してなかったから、帝の御顔も勿体なく思いつつ行ったら、右大臣が我が物顔に内裏で得意になっているし、孫である女御腹の皇子が選りすぐった玉の様に居並んで、子供達のほうはまたそれに群がる雲の様に着座して跪いていたよ。東宮になるべき藤壺の御方の皇子のことまで考えに入れると、もう私などこういう栄華には縁が無いことだよなあ、と考えるともう気が塞いで気が塞いで」


 兼雅はため息をつく。


「ああもう、一体どういう人が、そんな素晴らしい皇子達を産む『あそこつび』を持つ娘を持つのか、と思うよ。そうかと思えば、もう一つの『それ』があって、こっちはこっちで蜂の巣か何かの様に皇子を産みまくっている。天下の皇子達は皆正頼どののところの『あそこ』から出てきてしまうかの様だな。今度の御産でも藤壺の御方は、きっと男皇子を産むよ。私の梨壺は、今頃妊娠したところで、十二月の月夜の様に誰にもいちいち気にされたりしないだろう、凍える様に弱々しい女皇子を産む程度だろうよ。運が無い者というのはだいたいそういうものだ」

「まあ! 何をおっしゃるのです」


 尚侍はさすがに口をはさんだ。


「どうしてちゃんとお話にならないで、こんな品の悪い、毒づく様な事ばかりおっしゃるのですか! 昔を思い出して不機嫌になるのではないですか? 仲忠を子に持ったことを嬉しいとは思わないのですか?」


 彼女にしては珍しく強気で兼雅に詰め寄った。


「まだ腰が曲がる程歳をお取りになっている訳でもありませんから、それなりに出世なさることもありましょう。娘では上手くいかなかったとしても、男の子の子孫にもいい事があるのではないですか? 嫌ですわ、世間の人の様が深く考えもせず口にする様なことをぽんぽんとおっしゃるなんて、はしたない。あなたの様な方は、特に口になさらない様にしているはずのことなのに、わざわざ随分詳しくおっしゃること!」


 さすがに妻の滅多に見られないその怒った調子に、兼雅は驚いた。決まり悪そうに笑い、何とかこれだけ絞り出す。


「冗談、……そう、冗談だよ」


 何とか機嫌を直してもらおうと尚侍のほうを向くと、彼女はぷいと背を向けてしまっている。

 その背に掛かる髪ときたら長さは九尺くらいで、つやつやと美しく、御座所一杯に広がって、実に見事である。

 兼雅はその一房を手に取ると、顔に近付ける。


「……そう、この髪の美しい後ろ姿に魅せられて、私は聖人君子の様になってしまったのではないか。美しい女をたくさん家に据えて、女三宮を奪う様にして連れてきて、然るべき御方と崇めて、その一方では人妻にもあれこれ手を出していたなあ。行かないところは無いというくらいに。おかげであちこちの人から憎まれたりもしたものだ」

「ほぉ」


 仲忠はやや呆れた様に声を立てる。


「それに比べ、今時の人は不思議に真面目だな」

「それは僕のことを?」

「さあて。ともかく私は恐れ多くも天下の帝の御娘を妻にしながら、その宮の御姉妹の皇女達や、人妻なら帝の女御まで残さず自分のものにしてきたものだ。きっと前世の罪が軽かったので、私にはそういうことが許されていたのだなあ」

「何ですかそれは」


 さすがに仲忠も脱力した。


「自慢げに言うことじゃないですよ。僕は独身だった頃にあて宮のことを好きだったこともあったけど、良い機会があっても何もしなかったものですよ」

「私だったらそんなことはしないよ。いや今だって。そうそう、その方だって、退出して里内裏に居たら、その時酔っぱらったふりをして、部屋に入り込んでしまうんだ。そうしたら何もできまい」

「成る程、酔っぱらったふり、ですか」


 仲忠は相槌を打つ。


「そうそう。それで傍の者が騒いだら、『ああひどく酔ってしまったな、ここは何処ですか、中の大殿ではなかったですか』とあくまで酔っぱらいを決め込むんだよ」

「……ずいぶん悪いことを色々なさってきたんですね?」


 ちら、と尚侍は横目で夫を見る。兼雅は慌てる。しまったこんなことまで、と。


「仲忠は、父上がどんなことを言っても聞かないように、はやくあちらへいらっしゃい」


 はい、と笑いながらうなづく仲忠に、尚も兼雅は言葉を投げる。


「けど仲忠。男というものは自分をいちいち反省して、外聞を憚っていたら、理想の妻など得られないよ。普通に文を通わせて、親から許される時を待つという様なまだるっこしいことをしてるだけじゃ、何も出来やしない」


 仲忠は何も言わず、口元だけを片方上げる。


「相手の隙を見て、奪い取ってしまえばいいんだ。ましてそなたが心を乱して漁り歩いたところで、いい女にぶつかるという訳でも無い。まあ、藤壺の御方と、そっちの涼どのの所の奥方は早くものにするといいよ」

「……いつまでもその話をしているのでしたら、もう一つの用件は勝手に決めさせていただきますよ」

「もう一つの、とは何だ?」

「車のことです。女三宮を迎える時の」


 ああ、と兼雅は急に現実に戻った様な声で答える。


「できれば新しいものが良いので、そういう所から借りて来ようと思うのですが」

「ああそのほうがいいね。今からいちいち作るというのも何だし」

「で、此処暫く、太政大臣どのがご病気ということで――― 父上、何かその辺りで御消息は?」

「いや、今はどのくらい病気が重いのかな…… 弔いがある様なことがあったら消息もあることだろう」

「右大弁の藤英どのの言うことには、大臣の病は重いもので、もう辞表を二回提出されたそうです」

「二回か…… それはそれは」

「そういうこともあってか、何かと皆車が出払っている様で。涼さんに借りようと思っています」

「彼の所なら十台くらい軽くあるだろう、お前同様、妻ひとりに一途な様だし、物持ちだし」

「そうですね。そうした方がいいかも。ですので父上、お迎えの時にはよろしく。僕も出来る限りのことはしますから、もうどしどしと」



 仲忠が帰ると、兼雅はようやく、とばかりにうーんと伸びをする。

 そして傍らの妻に向かって宥める様に囁く。


「ああもう、妙なことをする子だ。自分ばかりいいひとの様な顔をして…… 全く、母の敵を引っぱり出してくるなど、子として何を考えてるんだ。そりゃ仲忠にも考えはあるんだと思うからいけないとも言えないが……」


 と言葉では言うのだが、心の中では仲忠に感謝する兼雅であった。

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