第18話 仲忠の講読と聞いて涼達、集まってくる

 実際に東宮が参殿してきたのは、午の刻、昼頃のことだった。

 立派な装束をまとい、そのまま座布団を敷いて父帝の御前に座る。

 父は早速息子に向かい、声を掛ける。


「そなたには今、何かと噂が飛んでいる様だが」

「そうでしょうか…… ところで父上、今日は仲忠はまだですか?」

「おお、そうだそうだ。仲忠を呼ぶがいい」


 東宮が参殿するまで、と仲忠はまた一度休憩とばかりに下がっていた。

 殿上の間にすぐ来る様に、と知らせが行く。だが仲忠は少し休む、と言ってなかなか腰を上げない。

 実際彼はかなり疲れていたのだ。帝もそれを慮ってか、それ以上の催促はしてこない。

 のんびりのんびり。帝に読まれてしまった文を読み返してみたり、女一宮から送ってきた装束を広げてみたり。

 「今度は特別」と女一宮がよこしたのは、蘇芳襲に綾の上の袴など、非常に美しいものだった。


「それではそろそろ支度するか」


 さすがの仲忠もようやく重い腰を上げた。



 仲忠は参殿すると、前日の様に文を訓読し、音読し、時には声を張り上げて朗読する。

 帝も東宮も日が暮れるまでそれを聞いて過ごす。

 やがてまた、夕闇が迫る頃となった。


「それでは一旦下がらせて頂きます」


 仲忠は一息つく。

 前日と違い、帝と東宮、二人の前での講義である。さすがの彼も、体中がこわばってしまったかの様だった。

 そこで一度帝の元へ蔵人を使いとして奏上する。


「一旦退出して、明朝早く参内することにしたいのですが、如何でしょうか」


 帝はそれを聞くと、あっさりと首を横に振る。


「暮れ難く、明けやすいこの頃、夜が最も興が深い。退出しない方がよかろう。東宮という珍客も居ることだし」


 返事を受け取った仲忠は深いため息をつき、仕方がない、と女一宮への文を書き始めた。


「今朝はありがとう。あなたの文のおかげで元気が出たよ。今日は退出してあなたの側に戻れると思ったのに、お許しが出ないんだ。ごめんね。ところで『そのあたりに』どうのこうの、とあったけど、それはもう昔のことでしょう? 遠い過去のことだろう?

 ―――昔は聞き伝えていたのに、身近に恋をして、袖は涙で燃える色になるでしょう―――

 昨晩は独りきりの侘びしさをしみじみ思ったけど、きっと今日程ではないと思うんだ。

 昨日来た衣を戻しますね。子犬ちゃんはどう? 言った通りにしてる?」


 仲忠はそう書いて、昨日の装束と共に家に送った。彼は暗くなるまで待ったが、女一宮からの返事は無かった。

 そのうち、宿直所に度々お召しがやって来る。返事を待っていたかったが、仕方が無い、と食事を済ませて参上した。


「文は夜が何と言っても興があるものだ。今夜はここで聞くがいい」


 そう帝が東宮にすすめるうちに、外で降る雪は次第に積もってかなり深くなってきた。

 御殿油が来て、短い燈台を左右に立てて点けて行く。

 帝の前には琴の琴、東宮の前には箏の琴、五宮の前には琵琶を置き、その前で仲忠は文を読み始める。

 昨晩と似た様な、だがやや違うような光景がその場に繰り広げられる。

 ふと帝がほんの少し奥に入った時に、東宮は仲忠の文の点を直すための筆を取った。何を、と持ち主が思う間もなく、東宮は懐紙を取り出し、さらさらと書き連ねた。

 藤壺の御方宛だ、と仲忠は思った。


「今夜は帝が文を聞く様に、と仰るので、心ならずも此方に留まることとなります。

 ―――瞬く間に消える白雪の様に儚い世の中だから、たとえ一夜でも一人で夜を過ごすことは何とも侘びしくて物足りません―――

 せめて短い命の私達がこの世に生きている間は、あなたと一緒に居たいものです」


「宮はた」


 はい、と少年はちょこちょこと側に寄る。宮はたは藤壺をこの宮中では「親」とし、その殿上童を勤め、またその縁で東宮付きの役もしている。


「渡しておいで」


 はい、とこの飲み込みの早い子供は、すぐに藤壺へと向かう。

 文を見た御方は白い紙にこう書きつける。


「―――辛い気持ちをまだ知らない真っ白な雪は、積もるそばから下の方が消えて行き、降っても降っても此の世には留まらないのですが、その白雪に厭われる此の世の中は、一体どういう所なのでしょうか―――

 その「憂き事」を知らない世の中が来ます様に。そういうことがどうして無いことがありましょう。ええ、無いとは考えられないのです」


「宮はた」

「はい」

「帝や仲忠の大将には決してお見せしない様にね」

「必ず!」


 少年は美しい主人に力強く約束する。

 実際その通り、彼は戻った時、帝の目が少し逸れた瞬間に、東宮へ手渡した。

 東宮はそれを取ると、すぐに開いて見る。

 ああ、藤壺は世の中を苦しいものだと思っているのだな、心のままに身を任せても、人ごとに心は違うものだな、と思うに連れて、東宮は知らず、涙ぐんだ。

 仲忠はそれを見た時、胸の奥が跳ねた。一瞬自分が何をしているのか判らなくなった。何処からだったか、忘れかけた。

 帝は急にしどろもどろになった仲忠の様子に気付くと、口を隠す扇の陰でふっと笑った。


「……申しわけございません。もう一度読み直します」


 仲忠はそう言うと、読み違えた箇所を改めて、更に趣深く読む。素晴らしく響き渡るその声に、周囲の賞賛は鈴を振ったかの様に降り注ぐ。

 帝は置かれている琴や琵琶などを、誦する声に合わせて選んで掻き鳴らす。


「さて今夜の文の録には何がいいかな……」


 そう一人ごちすると、側の五宮が不意に口を挟む。


「文は何とかしてこの度のを大将から私も習いたいものです」

「それは難しいだろう。そなたも何だが、仲忠の文才には及ぶまい」


 東宮と同じ血を引きつつも、やや劣るこの息子に対し、帝はそう優しく拒絶する。


「さてこっちの俊蔭の文集はしばらく置いて、こちらのその父君のものを今度は読もうではないか」


 そう言ってもう一つの文箱を帝は示す。

 仲忠は言われるままに文箱を開き、これまで全く関わりの無かったはずの曾祖父のものを取り出す。

 同じ様に読み出すと、やがて帝が満足そうにうなづく。


「文才は俊蔭よりも、その父の方が勝っているな。それにこの手蹟。そなたといい、俊蔭といい、この一族は不思議と皆誰もが素晴らしいものだ」


 彼等はその様にして明け方になるまで文集を読み続けた。中でも面白いところはやはり繰り返し朗読させて、琴を鳴らし、合わせて楽しむ。

 そのうち、明け方頃に非常に面白い箇所が出てきた。

 帝はその部分を仲忠に朗読させた後で、自分自身でも同じように口にする。


「五宮、そなたもなさい」


 はい、と五宮はうなづき、同じように朗読する。彼もまた声がいい。周囲に朗々と響きわたった。


「東宮、そなたもどうかね」

「皆の様な素晴らしい声では無いので」


 苦笑しつつ、東宮は断った。



 文集の講読もついに夜を徹して、明け方になった。

 そろそろお開きか、と皆が思う中、帝がこう口にする。


「東宮」

「はい」

「明日、もう一日だけこっちに居なさい。そなたにも満足がいく様なものを見せよう」


 そう言って帝は几帳を用意させ、東宮をそこに休ませ、自分も寝所へと入って行く。

 一方、五宮は台盤所に入ると、蔵人達の中で休むことにする。

 仲忠は侍所へと向かう。


「大将大将、僕も僕も」


 宮はたがちょこちょことついて来る。仲忠は少し考えたがやがて袖を開く。


「そうだね。今日は僕と一緒に休もう。おいで」


 はーい、と宮はたは喜んで仲忠について来る。


「おや仲忠さま、宮はた君もご一緒で」

「仲がいいんだよ、僕達は」


 ねー、と宮はたも無邪気に返す。

 一緒に寝転がると、仲忠は小さな声で宮はたに問いかける。


「君の姉君は大きくなった?」

「大きくもならないけど、小さくも無いよ」

「髪の長さはどう? 長くて美しい?」

「それはもう。長くて綺麗ですよー」


 楽しそうに言うこましゃくれた子供に、仲忠はふむふむとうなづく。


「父君は姉君を可愛がってる?」


 話は微妙に宮はたの父、祐純の方へと移って行く。


「どうだろ。今は弟を夜も昼も抱いてばっかりだし」

「そっか…… その弟宮はどう? 大きくなった?」

「やっと立つくらい。可愛いんだ」


 思い出したのか、宮はたはにっこりと微笑む。


「そう言えば、どうして君の父上は、北の方である宮をあんまり大切にしないのかな」


 祐純の妻は、かつて嵯峨院の梅壺更衣と呼ばれたひとの娘である。


「うーん……」


 宮はたは首を傾げると、やがてああ、と思いついたかの様にうなづく。 


「よく判らないけど、母上は南の方にばかり行って、父上が自分を他人扱いにする、って泣くことがあるよ」

「君の弟はずいぶんと可愛がるのに?」

「弟にはもう、今父上はめろめろですもん。僕や姉上よりも可愛いみたい。ちょっと淋しいなあ。……実はね」


 宮はたはこそっと声をひそめる。


「あのね大将、父上、三条殿に住むほかの宮が大好きなんだ」

「他の宮?」


 やっと食いついた、と仲忠は思う。彼はずっと、今朝方の宮はたの言葉がずっと彼は気になっていたのだ。

 父上がお好きな方だから自分も、と女一宮あての文を取ろうとしていた。


「三条殿にはたくさん居るよね。どの宮?」

「そりゃ大将の女一宮しか無いよ」


 不躾な言葉に、仲忠は苦笑した。


「どうやって父上は、女一宮を御覧になったの?」

「父上はどうやってかは知らない。僕はほら、女一宮が内裏にいらした時に、ちょくちょく僕も用事を言いつかって」


 子供というのはこれだから、と仲忠は内心ひやりとする。


「ちなみにそういう時に、誰かが宮に文をやったりすることはあった?」

「……それを言ってもいいのかなー」


 仲忠はくすくすと笑ってみせる。


「僕も上げたいなあと思ったことはあったけど」

「まあまあ。君には僕が上げるから」

「え、大将が!」


 如何にも嬉しそうな子供の様子に、これはこれで心配無いと仲忠は思う。ただ心配なのは、父親の方だった。

 祐純はあの兄弟の中では頭の切れる方である。また期待されていた仲純の死後は、正頼から現在、最も信頼されている。

 彼の正妻は位は高いが決して頼りになる経済力を持つ訳でもない。従って婿として家を離れてしまうことは考えられない。

 それらのことから、いずれ正頼の跡を継ぐのは彼だろう、と考えられているふしがある。

 仲忠自身にとっても、祐純はいい友人である。仲純が死んでからは、あの兄弟の中では確かに一番信頼できる男である。

 だからつながりは大切にしておきたいが―――

 女一宮のことに関しては別である。


「宮はた」

「何? 大将」

「夜が明けたら、藤壺の御方の所へ行ってこう告げてくれないかな。『いつも参内はするのですが、暇がございませんのでお伺いできなく』と」


 はあい、と宮はたは楽しそうにうなづく。時間は少ししか無いが、仲忠は宮はたを懐に入れて、少しだけ眠る。



 早朝、宮はたが起きると仲忠はその髪をなでつけ、装束を整え、藤壺の所へ向かわせた。


「あら、宮はた君、とってもいい匂いがするわ」

「本当に、一体何処の女の方の懐でお眠りになったのでしょうね」


 藤壺つきの女房達は軽く笑いながら少年を出迎える。


「女の方じゃありません。右大将仲忠さまと一緒だったんです」


 少年は少し顔を赤らめて抗議する。


「本当ですか? 女の方じゃなくって?」

「本当ですよ!」

「まあまあ」


 藤壺がなだめる。


「右大将どのが内裏においでになるということならば、頼もしいことですね。お暇な折りがありましたらこちらから申し上げたいことがあるのですが」


 そう伝えてくれますか、と藤壺は宮はたに頼む。はい、と少年は元気に戻って行った。


「仲忠どのは今どちらに?」


 孫王の君が「殿上の間に」と答える。藤壺は彼女を側に呼ぶと、仲忠に話すべきことの相談を始めた。



 一方仲忠のもとには、三条殿から女一宮の文が届いていた。


「昨夜はお帰りになると思っていたのに、結局戻って来なかったのね。夜中休むことが出来なかったわ。でもそんな大切なことがあったの?

 ―――降り続くということは恐ろしいものです。淡雪でも積もれば山となるんですから。……ちょっと帰れないだけ、と思っていても、それが積もり積もれば、怖いことになるのよ―――

 ってね。あなたがいつか私につれなくなるんじゃないかしら、とそんなことばかり心配しているのよ。でもちょっとのことだと思って、今は我慢してるの。会える時を楽しみに待っているわ」


 仲忠はそれを見てくす、と笑う。そしてさらさら、とその返事を書く。


「―――言う通り、雪が山になっては大変だ。越路では、道が途絶えて会うことができないということがあるそうだよ―――

 それを心配して、一晩眠らずに夜を明かしたよ」


 そのうち、雪が高く積もってきた。仲忠はもう一度宮に文を送った。


「夜の独り寝はどうだった? 返事が無かったものだから心配なんだ。宮からの文を無駄にする様なことは決して無いのに。

 ―――こういう風に会わなければ恋しく思うのに、そのあなたをどうして昔は知らないで僕は過ごしてきたんだろう―――

 ……とこんな風につい書いてしまうのも、思い出して欲しいからなんだ。

 それにうちの子犬ちゃんがとっても恋しいよ。あなたの懐に抱いてやっておくれね。今朝の雪は格別寒そうだから」


 仲忠はそう書き送る。

 そしてこの返事が来てから帝の元には参上しようと思う。昨日の様に色々と見られて騒ぎになるのは御免だったのだ。 



 参上してみると、殿上には涼、藤英、忠純の他に、正頼の子息達も沢山参上していた。


「どうして私に教えてくれなかったんだ。君と私の仲じゃないか」


と悔しそうに、だが楽しそうに涼は仲忠をつつく。


「別に涼さんにだけ教えなかったって訳じゃないよ。他のひとにだって」

「だからそこが私と君の仲だろう? 私は君の読む文章を聞きたいと思って、こんなに寒い日なのに、こうやって妻や子の暖かい懐を離れてきたんだからね」


 仲忠はそれを聞いて苦笑する。


「それは僕も同じですってば。お役目でなかったら愛しい妻や子の側でぬくぬくとしていたいんだから」

「そう君はお役目が何より大切だからねえ。私達は皆、お役目でなく、君のためにこうやって駆けつけてきたというのに!」

「お役目にもこの様にしっかり来て欲しいものだけど」

「またそう言ってつれないんだから。だいたい君はそうやって来た我々に、一言さえ聞かせてくれないじゃないか」


 そうだ、とばかりに周囲もやや意地悪な表情でうなづく。


「だって帝の仰せだから仕方ないでしょ。高い声で読めないんですってば。それにもうずいぶん長く読み続けて苦しいから、声も出なくって」

「それじゃあどうして、昨日は雪を貫き空を駆ける程の声を張り上げたんだい? 私はね、君こそ現在最高の博士だと思ってるよ」

「そんな……」

「その博士ときたら、酒を呑んで酔っても大声で読んで、我々を腸がちぎれる程感動させ、その声のありったけを聴かせることができた…… けどそうして聴いた我々ときたら、その文字一つ覚えていないんだ」


 そして涼はじっと仲忠を見る。


「ねえ、一体君は私をどれだけ惑わせれば済むつもりだい?」


 仲忠はそれには黙って笑う。


「またそんな顔で誤魔化す。琴を弾けば、私にすねを丸出しにさせて走らせて転ばせたりして。あの時は宮中の皆にずいぶんと笑われたものだよ」

「そんなに簡単にちぎれるなんて、弱い腹だね。涼さん感激屋だからなあ。……でもそれじゃあ聴かないうちは何、宮仕えもできないって言うの?」

「だから仲忠、君はあの書を、それこそ物の底に隠す様に読まないでくれないか。できれば」

「あのねえ涼さん。そんなこと言うと、石の唐櫃に入れちゃうから」

「書の中身も涼どのも一緒に壁の中に塗り込めてしまうおつもりか? 大切なものとして」


 藤英がくすくすと笑いながら口を挟む。孔子の「書中壁」の故事からの引用だ。

 それを受けて仲忠は答える。


「それだったら書の主も埋もれてしまうよ」

「貴い書を埋めるなぞ、明君の御代にはあり得ませんよ」


 行正もすっと口を出す。今度は「書経」の「明王」の引用である。


「この貴い書物が隠される理由からすれば、道理ですね。何と言うか、私の様に凡俗な人間としては、情けない、そう言われると余計に聴きたくなる。いっそ知らない方がましだったかもしれない」


 普段は冷静な行正の言葉にも熱が入る。

 その様に男達が話に興じていると、藤壺から、と大きな瑠璃製の甕や高坏で料理が運ばれてくる。

 他にも果物が皿に盛られ、酒が甕に入れられ、銀の結び袋には信濃梨や干棗、銀の銚子には薬用の地黄煎、炭取には小野の炭といった素晴らしいものが送られてくる。

 集まってそれを取り分けていると、やがて若菜の羮を入れた、銀の提げ手のある器が一鍋届けられた。

 蓋は黒方を大きな土器の様に作って凹みをつけて鍋をおおったもの、取手には女が一人若菜を摘む姿が象られている。

 そこに孫王の君の手で、古歌を引用し、こう書かれていた。


「―――貴方様のために、早春の野辺の雪をかき分けて、今日の若菜を一人摘んだ私です―――

 この様に若菜のあつものを料理致しましたが、召し上がって下さいますか?」


 側には小さな瓢を二つに割って作った黄金の杓子と、雉の足を折敷の様な器に沢山盛って添えてあった。

 仲忠をはじめ、皆が藤壺からの贈り物を見て笑い騒がずにはいられなかった。

 帝は遠くでその様子に気づき、台盤に御馳走を置いてつつきながら、その様子を伺い見る。

 酒が到着した頃に、宮はた君は雪の降りかかった枝を持ってやって来た。枝にはすっきりとした陸奥紙が結びつけられている。

 おや、と思って帝はよくよく耳を済ますと、宮はたは「女一宮さまからの御文ですよ」と派手にひらひらとさせて仲忠に渡す。


「こら、心を込めて認めた御文をそういう風に扱うものではないよ」


 涼は宮はたを軽く諫める。だが子供はにこにこと笑うばかりでその場から退くだけだった。


「今日はまだましだよ。昨日なんてあの子、帝の御前でああいうことするから、もう……」


 そう言って仲忠はふう、とため息をつく。

 なかなか困ったものだ、と帝も思う。しかし娘のことを思うと、ついつい内容も知りたくなる。そこでやはり背後からそっと覗いてみた。


「不安だ心配だとあなたは言うけど、御前にばかり居るということだから、きっとこの文だってお父様の帝が御覧になっているはずだわ。ところで『思い出すでしょう』と言うけど、

 ―――際限なく昔の自分が見えてきて、現在の自分は自分ではない様な気がするわ―――

 こう詠んでも、詠みきれない様な気がするのよ。今になってようやく世の中というものが判りかけた様な気がするわ。

 そうそう、犬宮はあちらの懐にばかり抱かれているわ」


 なるほどこれ程しばしば文をやりとりして――― この内容ならば、この男はちゃんと娘のことを思っているだろう。軽んじることなどないはずだ。

 帝はようやくそう思いほっとする。

 だがもう少し。もう少しここに引き留めておいて、仲忠の反応も見てみたかった。こうなると単なる舅の意地悪であるが。

 そう一人で決めると、やっと帝は御座所へと戻る。何も知らなかった様に平気な顔になる。

 殿上の仲忠達は、酒を呑み、食事をしながら何かと喋り騒いでいる。


「そうそう、鍋の蓋への返しをしなくちゃ」


 仲忠はご飯を丸め、物を食う翁の形を作り、洲浜の様なものに据えた。そしてこう書き添える。


「―――袖を濡らしながら雪の間を分け入って摘んだ若菜は、一人で食べろと言うのでしょうか―――

 あついものを食べる時間はまだ過ぎてませんよ」


 食事が終わると、仲忠はいただき物が入っていた器類をそのまま集めてそっくり返そうと、孫王の君のところへこう伝える。


「この器を全部お返しするのは、すぐにも明日また頂きたいと思いますからでして。その時に器が無いと、皆さんがお困りになると思いましてね」


 孫王の君などは、それを聞いてたいそう可笑しがる。


「空言ばかり。今でも空目で見てらっしゃるのに」


 そうつぶやくと、少し考えて返しの言葉を送る。


「大変立派な御厨子所の雑仕ですこと。あら、でもお返しになって下さった器の中でも、いい土器が一つ無くなってますわ。袖を解いてお捜し下さいません?」

「君が解いてくれるの?」


 ふふ、と孫王の君は笑う。仲忠は彼女にもたれかかる。


「冗談ですわ。駄目駄目。今はもう悪戯は」

「つれないな。あなたは」

「宮を大切になさっているかどうかは、帝が一番ご心配なされてますのよ」


 だからそういうあなたが、軽はずみな行いをなさらないで、と彼女は声無き声で伝える。

 仲忠は黙って笑顔を返すと、そのまま戻った。

 帝から「遅い」と催促が来ていた。


「今は駄目ですよ。涼さんにずいぶん酔わされてしまったもの。前後も判らないですから」


 実際は大して酔っていない。仲忠は酒には強い方だったし、そもそもそうなるまで呑みもしない。

 彼は宮と孫王の君と、二人の女性のことを思いながら、少しばかり休んでいたかった。

 帝もその様子を聞くと、仕方が無いとばかりに暫くは呼び寄せることを遠慮した。



 やがて昼近くに、青鈍の袴を柳襲にして非常に美しく着こなした仲忠は参上した。

 衣類には、麝香や煉香を移す。薫衣香なとも、特に念を入れている。

 帝は、仲忠に昨夜の俊蔭の父の文集を読ませた。

 長い時間、ただただ読み続ける。ひたすら読み続けさせる。

 やがて日もうつろい、暗くなって来る。すると帝が言った。


「今日は随分日が高くなってから始めたから、今ここを去ることはならぬ」


 休息を取らせることもなく、灯りを沢山点け、続けさせた。


 亥の時からは、それまでの文集を一旦止めさせ、小唐櫃の方を開けさせた。中には、唐の色紙を二つ折りにし、厚さは三寸ほどの大きな草子が数冊入っている。


「何が書かれておる?」


 帝は仲忠に問いかける。


「……まずはいつもの女手で、一つの歌を二行に書いてあります。他の一つの草子には草仮名で、前同様歌を二行に。同じように片仮名、葦手で書かれたものが」

「それではまず女手のものから読むがいい」


 歌集の歌は素晴らしいものだった。

 帝、東宮、五宮と仲忠が近く寄り、他の誰に聴かせない。 

 中宮が、仲忠が文集を読むということを聴いてこの晩は上っていたのだが、その彼女にも帝は聴かせようとはしない。


「女房達に聴かせないということはあっても、私にまでお隠しになることはないでしょう?」


 そう中宮は不服そうな声で言う。


「講師もそうは思わないか? 私が居るというのに。気を付けた方が良くないかしら」


 仲忠はそれを聞くと、読むのをぶっつりと止めて、困惑し、畏まっている。


「困った朝臣だな。いいから私の言う様にしていればいい」


 帝がなだめる様に口をはさんだ。


「別に誰が読んでもいいものではあるのだが、書かれているのだよ。血縁以外の者には読ませたくない、と。だからとりあえず仲忠に読ませているのだ」


 続ける様に、と帝は仲忠に命ずる。



 この様にして時も経ち、暁の頃、帝が言った。


「この草子がこんなに感動させるのも無理は無い。この草子を書いた俊蔭の母皇女は、昔有名な能筆で家人だった。嵯峨院の妹君で、先々代の女御から生まれた方だ。その様な方が、その折々に書いておいたものなのだから、見事なのだ。仲忠よ、これはぜひ女一宮に見せたのか?」

「一応は……」


 仲忠はうなづく。


「ただ、見つけたばかりのものなので、宮は中身までは見て無いのでは。題名くらいしか知らないでしょう。いつもいつも『今夜こそは』と構えている様ですが」


 すると帝はくす、と笑う。


「これは宮にそなたが読んでやるといい。……さてまあこっちは置いて……」


 帝は別の草子を示す。


「こちらを」


 それは俊蔭自身の日記だった。

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