第17話 俊蔭の文章講読、そして仲忠と女一宮の手紙のやりとりを眺める帝

 それから少しして、仲忠は帝との約束通り、先祖の文を持って内裏へと出向いた。

 帝はやってきた仲忠の姿や態度といった様子に満足する。


「こんな翁になってしまったわしは、この朝臣にそのまま会うなぞ恥ずかしい位だな」


 せめて女一宮の父として恥ずかしくない様に、と帝は化粧をして身繕いをした後に、清涼殿の御座所の側近くに仲忠を招き入れた。


「例の本は何処にあるのだ?」

「はい」


 仲忠は顔を上げる。

 それが合図の様に、沈木で作った文箱が一つ、浅香で作った小唐櫃が一つ、そして蘇芳で作った大きな唐櫃が一つ、次々に運び込まれてくる。 


「ほほう、これは実に大荷物であるの」


 開けてみるが良い、と帝は命ずる。

 まず仲忠は文箱に手をかける。

 中には厚さ二、三寸程の箱が二つ。それぞれに唐の色紙を二つ折りにし、揃えて綴じた冊子が入っている。

 一つは俊蔭の集であり、自筆の楷書である。もう一つは、俊蔭の父である式部大輔の集であり、こちらは草書で書かれていた。


「仲忠、そなたが訓読し、高い声で読むのだ」


 帝は命ずる。

 はい、と返事をすると、仲忠は楷書で書かれた漢文書を机の上に置いて読み出す。その声はいつもの儀式ばった宴などでする講師の声よりは少し低いものだった。

 一冊は七、八枚の紙で綴じられており、その終わりごとに帝は一度は訓読で、一度は漢音のまま仲忠に読ませる。更に、その中でも面白いと思われた文句は節をつけて繰り返させる。

 仲忠は生来良い声をしている。それだけに彼が悲しくも美しく読むところでは皆がそれに誘われてしまう。あちこちで袖口で涙を拭う姿が見受けられる。

 また、その仲忠自身も感極まって涙を流しながら読むこともあった。

 ちなみにこの日は、周囲には上達部や殿上人が皆集まって参内していた。仲忠が何か特別なことをする、というのは既に周囲の噂となっていたのだ。

 だが仲忠はこの文を帝以外の者に聞かせるのも何だし、と低い声で読み、帝も聞かせたくない、と仲忠をお側に近付けて読ませていた。

 したがって、皆は仲忠が声高く節をつけた時くらいしか、漏れ聞くことも出来なかった。



「……おおもう夕方か」


 帝の声に皆が夢心地から覚めた様になる。

 参内してからずっと講義を続けていたら、いつの間にか日が暮れてしまった。


「この頃は夜も長い。まだまだゆっくりしんみりと聞きたいものだ。まだ帰宅は許さぬぞ」


 そう帝に言われ、仲忠はとりあえず休憩に、と御前から殿上の間へと退出した。

 できればすることは済ませてさっさと帰りたかったのだが、帝の命なので仕方が無い。

 ともかく家の女一宮へと文を出すことにする。


「退出したいと思ったんだけど、帝は御聴聞を途中でお止めになって、夜になってから続けて読め、と仰られるんだ。

 だから今日は帰ることができません。こんな寒い日なのに、宮はどうしているかと心配になってしまうよ。

 できれば南にいらっしゃる女御さまにおいで願って、一緒に休まれるといいよ。そうそう、子犬ちゃんもお側にね。僕が帰るまでは子犬ちゃんは帳台の中から出さない様にね。

 こちらのことはご心配なく。あ、でも宿直用の衣服を少し送って下さい。わびしくとも、せめて衣と語り合って寝ようと思うよ。

 ―――中務の君、以上の文を、宮にお読み申し上げておくれ」


 そう書いた文を三条殿に送ると、すぐに折り返しの使いの者が宿直用の衣類をたっぷりと携えてきた。

 綾でできた赤色の直垂に綿を入れたもの。

 白い綾の袿。

 そして六尺ばかりのてんの毛皮を数枚継ぎ合わせたものに綾の裏をつけて綿を入れたもの、といった暖かな一揃いが一包み。

 口金のついた衣箱もあった。中には赤い綾の掻練の袿が一襲、やはり綾の袿を重ねて三重襲となる夜の袴、織物の直衣、指貫さしぬき、掻練襲の下袴を包み、入れてある。

 装束の色合いといい、焚きしめた香といい、打って出した光沢といい、実に素晴らしいもので、滅多に見られないものである。

 またその他、蓋が外せる箱に、髪を洗う道具も入れてあった。

 文の返事は中務の君からだった。


「仰られた通り、女一宮さまに申し上げましたところ、御寝具の類をお送りする様にと言いつかりました。夜寒についてはまだご存知ない、との仰せでございます。犬宮さまについては、そちらさまの仰る通りに、とのことでございます」


「うわ、素っ気ない」


 思わず仲忠はその返事に声を上げ、苦笑した。それでも届けてくれた宿直の支度はありがたい。早速彼は少し楽な夜の装束に着替えた。

 やがて休憩も終わり、とばかりに帝からのお召しがあったので、再び御前へと向かった。

 ちょうど夕餉の頃。帝は靱負ゆげいの命婦を召すと、仲忠と一緒に食事を取るから用意をする様に、と命じた。

 膳部のあれやこれやと、帝は仲忠のためにわざわざ心を砕く。そして側に伺候していた后腹の五宮に酒殿から酒を召させる。


「文を読むには酒が一番利くよ。近衛の者は酒を取り上げられてしまったら何が出来よう」


 帝はそう言って、仲忠に酒をすすめる。そして五宮にも「負けずに呑め」と言う。


「はい。こちらには御肴がございますよ」


 そう五宮が言うと、


「ちょうどいい。ではそなた、仲忠に酒をどんどんすすめなさい。そう、あの去年の十五夜の時のように」


 帝は酒の量を見る。


「この位なら何でもないだろう」


 そう言って仲忠に渡す。

 仲忠は仕方無い、と思ってもらう。

 実際それは、彼にはなかなか丁度いい分量だった。充分呑んでも酔った様子も見られなく、書物に向かって灯火に照らされた顔や姿がただ実に美しい。

 帝はそんな彼を見て思う。


『ちょっと見よりも、近くで見たほうが実に美しいな。……こんな素晴らしい男が、わが女一宮を本当に心から思ってくれているのだろうか? もしかしたら、わしの心を察して、その義理から思っている様な態度を取っているのでは?』


 そんな疑念が湧く程、文を読む仲忠の姿は帝の目から見て美しい。美しすぎた。

 やがて女御や更衣もやって来る。この日は承香殿女御が帝の御寝所に伺候するはずである。

 夜が更けて行くごとに、文を読む声、誦す声にも艶が増してくる。帝は琴の琴を持ち出し、声にそれとなく合わせ、掻き鳴らして行く。


「……ああ、あの俊蔭が昔、嵯峨院の仰せに従って琴をわしに習わせてくれたなら、どんなにか良かったろうに…… いやいや、どうしてもそれはできない、と断ったばかりに零落していったのだ。大臣にもなれる人だったのに……」

「祖父は大層失礼な、無遠慮な方だったのですね」


 戯れごとに帝はくす、と笑う。


「言うな。そなたこそ今、祖父のその態度を見習っているではないか」


 仲忠はうっすらと笑って言う。


「私が祖父の様でございましたら…… 祖父は真に全てに秀でた方でございましたから」

「それは嘘だな」

「そうでございましょうか」

「実際にどちらの琴も耳にしているわしがそう言うのだ。他の者とてそうだろう」


 そのまま時が暫く過ぎていく。


「丑四つ」


 夜警の近衛の官人が時を告げる。もうそんなになるのか、と帝はやや惜しげに、


「ずいぶん夜も更けたな。少し休むがいい。また朝早くから始めよう」


 そう言い残すと寝所へと向かった。

 仲忠もまた、殿上の間で休むことにした。

 だが今までの興奮がまだ覚めきらないのか、周囲に仲忠が来ている、とばかりに殿上人が沢山居るせいか、なかなか眠りにつくことができない。

 それでも寝転がっていると、忠純が声をかけて来る。


「昔はみっとも無い程良く寝ていたものだったのに、どうして庚申の時の様に眠らずに居るんです?」


 あなた方がそんなに騒がしくては眠るに眠れないでしょ、とはあえて口に出さない仲忠であった。



 早朝、帝は目覚めるとすぐ、仲忠の様子をうかがいに殿上の間の方へとこっそりと入って行く。


「お」


 隙間からのぞくと、仲忠は人の見ない間に、とばかりに奥の方を向いて消息文を書いている。


「どうして宮自身が返事をくれなかったの。淋しいな。暖かい寝具はもらったけど、

 ―――どんなに慣れている宮中でも、独り寝の寒さに袖も凍ってしまいました。寝具などは何の役にも立ちますまい―――

 宿直は寒くて、どうにもたまらない気分です。宮、今日も代筆だったら、僕は拗ねてしまうから」


 そう白い色紙に書くと、咲いている梅の花につけて、主殿司の方へ向かった。


「宿直所に僕の供人が居るから、誰かこれを渡してきてくれないか」

「はーい、僕が行きます」

「宮はた」


 にこにこと殿上童の一人が近づいて来る。祐純の子、八つになる「宮はた」君であった。言うが早いが、彼は仲忠の手から文を奪い取る。


「乱暴だね。どうしてそういうことをするの?」

「だって女一宮さまの所へでしょう?」

「まあそうだけど。それがどうして?」

「だって父上がお慕いしている方だもん。お会いしてみたいなって」


 楽しそうに言って、殿上口に立つ仲忠の供人へと少年は持って行く。

 ふうん、と仲忠は軽く眉を上げた。


 そしてその様子を見ている帝は。


「……どうやら朝早くから文をやるところを見ると、一宮のことをおろそかには考えていない様だな」


 帝は安堵して御座所に戻る。

 折を見て仲忠を召すと、彼は昼の装束をまとって御前に参上した。

 五宮も引き続き伺候する。

 やがてその場に、宮はたが呉竹くれたけを手に持って、ばたばたとやって来る。


「何ごとだ」

「仲忠さまー、宮からの御返事でーす」


 差し出す呉竹には、青い色紙が結びつけてある。


「ちょ、ちょっと宮はた、今はね――― 今僕が行くから、そんな騒がないで、帝の御前だよ」

「よいよい、宮はたよ、それを此方に持って来るが良い」


 はい、と元気に宮はたは返事をすると、帝の元へ差し出す。仲忠はそれを見て頭を抱えた。

 帝は青い文を開く。確かに娘の手跡だった。


「昨夜代筆させたのは、文がもしも他のひとの手に渡ったら…… と思ったの。別にあなたを軽んじた訳では無いわよ。

 ―――うわべは絶え絶えの様に見えながら、燃える思いでいらっしゃるあなたの袖が、どうして凍りなど致しましょう?―――

 あ、装束も送りますね。昨夜のはちょっと何だったから。今度のは特別よ」


 帝は微かに笑う。


「母の仁寿殿女御の手跡に似て、上品で若々しいが、内容はなかなか大人らしくて、世話女房の様でもあるな」


 微笑ましい思いでそれを無造作に巻き戻すと、仲忠へと渡す。

 仲忠は何とか平気を装いながら文を受け取って懐に入れる。


「さて仲忠よ、また今日も続きを頼むぞ。……おおそうだ、五宮」

「何でしょうか」

「そなたの兄に、東宮に使いを頼まれてくれぬか」

「何なりと」

「昨日から大層珍しい文を読んでいるから、こちらに是非に聞きに来る様に、と」


 五宮はそれを聞くと使いに立とうともせず、露骨な笑いを見せる。


「そう仰られても、兄上のこと、参上なさらないでしょう」

「ほぉ、それは何故だね」

「最近の兄上は少々普通ではございません。所に籠もったままなのです」

「何と」

「侍所の男達も困っております。『この一月ばかり、東宮の御前に伺候いたしません。全くお顔も見受けられません』と皆案じております」

「何とまあ。一体何処に籠もっているというのだね」

「それはもう」


 したり、という顔で五宮は笑う。


「藤壺に決まっているではないですか」


 仲忠は微かに眉をひそめる。


「何もあの御方だけしか知らないのならともかく、兄上は、院の女四宮は一体どうなさるおつもりなのか」


 皮肉気に五宮は言い捨てる。


「あれは、女四宮の所には通っていないというのか」

「今年に入ってからは全くですよ。それどころか、他の妃にしても、兄上には滅多にお会いになれないそうです。―――まあ、どういう暇があったのでしょうか、彼の妹……」


 そう言って五宮はちら、と仲忠を見る。


「そちらには時々いらっしゃる様ですが。そうそう、その梨壺の御方はこのたびご懐妊だということです」


 仲忠はそれを聞いて思わず腰を浮かせ掛かた。帝も五宮もそんな彼には気付いてか気付かずか、続ける。


「東宮にも困ったものだ…… あれはなかなかよく出来た息子なのでさして心配もしていなかったのだが…… それでも色好みの心で動いてしまうこともあるのだな。世の中は大層平穏だと思っていたのだが。古書にも色好みについては書かれている。只人ならともかく、帝王となる者には、いささか……」

「どう致したものでしょう」


 五宮は半ば困った様な、また半ば楽しんでいる様な表情で帝に問いかける。


「女四宮は中でも父院が可愛がっている娘であるからの。今淋しい思いをしているとなると……」

「院はどんなに悲しく思われることでしょう」

「そうだ。女四宮だけではない。女三宮も可哀想な生活を送っていると聞く。兼雅は一体彼女をどうしようと思っているのだろうな」


 仲忠は目を伏せる。父兼雅がその様に女三宮を顧みないのは、全て母尚侍と自分のせいである。

 尚侍への兼雅なりの愛情表現であることは判る。ずっと不遇な暮らしをしてきた自分達を、兼雅はここぞとばかりに他を顧みない程に大切にする。

 それが彼のやり方なのだと、仲忠も判ることは判るのだ。父兼雅は基本的に単純で愛情深いひとなのだから。

 だからこそ自分が救われた部分もあるし、その一方で母を取られてしまってた様な憎々しい部分もある。

 そんな仲忠の思いを横に、帝は続ける。


「概して女皇子というものは、独り身を通すのが無難ということだろうか。不幸な皇女達がこうも居るというのは心配なことだ」


 そうこう言っているうちに、東宮からの使いかやってきた。


「おお五宮よ、どうやらそなたの目論見とはやや違う様だな。こちらが誘う前にやって来る様だぞ」


 使いの者の姿を帝は認める。

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