第16話 藤壺の御方に対する東宮の並々ならぬ執着
女房の噂が姦しい辺りを通り過ぎた仲忠は帝の元へと向かった。
蔵人達に慶びとお礼を伝えさせる仲忠に、帝は喜び、差し招く。仲忠は舞踏して畏まった様子で帝の前に上る。帝はそんな仲忠の様子をしばらく見ながら、暫しの間何も言わない。
一宮はそう悪い出来の娘ではない――― いや、良い出来だと思って降嫁させたのだが、はて、仲忠はどう思っているのだろう。
父親としては、そんな考えもこの青年の前では浮かんでしまう。彼は問いかける。
「久しいの」
「は」
「何故ここ暫く参内しなかったのだ? 先だっても節会などがあったので来るかと楽しみにしていたのだ。そなたが来なくてたいそう淋しかったぞ。一宮の婿のそなたは、他の誰よりも睦まじい間柄であると思っているのに、これでは上達部より疎々しいではないか。もっと参内なさい」
は、と仲忠は恐縮する。
「無論でございます。私も毎日参内すべきではございました」
「では何故」
「……はい、この二、三ヶ月、先祖に当たる人々が残していった書などを、放ったらかしにしておいた場所に見つけまして、ついしばらくそれに夢中になっっておりました」
「先祖――― と言えば、清原氏の方か」
帝は身を乗り出す。
「はい」
「それは良いことだ。学問に身を入れるのは、そなた自身のためだけでなく、公のためにも頼もしいことだ。来年は高麗人が来朝する時ではあるが、博士共も、昔の様に賢い者は少なくなってしまった……」
ふっと帝は視線を逸らす。
「藤英にとっては心細かろうな、大した学者が居ない現在は。彼一人の肩に様々なものが重くのし掛かる。だからこそ、そなたを頼もしく思うよ」
ふう、と帝はため息をつく。そしてふと思い出した様に。
「ところで、祖先とは、かの
「はい。母方の祖父のものが大半です」
「記録や文章というものまで見いだして調べていることは素晴らしい。それは皆揃っているのか?」
「はい。一覧がありましたので照らし合わせて見ましたら、欠けている書物はありませんでした」
「おお、それは良かった」
「祖父、俊蔭朝臣は字が上手でしたが、その中でも一番達筆を揮った頃は有識でございました。その祖父が、書物を読んで抄物を書きました。またそれが実に詳細なものなのです」
「ほぉ」
帝は感心する。
「それはそれで、他に大変なものを見つけました」
「それは何だね」
勿体ぶる仲忠に帝はやや心がときめくのを覚える。
「清原家の古集の様なものでございます。祖父が唐に渡った日から、その父――― 曾祖父が日記をつけたのが一つ、詩や和歌を書き付けたのが一つ、そして祖父自身のものも」
「あるのか」
帝は身を乗り出す。
「はい。読んだ時には、非常に嬉しくも悲しくも感じました」
「おお仲忠よ、どうして、今までそのことを黙っていたのだ? あの知識人達が悲しんで書いた日記や詩や和歌は、どんなに優れたものだろうな…… やはりそなたは、そういう有り難い文章を手にすることが天によって決められていた様だな」
「いいえいいえ、めっそうも無い」
「うーん、それは一時も早く見たいものだ」
「……それらの文書を発見致しました時に、すぐ奏上すべきでしたが、曾祖父の文の序に、
『入唐で不在の間の記録は俊蔭が帰って来るまでは他人が見てはいけない。その間霊が付き添ってこの書を護る』
と書き付けてありました。また、祖父の遺言としては、
『この書は、後継者も無く、娘などの判る文書でもない。二、三代の間にでも後継者たる男子が生まれてきたら、その子にでも譲るものである。その間霊が護るであろう』
と記してありまして。……そういう訳で、その遺言を破る訳にもいかず、どうしたものかと」
「それはかの有識達が、数代後にそなたを後継者として迎えることを知っていたに違いない」
「かもしれません。事実、あの蔵から何かを取ろうと近づいた者はことごとく死んだと聞いています。ですので帝にその様な不吉なものをお目にかけるのは」
「ああそれなら、そなたが私に読みきかせるのなら良いだろう?」
さらりと言う帝に、はあ、と仲忠は呆然とうなづく。
「まあ今日は止めておこう。そなたの昇進を祝い、近衛司の者達を慰労するんだろうから、そう、落ち着いたらその家集や詩の抄物などを持たせて参内なさい」
「上……」
「正直私が一番興味があるのだ。特に俊蔭の足取りなど」
判りました、と仲忠は承った。
*
その後中宮や東宮の元へも向かったが、東宮はたまたま藤壺に出向いていて留守だった。
それでは藤壺へ、と足を向けると、取り次ぎには孫王の君が出てきた。
久しぶりの対面に、二人はにっこりとうなづき合う。仲忠はそのまま孫王の君に二人への言葉を伝えさせる。
「久しくご無沙汰しておりましたが、今日は慶びを申しに参上致しました。とりわけお聞き古しになったことで、昇進の沙汰など珍しくも無いでしょうが……」
東宮はそれを孫王の君から受け取り、ぽん、と手を打った。
「そう言えば仲忠はこのたび、右大将になったのだな」
「そうだったのですか?」
藤壺は驚いた。では、と彼女も言葉を託す。
「藤壺の御方からは『この二、三年近衛司にお勤めと伺っていましたが、今度も御転任にならなかったことを嬉しくお祝い申し上げます』とのことです」
孫王の君は仲忠にそう伝える。
「何となく、今日の様な慶びはいつまで経っても来そうにないとでも仰っている様だな。あの方もそんな風に、僕のことはお忘れになってしまうんでしょうね」
「ふふ」
孫王の君は笑った。
「どなたのせいでしょうか?」
熱愛する妻のせいじゃないか、と彼女はほのめかす。仲忠は肩をすくめる。
「嫌だなあ、あなたの処にもそういう噂が来ているんだ」
「ええ勿論」
「僕は今でもあなたのことは大好きだよ、孫王の君」
「何を今更。それにあの頃も私、申しましたでしょう? 今あなた様が素晴らしい奥様をもらって幸せなのを聞いて、私はとても嬉しいのですよ」
「またあなたはそういうことを言う…… 話を変えようか」
「逃げますこと」
「……東宮さまは藤壺の御方のことをどうお思いなのかな」
孫王の君はやや真剣な表情になる。
「昔とお変わりはありません。もう御方一筋で。……畏れ多いですが、ちょっと御方にうるさがられている感があります」
おやまあ、と仲忠はにっこりする。
「まあ仲が良いのはいいことだ」
「そうなのですが」
孫王の君の表情が曇る。
「何か心配なことでもあるのかい?」
「お聞きだとは思いますが…… 色々とよからぬ噂があちこちで」
「ああ……」
仲忠は合点がいったという様にうなづく。
「御方さまは東宮さまがその辺りをまるで考えて下さらない、と苛々なさって、いつも里に、三条殿に退出したがっておられます。ご自宅にお帰りになれば、気持ちも落ち着いてすっきりするだろう、とのことなのですけど」
「退出の許可が出ない?」
はい、と孫王の君はうなだれる。
「梨壺でもそういう噂はされているんだろうな。そう思うと兄としてはちょっといたたまれない気分になるけどね。こうやって御方のところへ挨拶に来るのもいけなかった様な気もする」
「いえそんなことは」
顔を上げ、彼女は慌ててうち消す。
「梨壺さまはそんなことは仰らない様です。東宮さまもあの方は以前から一目置かれている様で、藤壺さまに昼も夜もつきっきりと言われている今でも、あの方ばかりは時々何かの折りにお召しになります」
「そうか…… なら良かった。けど東宮さまにも少し困ったものだな」
ええ、と孫王の君はうつむく。
「藤壺の御方を独り占めしたいというのは確かに判るけど、次の帝ともなられる方なんだから、正式にお迎えした他の方にもきちんとした態度でいらっしゃらねば…… それにいつでもべったり、というんじゃ藤壺さまが何か東宮さまの側仕えの女房扱いされている様で、確かに外聞が悪いよね」
「外聞も何ですが、……それ以上に、藤壺さまの気分がそのことでどんどん滅入っていくことの方が私は心配なのです」
「孫王の君」
「私はその点気楽なんですわね」
ふふ、と彼女は笑う。
「孫王という名をつけられる通り、私は宮の娘で、育ち次第では入内だってあり得た訳です」
でしょう? と彼女は仲忠を見る。
「そうだね。あなたはそういう姫君の暮らしに憧れた?」
「こともあります」
「あなたは今でも美しいよ。誰かしっかりした人のところに縁付いて、のんびり幸せに暮らしたらどうかな、と僕は思うんだ」
「性に合いませんのよ、仲忠さま。生まれはどうあれ、母の思いがどうあれ、私はあの宮の娘で、あの騒々しい家で、だけどのびのびと暮らしてきました」
「知っているよ」
「ええ、あなたはご存知でいらっしゃる」
かつての昔馴染み。それと知らぬ間に男と女の関係も持っていたけど。
「結局それが私の地なのですわ。この騒がしい世界が私はとても好きなのです。誰かに仕えられるよりは、誰かのお世話をしている方が楽しい。あの家に住んでいた時も、私は姫、姫と呼ばれてはいましたが、内実は皆の世話に追われていた身でしたでしょう?」
「うん、あなたの手から渡された姫飯はとても美味しかった。今でも忘れない」
「その時の綺麗な男の子が急に笑顔で泣き出したのも、私、覚えていますわよ」
彼女はふっと表情をゆるめ、袖で口元を覆う。仲忠もつられて笑顔になる。
が、それは一瞬だった。すぐに二人とも真面目な顔になる。
「ともかく東宮さまには、もう少し藤壺の御方の立場のことも考えて行動していただきたいものだね」
「全くその通りですわ。……かと言って、私達にどうこうできるものでも無し。東宮さまとて、気付いてはおられるのですわ。きっと」
「それでもそうせずに居られない、のだったら…… それはそれで困りものなのだけど」
ふう、と仲忠はため息をつく。
ちなみに二人の話はひどく小さな声だったので、御簾の向こうの東宮と藤壺には聞こえていない。
*
仲忠と孫王の君が東宮と藤壺の噂をしている様に、話題にされている側も、している側の噂をしていた。
「……全く見るたびにあの男は立派になるものだ」
「……ええ」
「将来何になるべく、この様に生い育ったものかな。今のこの姿は、それこそ、あれの両親ですら、恐ろしいと感じる程素晴らしく感じられるだろうよ」
「一体何を仰りたいのですか」
「そなたは」
そう言って東宮は藤壺の顎をくい、と自分の方へ向けさせる。
「そなたはあの男のことを思い出すと不機嫌になる」
「……そんなこと!」
「顔に出ているぞ」
はっとして彼女は顔を背けようとする。だがそれは叶わない。では。逆に視線を合わせる。真っ向から東宮を見据える。
「仲忠は、容貌や学芸の点でこそ、わしに勝るだろうが、そなたに対する気持ちでは勝てまいよ」
「何を今更! あの方は既に女一宮のもとで良き婿、よき夫として暮らしていらっしゃるというのに」
「そう、たった一人の妻をそれこそ天女の様に大切にしてね。ああそうだ、私もそれに倣いたいと切に願うものだ」
「それは困ります」
「何が困る。女としてそれは嬉しくは無いのか。私の様な地位にある者は、妃一人を守ってはいないものだが、私は違う。そなたと他の妃を同列には扱いたくない。気持ちは無論そうだが、対外的にもだ」
「それが困ると……」
藤壺は苦しげに表情を歪める。
「ほう。それではそなたは私が側に居るのは嫌だと、邪魔だと言うのか」
「……そんなこと―――」
「そう、梨壺はそんなことは言わぬぞ。あれは素直だ。見た目はそなた程ではないが、愛らしく、すっきりとしている。それに両親――― 兼雅も、嵯峨院の女三宮も、心映えの優れた方だ。だからわしも、そんな両親や、何よりも仲忠が耳にすると思って、梨壺を時々呼ぶことがあるではないか」
「……そんな仰り様、梨壺さまが可哀想です」
「そなたがそれを言うのか? その言い方そのものが、梨壺を既に見下しているのではないか?」
くっ、と藤壺は息を呑む。
「私は世間の道理のことを申し上げているのです。そもそも東宮さまは、過去からのしきたりを、東宮としてのお役目を怠っているということになりませんか?」
「ずけずけと言うな。そこがまたそなたの素晴らしいところだ」
「次の帝ともあろう方がこんな風に女一人にかまけているなど…… 見下しているも何も、東宮さまがしきたり通りに皆様をきちんきちんとお召しになっていれば、私とて妙な噂を耳にせずとも済みますものを……」
すると東宮はにやり、と笑う。
「そうそう、そう初めから言えばいいでは無いか」
「……!」
「そなたは実に自分勝手だ。その昔、実家でちやほやされて、皆の気持ちを振り回していた頃、その一人一人に気持ちがあるなどとは思ってもみなかったのではないか?」
「……! それは、……けど! 皆が皆、私に本当の気持ちを捧げているとも感じられなかったのも確かですわ」
「そう思うのはそなたの勝手であろう。仲頼が出家する程そなたを思っていたことは知っていたか?」
「……いいえ。あの方は実に慎み深い方でしたから、私も通り一遍の返事をしただけのこと」
「あああれは本当に惜しいことをした。あれは賢い男だ。そして哀しい男だ。そなたへの気持ちは忘れがたい。かと言って無碍な行動も取れない。心得ていたのだろう。その結果が出家だ。確かにそれが一番周囲からの批判も少ないだろうな。妻子も悲しんだかもしれないが、あの全てを諦めた姿には、皆好意を持ったろう」
「……」
「そして一方、実忠の様に泥沼にはまってしまい、一人で抜け出せない者も居る。勝手に思って勝手に病気になって、勝手に隠遁してしまうのも何だが。あれは愚かな男だ。あれの兄弟達が、妻子がどれだけ苦労しているのかも知らず、ただただそなたからどう見られるのか、ということだけで隠遁して気持ちの確かさを見せつけようとなど」
「……私はあの方は恐ろしゅうございました」
「恐ろしかったか」
「ええ」
「ならそなたはわしのことも恐ろしいのではないか?」
「東宮さま」
「わしも勝手な男なのだ。あれと私の違いはたった一つ。地位だ。わしが東宮であったことだけだ。公の力で、そなたを好きにすることができる地位にあったからに過ぎないぞ」
「―――その地位を以て、私に退出をお許しにならないと仰るのですか」
「ああそうだ」
東宮は言い放つ。
「……子供達に会いとうございます」
「此方へ呼べばいい。そう、そなたの父や兄弟達とも、宮中で会えるではないか」
「私は……!」
「ともかく、しばらくの間、わしは決してそなたの退出を許さぬ」
*
その後、藤壺内でのやりとりなぞ知らぬ仲忠は、梨壺の妹の元へ挨拶に出向いた。
「うわ、やっぱり……」
ご昇進おめでとうございます、とばかりに近衛司の人々は彼を出迎え入れた。
あとはもうされるがままである。仲忠は彼等の手で、一気に三条殿まで慶びの音楽と共に連れて行かれた。
その晩、中の大殿では夜が明けるまで祝宴が続いたということである。
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