第19話 俊蔭のものがたり―――琴を手に入れるまで

 日記は遣唐使に任命され、京から筑紫へ出発し、唐へ渡った間のことから始まっている。

 その間の様々な数奇な出来事。

 やがて京に戻ってから北の方を貰い、娘のことを心配するその折々に歌がある。

 これは少し読み出しただけでも、その母の草子より非常に興味深く心を打つものであった。

 帝は一つを途中まで読ませたところで止めた。


「この俊蔭の日記は尚侍が見るべきものであろう。そなたの母には見せたのか?」

「いいえまだでございます。長いものではありますし。しかし仰せの通り、これは母に見せましょう」


 そう言って仲忠がしまいかけると、帝はそれを制した。


「いや、終いまで読みなさい。実に興味深い日記だ」


 その通り、それは非常に興味深いものだった。


   ***


 その昔、清原俊蔭きよはらとしかげというひとは、小さな頃から様々な逸話には困らない人だった。

 これといって両親が教えもしないのに、七歳の時に高麗こま人と会った時に、父親の様子を真似て漢詩を作り、応酬した。

 それを聞いた世間の人々は何かと俊蔭を褒め称えたものだった。

 やがて彼は十二の歳に元服した。

 帝はその時、唐に三回渡った文章博士の中臣門人というひとを召して、難しい題を出させて俊蔭を試した。

 すると彼は、何度も受験させてきた学生が、手つかずのまま、まごついているところを、さらっと素晴らしい文章を作ってみせた。

 天下の人々は皆意外だ、と驚き感じた。

 この試験では、最年少の俊蔭たった一人が進士に合格した。

 また次の年、同じように秀才となる題を出され、それにもすらすらと答えた。

 「方略ほうりゃく策」への「対策」が非常に素晴らしかったことから、六位相当の式部丞に任命された。

 世間の人々は、俊蔭の才にまず驚いたが、彼の姿形にも驚かされた。

 さて。

 やがて当時の帝は特に才ある人を大使副使として、遣唐使にした。

 この時俊蔭は副使に任命された。十六の時である。

 俊蔭の父母は悲しんだ。

 二人と無い子である。大切な目でも二つあるが、この子は一人しか居ない。その子を失うこととなったらどうしたものか。

 たった一人の子。しかもその子の出来ときたら、とてつもなく素晴らしい。ちょっと帰りが遅いだけでもなかなか帰らない辛さ、無事帰ってきたことの安堵に涙を流す程だったというのに。

 そんな子が居なくなることを考えることも恐ろしくも悲しかった。

 出立まで父母は彼と額を付き合わせて共に別れに涙を流したものだったという。

 それでも帝の命に背くことはせず、俊蔭は舟に乗った。

 しかしそれが不運の始まりでもあった。

 唐に向かった舟三艘のうち、二艘は嵐でもって沈んだ。

 俊蔭の乗った舟は、幸いなことにそれは免れたが、唐へは行かず、波斯はし国の方へと流されてしまった。

 海岸に流れ着いた時、彼は涙を流して観音の救いを祈った。

 すると、渚に鞍を置いた馬が突然出現した。

 俊蔭は観音の導きに感謝し、その使いであろう馬を七回臥し拝んだ後、鞍にまたがり駆け出した。

 やがて馬は清く涼しい林へと彼を連れていった。

 その林の中、旃檀せんだんの陰に、虎の皮を敷いた三人のひとが並んで琴を弾き遊んでいた。

 馬はそこに俊蔭を下ろすと、そのまま消え去った。

 俊蔭は立ちすくんだ。

 旃檀の林。香り高い仙境である。白の白檀、黒の紫檀、赤の牛頭旃檀、それらの香りが林全体をほうと包み、佇む俊蔭を夢見ごちにさせた。

 やがて三人が俊蔭に気付いた。


「そなたは?」


 俊蔭ははっとして答えた。


「私は日本国王の使いで清原俊蔭という者です」


 そしてそれまであったことを話すと、三人は彼に同情し、並んでいた木の陰に同じ皮を敷いて座らせた。


「何って気の毒な旅の方でしょう。しばらくここにいらっしゃい」


 俊蔭は言われる通りにそうした。

 日本に居た頃、彼が最も好きだったのは琴の琴を弾くことだった。

 今まさにそれを彼等は弾いていた。

 毎日毎日、琴ばかりを弾いていた。

 俊蔭は彼等の腕に、曲に、すぐに心を奪われた。


「教えていただいていいでしょうか」

「構いませんよ」


 三人は応じた。

 俊蔭はそれからというもの、彼等について、一つの曲をも残さず全部習い覚えた。

 花の露、紅葉の滴をなめて命をつなぎながら、彼は三人とそんな日々を続けていた。

 至福の時間だった。


 翌年の春から、西の方に木を切り倒す斧の音が聞こえる様になった。


「ずいぶん遠い所のはずだけど、よく響くなあ。ずいぶん音の高い木なんだろうな」


 そう思いながらも、やはり琴を弾き、時にはそれに合わせて漢詩を歌ったりしているうちに、三年が経った。

 三年経ってもまだその音は続いている。

 毎日毎日聞いていると、どうもその音は自分の弾く琴の音にも似通っている様にも思える。

 そこで彼は、三人に問いかけた。


「ここは天地が一つに見える程、一目で見渡すことができ、他に世界らしい世界は無いと思われますが、何処からか木を切り倒す音がします」

「そうですね」


 三人はさほどの頓着も無い様にうなづいた。


「でも木は山にあるものです。山は何処にあるのでしょう」

「ここから見えない何処かにはあるのかもしれませんね」

「琴の音に良く似ているのです」

「どうしたいのですか、あなたは」


 答えをうながす様に彼等は問いかけた。


「この木のある場所まで出掛けて行って、琴を一つ作る分だけ、いただきたいのです」

「では、ここを離れるのですか」

「随分とお世話になりました」

「いいえそんなこと。我々こそあなたが一緒で楽しかった」


 別れは悲しかったが、俊蔭はその地から立ち去った。


 彼は斧の音が聞こえる方へと足を進めた。今までに無かった程の強い力を振り絞り、海、河、峯、谷を越えてその年は暮れていった。

 翌年もその調子で過ぎた。

 旃檀の林を出てから三年目、大きな峯に上って見渡すと、頂上が天につく程の険しい山を遠くに見た。

 俊蔭は力を奮い起こして、足を速めた。

 やっとのことでたどり着いたその山には、千丈の谷の底に根指し、末は空につき、枝は隣の国に生えている桐の木を切る様な者――― 阿修羅が居た。

 その頭に生えた髪は、剣を立てた様。

 顔は炎のごとく。

 足や手は鋤や鍬のごとく。

 眼は大きくぎらぎらと光って、まるで金椀の様だった。

 だがそんな彼等にしても、女や翁や子供や孫といった者が居て、皆が一緒になって木を切っている。

 彼等は阿修羅の眷属なのだ。俊蔭は悟った。

 ここまで来たのだ、命をかけてでも、と心を決め、彼は阿修羅達の中へ進んで入っていった。

 人間だ。人間だ。眷属達が騒ぎ立てる。阿修羅自身も気付いて驚いた。


「何だお前は、何処のどいつだ」


 そう俊蔭に問いかけた。

 さすがに怖かったが、俊蔭はしっかりした声で答えた。


「私は日本国王の使いで、清原俊蔭という者です。この木を切る音を聞いて探し歩いてもう三年になります」

「それだけか」


 阿修羅の表情が険しくなる。


「お前はどういう訳で、こんな所へ来たのか。来ることができたのか。ここは阿修羅の罪業を償うべき場所。萬劫の罪を償うまで、虎、狼、いや虫けらとても、人という人は側に寄せることは無い。そして我等は、そんな山に来る獣は食い物として良いとされておる。ここはそんな所だ」

「……そうだったのですか」

「それも知らずにやって来たのか! 一体何という! 言え、何故にお前は人の身を持ってここまでやって来られたのか。速やかに話せ。さもなくば」


 阿修羅は眼を車の輪の様にくるくるとさせて睨み付け、歯を剣の様に鋭く湯むき出して怒りを露わにした。

 俊蔭もさすがにそれには自然と涙が流れた。


「何と勿体ない! 無論様々なことがございました」


 俊蔭はこの山へやって来るまでのことを話した。炎で焼かれたことも、獣には剣を抜いたことも、毒蛇に立ち向かったことも話した。


「それだけではございません」


 更に、国から出てきた時のこと、その時の父母との別れに至るまで切々と話した。

 阿修羅はそれには感じ入った様だった。


「我等はその昔の罪の深きにより、阿修羅と呼ばれる者となった。慈悲の心など持ち合わせの無い者だ。しかしお前のその孝心にはなかなか心打たれるものがある」


 はっ、と俊蔭は顔を上げた。


「我もまた四十人の子、千人の眷属は愛しい。気持ちが全く判らない訳ではない。だからお前の命は助けてやる。直ちに我等が前を去り、我等が為に大般若波羅密多経だいはんにゃはらみたきょうを書いて供養するのだ。それを約束するならば、我はお前が日本へ、父母の元へと帰るための便宜をはかろう」


 俊蔭はそれを聞いてほんの少し心が動いた。だが次の瞬間、彼は阿修羅の前に伏し拝んで頼み込んでいた。


「私はその父母の元を去ってここまでやって来てしまったのです。日本国王の仰せのもとに、彼等の嘆きを振り捨ててやって来たのです。父母は私が旅立つ時、血の涙を流してこう言いました。『そなたが不孝の子なら、私達に長い嘆きを与えるだろう。孝の子なら、我々の嘆きが浅いうちに戻っておいで』と」

「だったらそうしたがよかろう」

「できません」


 俊蔭は悲痛な声で答える。


「一緒の船で来た者達を皆死なせてしまい、私だけが生き残っている。そして一人この知らぬ世界を彷徨い、既に十年近くになりました。既に私は不孝の子なのです。その罪を免れるためにも、あなた方の倒された木のほんの少しでもいい、頂いて、その琴の音を聴かせることで、長い間苦労させた父母への不孝の罪の償いとしたいのです」


 すると阿修羅は先程以上の怒りを見せた。


「お前の子孫代々の命に換えようと言ったところで、この木一寸も得ることなぞできないぞ」

「何故ですか」


 必死で俊蔭は問いかけた。


「教えてやろう。この木は、我が父母が仏になった日に天稚御子あめのわかみこが下られて三年掘った谷に、天女が降りてきて音声楽をして植えた木なのだ。

 天女は仰った。

『この木は、阿修羅の万劫の罪が半ば過ぎた時に、山より西を指した枝が枯れることでしょう。その時に倒して、三つに分けて、上等の品は仏を始め、?利天に至るまで奉りなさい。中位の品は、前世における親の供養のためにお使いなさい。そしてその残りを、私の行く末の子のために使って下さいな』

 とな。

 そしてこの阿修羅を山守となされ、春は花園、秋は紅葉の林にあの方々は下られてお遊びになられるところなのだ。

 人の子たるお前ごときが容易く来られる場所でも無いのだ。

 ましてこの長い年月、我々がこの木を大切にして成長させたのは、何とかして万劫の罪を消滅させたい、自分の様な罪深い身から逃れたいと思うがこそ。育てたからと言って我等には何の得も無い。

 それをどうしてお前にほんの少しでも与えることができようか!」


 そう言うと、阿修羅は俊蔭を一気に食らおうとした。

 その時。

 にわかに大空が暗くなり、車の輪の様な大粒の雨が降り出し、雷が鳴りだした。

 そしてその間を縫う様に、龍の姿が。


「待て!」


 その背には一人の子供が。


「阿修羅よ、これを見るがいい」


 黄金の札を渡して去った。


「天の御使いが、何を―――」


 阿修羅はそうつぶやきながら、札を見る。途端、その表情が変わった。


「―――三つに分けた木の、残りの部分は、日本から来た俊蔭という者に渡すのだ―――だと? 何と」


 まさか、と阿修羅は俊蔭の方を見る。


「それではお前――― いや、あなたは」


 俊蔭は何を言われているのかよく判らないままに、ともかく食われるのは回避できたらしい、と納得できた。


「ああ何たること。あなた様があの天女の末裔でございましたか」


 そう言って阿修羅は七回彼に向かって伏し拝んだ。


「私が…… 天女の末裔?」


 驚く俊蔭に、阿修羅は慌てて説明する。


「だったらもっと早くそれを言って欲しかった! この木の上と中の品は、ほんの少しの木片でも、何でもない土を叩くと、無限の宝物が湧いて出てくるものです。そしてあなたに与えよ、との残りの部分は、その声の素晴らしさによって、永遠の宝となるものです」

「声を―――」


 それまでのことなど忘れた様に、俊蔭の表情がぱっと輝いた。 

 阿修羅はその「声の木」を取り出すと、割始めた。

 やがてその音を聞きつけたのだろう、天稚御子が現れ、木を琴の形に三十、形作り、再び天へ戻っていった。

 次に天女が音声楽と共に降りてきた。そして木に漆を塗り、織女に琴の緒を縒ってすげさせると、やはり天へと戻って行った。


「三十も―――」


 その様子を俊蔭は呆気にとられて見ていた。

 

 ああこの琴をこの西に当たる旃檀の林で弾いてみたい。


 そんな思いで心が一杯になり、すぐにでも飛んで行きたい気分だった。

 その思いを聞き届けたのか、突然の旋風が、三十の琴と、俊蔭をその林へと飛ばしていった。

 阿修羅はその様子を感慨深そうに眺めていた。


 林に移って音を確かめると、三十の琴のうち、二十八までは同じ声だった。

 だが二つは特別なものだった。それを弾くと、山が崩れ地が割け、七山が一つになって揺さぶり合うのだ。


 それからというもの、俊蔭は清く涼しい林に一人、琴の音を有る限りかき立てて過ごした。

 やがて三年の年が過ぎ、その山から西に当たる花園へ移り、そこで琴を並べた。

 大きな花の木の下で、故郷日本のこと、父母のことなどを思い出しつつ、特別な音色の二つの琴に手を伸ばした。

 春の日はのどかで、山を見ればぼんやりと霞んで緑に、林を見れば、出だした木の芽がみずみずしく、花園は花盛り、何処を見渡しても生き生きとした素晴らしく感じられた。

 朝から昼までずっと琴を弾き続けるうちに、その声が大空にまで響いたのだろうか、やがて真昼頃、紫の雲に乗った天人が七人降りてきた。

 俊蔭はそれを見るなり伏し拝んだが、演奏は止めることはなかった。

 天人は花の上に降りて来て言う。


「そなたはどの様な素性の者か。ここは春には花を見、秋には紅葉を見るために我等が通う所であって、自由に飛ぶ鳥すら来ることは叶わぬというのに…… もしやそなた、ここより東に居る阿修羅が預かった木を得た者ではないか」


 俊蔭はそれを聞くとうなづいた。


「はい。私はその木をいただいた者でございます。この様に仏のいらっしゃる所とはつゆ知らず、ただ素晴らしい場所とだけ思い、ここ数年居させていただきました」

「そうであったか」


 天女は微笑んだ。


「そなたがそういう者であったなら、ここに住まうも当然であろうな。天上の掟により、そんたはこの地上で琴の弾き手、その一族の始祖となるべく定められた者なのだ」

「何と」

「私は些細な罪で地上に降り、ここより西、仏の御国からは東にあたる場所に七年住んだ。その間に七人の子が生まれた。我が子等は極楽浄土の楽において、琴を弾き合わせる者どもである。そのまま地に留まっているはず。そなたは今からそちらへ渡るが良い」

「何故にですか」

「その者どもの手を受け取れ。そして日本国へ戻るが良い」

「帰ることができるのですか」

「何を言う」


 天女はふわりと笑う。


「今までも帰ろうと思えば帰れたことだろう。居続けたのはそなたの琴への執心が為。だがそれも我が子等の手を引き取れば、鎮まるであろう」


 おおそうだ、と天女は三十の琴を見てつぷやく。


「このうち、特に声が素晴らしい二つに名を付けようではないか。一つ『なん』。そしてもう一つを『はし』とせよ」


 俊蔭は思わずその二つを手にする。


「ただその二つの琴は今から行く山の者達の前のみ鳴らし、彼等以外に聴かせることはならぬ」

「何故に」

「それはそなたが考えるが良い。我等、この二つの琴の音のする所、人間の住む世界であれ、迷わず訪れるであろう」

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