第38話 カレハワタシノモノ
キズナは太陽の身体から離れ、壁に片手をつき身体を支えると、フラフラとした足取りでその場から離れた。
家の裏側に回りフェンスに寄りかかると、リングに収納していたLOVEを取り出し、職場へのエマージェンシーコールを送る。
画面いっぱいに黄色と黒で『EMERGENCY』と表示されたLOVE。
それに重なるように新たなウィンドウが開き、キズナより大分年上の男の天使の顔が映し出された。
『こちら緊急特別対策室。君の氏名と所属、それと発生した内容を教えて欲しい』
『こちら日本支部所属のキズナ! 現在東京都にてレベル4対応業務を遂行中! 恋人関係の成立には成功しましたがその相手に〈アクセラレイション〉が発生! 対象者を匿おうと迎えに行った際に、片翼を…………やられました……」
LOVEの画面が鏡となり、現在の自分が映し出されたキズナ。
右翼がない。
感覚的に理解はしていたが、いざ目にしてみるとやはり……精神的にくるものがある。
『片翼を!? 大丈夫なのか!?』
『……いえ、かなりまずいです。大量出血したせいで意識が……』
すでに画面が少しかすれて見える。
寒気は雪の中に夏服で飛び込んでいるくらい酷く、頭は精神安定剤を過剰摂取したかのようにボーッとなり、思考が停止しつつある。
『できればあと30分以内に輸血用の血液をお願いし――「きずなあああぁぁぁぁあああっっ!」』
お願いしたいのですが――。
向こう側にいる天使へそう伝えようと、必死になって声を絞り出そうとしていたとき、太陽が自分を呼ぶ大声が聞こえた。
――どうしたの!?
そう思い首を動かそうとしたが、出血のせいもあってスムーズに行動に移せなかった。
キズナの視界には未だにLOVEの画面がある。
ああ……くそっ……血が足りないとこうまで動けないものなのか……。
自由に動かない自分の身体に苛立ちを覚え始めた頃、キズナにとって重大な、それも最悪の部類にカテゴライズされる情報がまたしても大声で聞こえてきた。
「キズナ! 気をつけろ! 彼女にはお前が見えているぞ!」
「え、そんなこと――」
あるわけない。
天界のものに触れない限り、天使の姿は絶対に見えないはず。
……だけどっ!
太陽の必死な声が、キズナの生存本能を呼び覚ました。
理屈をねじ伏せ、身体を動かし、その場から大きく飛びのいた。
なんとなく、その場にいてはいけない気がしたからだ。
そして、その予感は正しかった。
「あら、失敗」
ついさっきまでいた場所に銀色の光が輝いた。
数秒動くのが遅かったらと思うと、恐怖で足が震えてくる。
「もう、動かないでよ」
銀の光の主――八舞真奈は、まるで世間話でもするような口調でそう言った。
「これから朝ごはん作らなくちゃいけないんだから、時間取らせないでね?」
――シュッ!
「っ!」
真奈が包丁を投擲した。
彼女の手から放たれたソレは、一直線にキズナの胸元へと向かう。
キズナはとっさに持っていたLOVEを盾にガードする――が、
「あぁっ!?」
直後に横に吹き飛ばされた。
投げると同時に駆け出した真奈が、彼女に回し蹴りを放ったからだ。
蹴り飛ばされたキズナは車にはねられたかのようにゴロゴロと転がる。
「ぅ、ぁ……」
「これでよし」
キズナの様子を確認した真奈は満足そうに微笑むと、近くに転がっていた包丁を回収する。
「よい、しょと。あ、刃こぼれしちゃってる。後で研がなきゃ」
そんなことを呟きながら、ゆっくりとキズナへと近づいてゆく。
一歩一歩、彼女が近づいてくる。
一歩一歩、死が近づいてくる。
その光景を前に何もできないキズナは、まるで他人事のようにこう思ってしまった。
……ああ、死ぬな、これ。
羽は切り落とされ、身体はロクに動かせない。
助けが来るのはまだまだ先。
「さてと」
自分にできることは何一つない。完全に、詰んでいる。
「太陽くんの人生をもらう――その前にあなたから太陽くんのぬくもりを返してもらわないとね」
笑顔を崩さず、包丁を右手に構えた真奈が、空いた左手で首を絞める。
「う…………」
「キズナ……さん? でいいのかしら? でも、これから始まる太陽くんとの甘い介護生活で、どうせすぐに忘れるだろうから間違っていても構わないわよね?」
不意に真奈の左手が首から離れた。
急に気道に酸素が侵入したため、キズナはゲホゲホと咳き込んでしまう。
「苦しい? キズナさん? ねぇ苦しい? 辛い? でもね……私はもっと苦しかったのよ? あなたが、大好きな人の時間を! 心を! 奪ったせいでぇ!」
そう言って今度は絆の胸を思いっきり鷲掴みにする。
「あうぅ……」
「ねえキズナさん、あなたは親に『人のものを盗ってはいけません』って教わらなかった? 『人様のものを盗ったら泥棒です』って教わらなかった? 教わらなかったなら今、この場で私が教えてあげる。『人様のものを盗ったら泥棒です』。人の恋人を許可なく勝手に盗るのは、この国どころか世界中どこへ行っても倫理に反する行為で……」
胸を握る真奈の手に更に力が込められ、形の良い絆の胸が不定形生物のようにぐにゃりと歪む。
「殺されても文句は言えないってぇ!」
「うああっ!」
痛い! 痛い!
伸びた爪が鳥の鍵爪のように胸の肉に食い込み、メロンパンのようキズナの胸から、血が滲み始める。
「ど……どうし、て…………?」
「どうして? どうしてこんなことをするのかってこと? あなた馬鹿ね。たった今言ったばかりじゃないの。血を流しすぎて、私の親切な忠告も耳から脳へ行かずに、耳から体外へと流れ出ちゃったのかしら? それとも胸に行ったのかしら? バカみたいに大きいものね、これ。……もう、仕方ないわねえ、もう一度同じことを繰り返されても次の人が困るだろうし、もう一度だけ教えてあげるわね。『人様のものを盗ったら泥棒です』『人の恋人を勝手に盗ることはどこの国でも倫理に反する行為で、殺されても文句は言えません』、わかったかな? キズナさん。私の恋人を私の許可なく勝手に、あなたの下品なまでに大きいこの胸を使って誘惑した、他人のことなど一切考えない、自分のドロドロとした肉欲を実現させることしか考えていない、あなたのその最大容量が百メガ以下の型が落ちすぎてもう誰も使わないと思われるパソコン以下のスペックしかない狂牛病にかかった牛よりスカスカで空っぽの脳みそでも理解できたかな? 理解できたわよね? 自分がどれだけ私たちに迷惑をかけたのか? どれだけ私たちの幸せを邪魔していたのか? 自分がどうしてこんな目に会うのか? そして……自分がどうして死ななければいけないのか?」
〈アクセラレイション〉によって募り、加速した太陽への想いが暴走。
もう彼女は……八舞真奈は、もう人界最大の禁忌とされている殺人さえ躊躇わずに実行するほどに人間を止めてしまっている。
胸の痛みで細まった絆の目に、真奈の握った包丁の刃が映る。
「さようなら、キズナさん。来世では他人の恋人を奪っちゃダメだぞ」
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