第37話 最悪の仮説

 彼女が大きく踏み込んでくる。

 踏み足は左、彼女から見て右側に俺がいるのに、わざわざ左手に包丁を構えて左側から回り込むように、円の動きで距離を詰めてきている。やはり変だ。


 俺が右側にいるのに、わざわざ回り込むように右側を狙うなんて。

 そんなことをすれば円状に動く分だけ間合いが広がり、逃げやすくなるだけだというのに。


 理由はわからなかったがこれは好都合だ。

 俺は壁を背にしたまま、拡がった間合いに真っ直ぐ突っ込み、彼女の裏側へと回り込もうとした。


 このまま突っ込めば彼女の包丁を食らうことなく家の中へ逃げ込める。

 まだ事件は解決してはいないが、安心感から俺の顔に少しだけ小さな笑みがこぼれた。


「――!?」


 それに呼応するように彼女の顔にも。


 ……何でだ? 何で今彼女は笑ったんだ?

 間合いから逃げられたのに、なぜすれ違う際に包丁を振らなかったんだ……?

 何ですれ違ったのに方向転換をしようとしないんだ……?


 そして、何で自分の行動が失敗したのに笑ったんだ……?


 俺に抜かれたというのに笑う彼女の顔を見たとき、俺の頭に最悪の仮説が生まれた。

 キズナのような天使を見るには、天界製の物に触れなければ、俺たち人間は見ることができない。 

 キズナと初めて出会ったとき、モテ電に触れた俺は彼女が見えたが、そのとき教室にいた彼女には見えていなかった。


 だから天界製の物に触れなければ天使の、キズナの姿は見えないはず。

 だから天界製の物に触れていない八舞さんにはキズナの姿は見えない。


 ……本当にそうなのか?

 

 教室での一件から、天界製の物に触れなければ天使を見ることはできないというのは間違いない。

 これは確実。実証もされているのでこれは疑う余地はない。


 では、八舞さんにキズナが見えていないと考えた場合、これも疑う余地はないのだろうか? 

 天使を見るには天界製のものに触れたことがなければいけない。


 もし見えると過程した場合、彼女は一昨日の夕方以降から昨日俺の家に来るまでに、天使に出会ったことが前提となるがその可能性は極めて低い。

 彼女も俺と同様、アカシックレコードにバグが巣食っていたわけだが、彼女のはレベル2。

 本来であれば修正バッチで事足りるもので天使がわざわざ降臨しない。


 それに、見つかったタイミングがタイミングだ。

 検索は毎週月曜日。俺のアカシックレコードを調査していたキズナでなければそのことに気づけない。


 この状態で他の天使が彼女に接触する可能性は皆無ではないだろうがゼロに等しい。

 以上のことから彼女にキズナが見えるはずがない。

 つまり、これは俺のただの杞憂だ。


 彼女が引き返さないうちに家の中に逃げ込めば、俺の……俺たちの勝ち。

 家の鍵は家族の指紋なので、わざわざ出て行かなくてもドアさえ閉めてしまえば彼女が入ってくることはできない。


 ガラスとかを破壊して侵入する可能性は一般家庭ならばあるのだろうが、俺の家は巨大な地下室を持っていることからわかるように、少し裕福な家庭だ。

 泥棒避けに刃物でも傷をつけられない強化ガラスを使っているので、ガラスを割って侵入するという荒業は使えない。


 ダクトもあるが、あれは普通体型な男しか無理だ。

 女の子は胸があるのでCカップ以上の子は胸がつかえて通れない。

 彼女はキズナより少し小さいがDカップはある。だから通れない。


 つまりこの状態になった時点でもう詰み。

 俺たちの勝ちなのだ。

 俺がドアに隙間を作っているこの足を収納して、ドアを閉めてしまえばそれで終わり。


 当初の予定通り俺が彼女を引きつけなくても、キズナが援軍を呼ぶ時間を作ることができる。

 そうなるとキズナも一緒に外で待機となるが、彼女には見えないから何も問題はない。

 切り落とされた翼からの出血が気になるが、支えなしで歩けていたのでおそらく致命傷ではない。

 隙を見て家の中に入れて手当てをしてやれば命に別状はないだろう。


(よしっ! これで!)


 ドアを開けた。

 あとは足をしまって締めるだけ。

 しゃがんで足に手をかけようとしたとき八舞さんと目が合い、


 彼女は笑みを浮かべたまま家の角に消えた。


 ――なぜだ? あの先には絆しかいないのに。

 ――彼女には見ることができない、存在を認識することができないキズナがいるだけなのに。

 ――天界製の物に触れたことがない彼女に……まさかっ!?


 俺の中で先ほど否定したあの最悪の考えが再び起き上がった。

 彼女に『キズナが見えない』というこの仮説、本当に正しいのかと。


 確かに先ほど否定したとおり、彼女がここに来る以前、何らかの理由で他の天使に出会ったことがあるというのはほぼゼロ、皆無に等しいだろう。


(じゃあ今なら?)


 俺の家に来たことで、何らかの天界製の物に触れたならば!?


 そう仮定した瞬間、俺の中で数時間前の記憶が蘇った。


(あのとき彼女は、彼女は何で俺の嘘を見抜けた!?)


 そうだ、そうだった!

 彼女はキズナの髪を理由に俺の嘘を見破ったんじゃないか!

 キズナは天界の住人だ。天界製と言ってもいい!


 いや、それよりも燃やされた本とDVDだ!

 地下室で灰になったあれらの隠し場所の一つに、モテ電を隠していた引き出しもあったはずだ!

 鍵はかけたが所詮机の鍵、感嘆に壊せるし外せる。


 発掘中に触れたとしても何ら不自然じゃない!

 もう間違いない! 俺の中で最悪の仮説が確信となる。


 ――彼女はキズナが見えている!


「きずなあああぁぁぁぁあああっっ!」


 俺は家の裏で他の天使に連絡を取っているであろう絆に聞こえるほど大きな声で叫ぶ。

 まだ太陽が昇ったばかりの早朝だなんて気にしていられない。人の、いや天使の命がかかっているのだから。


「キズナ! 気をつけろ! 彼女にはお前が見えているぞ!」

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