第36話 断たれた翼

「キズナ、一刻も早く逃げるぞ」


「わかった。手、出して」


 キズナが背中の翼を出しつつ俺に握手を求めてきた。空から逃げようというのだろう。

 俺は素直にその言葉に従い右手を出す。


「キャッ」


 彼女は俺の手を見て短い声を上げた。


「……どうしたのその手?」


「……ちょっと、な」


 手首の火傷は比較的小さなものだが、皮がただれているので見た目的には結構酷いように見えなくもない。

 薄暗いから色がよく見えない分、余計に酷そうに見えるのかもしれない。


「……彼女の状態はオレの想像以上に悪化しているのかもしれないな。早く専用の修正バッチを当てて元に戻してあげないと」


「頼むぜ。《アクセラレイション》が愛情を加速し続けるっていうなら、今の精神状態はかなりギリギリのラインにあると思う」


 一緒にいれば想いが加速するというのならば、昨日の時点でもうかなり末期だと思う。

 俺の苦しむ姿すら愛らしそうに見ていたことから考えると、そう思わざるを得ない。

 このままだとそう遠くないうちに愛情が加速しすぎて、「俺を食べて一つになりたい」などと言い出すかもしれない。

 そうならないように一刻も早くここから逃げ出し彼女と距離を取らなくては。


「さあ、行こう」


「どこへ?」


 絆の白い翼の半分が地面に転がった。


「……え?」


「!?」


 一瞬だった。

 キズナが引き寄せられるように俺に向かって倒れ込んでくる。

「ドサリ」という音と共に、俺はサンドイッチになった。


「……熱い、背中が……熱いよ……太陽」


 俺の耳元でキズナがささやく。


「お庭の手入れをしようと思って外に出てよかった。ねえ、私を置いてどこにいくの……? 太陽くん」


 彼女はニコニコとした表情で俺を見ているが、今の一撃で全く笑っていないことは誰にでもわかる。

 あの誰にでも分け隔てなく接する優しい彼女が、笑顔で人を切りつけるだなんて。


「もう……私に黙ってどこかに行こうだなんてイケナイ人ね。私は一時でもあなたと離れていたくないのに。そんなことができないように、一人じゃ歩けないように、私が一緒じゃないと生活できないように、両足の筋を切り落としたほうがいいかしら? それとも脊髄を傷つけるべきかしら?」


 まるで旦那の帰りを待ちながら、思案顔で料理を作る新婚夫婦の若奥様のようにそう呟く。

 お魚くわえたドラ猫でも追いかけていれば、ほほえましい絵になるかもしれないが、キズナを切りつけた包丁のせいでそうなることは不可能。


〈アクセラレイション〉は、やはり想像以上に進行してしまっている。

 彼女の心を蝕むほどに!


(彼女の間合いにいるのは不味い!)


 俺は流れる血を止めようと、翼の付け根を力いっぱい握り締めながら、右手で地面をゆっくりと押して少しずつ彼女から距離を取る。

 約5メートル――彼女が1、2歩踏み込んで切りつけても包丁が届かない間合いまで下がると、キズナを抱えてゆっくりと立ち上がる。

 キズナは俺にしか見えないので、せめて安全な場所に移さないと。


「キズナ、立てるか?」


「太陽……オレ、どうなっちゃった……の? 背中、が……背中が、熱いよ……」


「……今は考えない方がいい。それより今は逃げることだけ考えよう。……彼女から」


 お互いの頬が触れ合うほどの距離で相談を始める。


「キズナ、俺が彼女を引きつけるからお前は一旦脱出して、LOVEで他の天使を呼んでくれ」


「ひ……引きつけるって……。あの子どう見ても《アクセラレイション》をこじらせすぎて常識のリミッターが外れちゃってるよ! 危ないって!」


「だけど他にどうしようもない。彼女の狙いは俺だ。彼女だって俺同様、運命のバグに翻弄された被害者なんだ。彼女の将来のために警察沙汰にしたくない。それにお前は人間じゃなく天使だ。天使は普通の人間には見えないんだろ? 天界製のものに触れない限りは」


「だ、だけど……」


「だけどもクソもねえよ。これ以上被害を拡大させないためにはそれが一番なんだ。見えない奴が見えない援軍を呼ぶのが最上の策だ。……わかるな?」


 俺の説得にキズナは少しの間考えていたが頷き了承してくれた。フラフラとだが自力で立つと、後ろへと移動し家の角に消える。

 それと同時に彼女――八舞さんのほうも俺をどうするのか考えをまとめたようで、彼女にとっては幸せの一つの形、俺にとっては不幸以外の何物でもない答えを告げてきた。


「うん、やっぱり脊髄に傷をつけましょう。そうすればもう勝手にどこかに行こうとしないでしょうし。手足を切り落として私専用の抱き枕にするのも捨てがたいけど、それだと太陽くんのあたたかい、あの優しい手のぬくもりが感じれなくなっちゃうもの。そうなるとデートのときや二人でいるときに手をつなげないもの。恋人同士なのにお互いの手のぬくもりを感じられないなんて……そんなの哀しいわよね。それに比べて脊髄を傷つけるのは我ながらいいアイデアだわ。満足に動けないから日常生活を送るのに誰かの手が必ず必要になるわよね。そうなれば私は常に、いつも太陽くんの傍にいられるもの」


「……それだと俺の下の世話までしなくちゃいけないぜ? 八舞さん」


「あら、そんなの当たり前でしょ? むしろ大好きな人の下の世話なんてご褒美よ。私たちはお互い愛し合っているんだから、心から愛し合っているんだから、お互いの良い部分も悪い部分も、もちろん恥ずかしい部分だって見せて欲しいわ」


 包丁を右手から左手に持ち替えて笑顔で答える八舞さん。

 俺は彼女のこの行動に違和感を覚えた。


 彼女から向かって右側、俺は壁を背にしている。なのに、なぜ包丁を標的から少し離れたポジションに構える必要があるんだ。離れたといってもわずか数センチの差ではあるが、俺と彼女の身長は10センチ以上あるので、そのわずか数センチが行動の成否を分けると言っていい。


「だから……ね?」


 彼女の左手が水平に構えられた。


「私にちょうだい、あなたの人生。代わりに私の人生をあげる」

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