憎悪の空




アイナは自分はまだ正気を保っていると信じたかった。

いや、そう思っている時点でアウトなのよ、とか色々と意見があるのだろうけどその上で自分が正気であると信じたいのだ。

そんな風に思う理由は自分の内面───ではなく正面の光景にある。





「ふっ………どうしたお前ら。残り一枚だぜ」




酒場と宿屋の兼業をしている宿屋の一回の食事処での光景の中、声を発したのは自分が今日出会う予定であった少年。

星海から来た異邦人の少年──アリアンという少年だ。

特徴的な白い髪を目立たせている少年は途轍もなく不敵な笑みを浮かべていた。

その笑みは勝利を確信しているようにしか見えないだろう。





この星では中々見る事が出来ないとんでもないドヤ顔を浮かべている少年はある意味で見事ではあったのだろう───パンツ一丁を晒していなければ




いや負けているじゃないですか、後、一枚なのは貴方の方じゃないですか、というツッコミが思い浮かぶが言葉に出来ない。





嗚呼………馬鹿って上限を超えるとある種天才みたいな領域に辿り着くんですね………だってまるで理解出来ないですし………




とりあえずカードを持っていて、その上で服を脱いでいるという事は賭けでもしたのだろうという事は分かる。

ただ賭けをしていると思われる相手がとんでもなく狼狽えているのを見ると………賭け自体はこの少年が持ちだしたのか………と思い、しょうがなく滅茶苦茶嫌だが近付いてアリアンに声を掛けた。




「………何をしているんですかアリアンさん」


「ん? ああアイナじゃないか。いや何、暇だからカードゲームに混ぜさせて貰ったんだが折角のゲームだというのに賭けも何もしないんじゃ面白味がねぇじゃねえか。だから負けた奴が脱ぐっていうシンプルなルールにして」


「大敗が続いたせいでパンツ一丁になったと」



応ともよ、と強気に笑う姿は中々格好いいのだがパンツ一丁である。

何故この男は放送倫理寸前に辿り着いているのに強気なのだろうか?

もしかして脱ぎたいのか? 脱ぐ気なのか? 宿屋とはいえ女もそうだが子供もいる朝っぱらからフルオープンするつもりかこの男は。

正気かと問いたい所だが、むしろ狂っていると言って欲しい所である。

ともあれ正気担当としてそろそろ何一つ喜ばしくない脱ぎ芸はお開きにしなくてはいけない。



「………丁度いいから終わりにして下さい。見回れなかった場所を見回りたいと仰っていたでしょう」


「いや待つんだアイナ。次だ。次こそ逆転の風が吹いていると感じ取っているんだ! 次なら勝てる! そう! ダイスを連続1出していた人間が次こそ別の出目が出る様な気配がびんびん来るんだ! アイナも感じ取れるだろう!?」


「それはただの都合のいい願望です。もしくは負け犬の遠吠えです。とっとと外に出る準備をしてください。ほらウォーキング」


「な、中々に切れ味が鋭いな………!」



やかましい。

優しくする事にも限度があるという事を知るべきである。



「大体男相手に自分の全裸見せつけてどうするというのですか。相手が喜ぶとでも? ホモですか貴方は。ちなみに女視点で語るなら"キャッ! 男の裸!"とかそんな漫画染みた感想は一切無いので。あるとすればとっとと服着ろ、です」


「多角的に全否定が来たな………!!」



再度やかましい。

変態に常識を説いたらつけあがる可能性があるので容赦など不要である。

ようやく文句を小言で言いながら着替える馬鹿………もといアリアンさんを尻目に騒ぎを起こしてしまった周りの人達に小さく謝罪の為の一礼をしてからようやく外に出るのであった。





※※※



酒場にいた人達は出て行く男女を呆然と見送りながら………その中の一人が呟いた。





「………初めて見たな。アイナ様があんな風に人と接するのを」




その一言に周りも同意を示すかのように頷き始める。

この星の住人にはアイナという少女を知らない人はいない。

誰もが少女の姿を見たらアイナだと認識し………その後直ぐに顔を俯かせる。

俯く理由もまた単純だ。





ただ単に罪悪感と恥のせいで少女の顔を見る事が出来ないだけだ



そのせいか。少女もそれを理解した上で自分達と接し………益々自分達の罪深さを思い出して俯く。

せめてもの恩で少女の言う事に融通を利かしているが………逆にそれが少女の心を圧迫している事も理解していた。

やる事為す事全てが少女を追い詰めている気がして空回りばかりしていたが………アイナという少女が他人に対してああも騒いでいるのは初の出来事であった。





まるでどこにでもいる普通の少女のように辛辣で………しかしどこか楽しそうに




同じ星に住む我らだからこそ与えられなかった安らぎ。

その事実を前に見届けた者は沈黙を選ぶしか無かった。





既に恥知らずである事は承知ではあるが……彼らにだって守らなければいけない線くらいは理解出来ていたから




人々は俯きながら沈黙を選ぶ。

黙る事だけが彼らに残された最後の矜持であるから。





※※※




まったく、と嘆息しながらアイナは道を歩く。

嘆息する原因は当然、自分の横で呑気な顔で歩いている少年だ。

自由気ままに好き勝手に暴れる少年はアイナからしたら小型の嵐のようにしか見えない。

最悪なのはそんな好き勝手しながらとんでもない迷惑を掛けているわけではないので、適当な注意しか言えないのである。

異邦人って皆、こんな感じなのでしょうか、と思いつつ





「………狭い星なのでもう大体見終わったのですが………これ以上どうするので?」




と、問うた。

比喩でも謙遜でもなくこの星で見回る場所はこの街くらいだ。

都市所か一つの街程度の広さしかない極々狭い街。

袋小路の街という矛盾を成立させた場所。

ここから先、どこにも行けなくて

ここから先、どこにも帰れない空っぽの生存エリア。

その虚しさを胸に秘めながら、口ではただ呆れたように問う。

少年はその虚しさには気にも留めずに




「そっか。ま、折角だしもう少しこの星には居るさ」


「………そんな事をしてどうするのですか? はっきり言えば時間の無駄ですよ」



袋小路の場所でこれ以上どこにも行けないというのに残る理由なんて普通ある筈が無いと思うのだが………アリアンさんはいいからいいから、と適当な調子で手を振るだけ。

はぁと首を傾げるしかこちらは無いのだが………こうも危機感が無い人と出会った事は無い為、どう対応すればいいのかアイナは未だ掴めていなかった。

そんな風に頭を悩ませていると、それこそ他人事のような気楽さで少年は顔を上げて私が見たくない物を見て、




「そういえば、あの無駄にデカい蛇。喋るのか?」



唐突な疑問に数えるのも飽きた首傾げを行いながら問いに答える。




「………ええまぁ、拙い喋り方ですが、喋りますよ。以前教えませんでしたっけ? 私も曖昧ですが」


「そうだっけ? まぁ、どっちでもいいや。とりあえず喋れるって事はどれだけかは知らないけど知性はあるんだな」



少年の疑問にはその通りです、と答える。

………最も知性があるのと理性があるのは別であるが。

そんな風に思っていると





「あれだけデカいとうちのメンバーも言ってたけど飯とかどうしてんだ? と言ってもあれだけ無駄にデカいならそこら辺の法則歪んでるのか?」




アイナにとって不意打ち染みた疑問に強制的に今日の夢の記憶を幻視する。




血が滴る呪われた日


目の前に穴のように広がる闇の口腔




それら全てを鮮明に思い出したアイナは即座に口に手を当てた。

込み上げてくる吐き気は全ての優先度を塗り潰す。

それはつまり今の自分を取り繕う余裕がなくなるという事。




「──どうした? 酷い顔だな」



告げられた言葉に心配の色が多少見えた事で少年が完全完璧な薄情者ではない事は悟れたが………正直、心配なんてされたくなかったアイナにとっては余計な事であった。

だから直ぐに口から手を離し、今の自分に出来る笑みを浮かべて答える。




「いえ………大丈夫です。ちょっと砂が口に入って」


「………」



帰ってきた反応は心底からの呆れ。

こんな下手糞な芝居を見た事が無いとでも言わんばかりの白けたとすら言わんばかりの表情を、しかしアイナは無視した。

しかしただ無視するだけでは難しいと思い、話を逸らすにはどうすればいいかと思い………純粋にきょうみを覚える事柄を口から吐き出した。





「あの……星海の向こうは一体どんな世界が広がっているのでしょうか?」



予てよりの疑問。

知識だけでは知っている事柄。

曰く、星海を越えた別次元にあるのは文字通り異世界であるとか。

正直な感想を告げていいのならば、どこの娯楽小説だと言いたいが実際そうなの………か? とはやはり少し疑いながら考えてしまう。

別の宇宙、別の次元にあるとはいえ仮に人として存在しているのであれば、それは人が住める宇宙という事で多少の事象は違えどそう変わらない世界が広がっているのではないかと思うからだ。

無論、文明だったりなんだったりの細かな差異はあるのだろうけど………でもそれならば文明や動植物等の細かな違いだけでは無いのかと思う。

そんな風に湧いた疑問も続けて吐き出してみると少年は困ったように笑う。




「ま、星から一切出た事が無いアイナからしたらそう思ってもしょうがないだろうな。実際、俺も昔は似たような事を思っていたさ。どんなに違う世界であったとしても生き物が生きているならある程度はほぼ同じじゃないかって」


「………思っていたって事は違ったんですね」



そっ、と答えながらアリアンはどれを例に出すべきかと悩むように顎に手を当て




「そうだな。分かりやすい例を言おうか。この宇宙にも恒星はあるだろう?」


「あるだろうも何も今も輝いてますからね」



空を照らす役割を持つ星が上空に輝いている事を視線で示す。

しかしその問いを聞いてやっぱりと思ってしまう。

今、少年は明確にこの宇宙にも、と告げた。

つまり、全てでは無いかもしれないが他の宇宙にも恒星はあり、自分達みたいに照らされているのであろうと考える事が出来る。

それならばそう驚く事では無いかと思うと





「──別の宇宙では恒星のような星で





「………………………は?」



我ながら素っ頓狂な声が出たが、流石に許して欲しいと切に願う。

正直、とんでもなく下手糞な冗談を聞いたのではないかと思い、少年の顔を見るのだが少年は普通に微笑んでいるだけだ。

これをポーカーフェイスと取るかどうかで悩んだが………結局私は驚愕を口にするしか無かった。




「………冗談、ですよね?」


「これが冗談のような事実なんだよなぁ。いやぁ、俺もを見た時は流石にビビったビビった」



気負いなく受け応える様には演技しているようには見えない。

ごくごく当たり前に思い出を語っているようにしか見えず………そうであるならばこの人が言っている言葉は事実であるという事になり………流石に口をへの字に曲げてしまう。

普通に考えて突拍子もない事を適当に語って聞かせていると考える所なのだが………それならそれで一発で冗談だと思えるようなふざけた法螺を吐くだろうかという疑問も湧く。

心の底から信じるべきかを悩んでいると後な、と前置きしながら





「人は居なかったけど、自然豊かな、しかし俺達が知る自然とは違う法則で生まれる生物達が住むメルヘンチックな惑星はまだマシだけど、他には一日事にレベルの惑星とかあった時はびっくりしたなぁ。流石にアレは付き合えなかったから直ぐに出立したけど断片的な話を聞く限り雨のように降り注ぐ天災に対して毎度凌いでいる超人惑星だったけどお陰で家屋とかが直ぐに壊れるから文明レベルが進んでいなかったな」


「ちょ、ちょっと待ってくださいっ。流石に処理が追い付きませんっ」


「頭ごなしに疑うからそうなるんだよ」




うぐっ、と唸る私に苦笑する少年を見ているとこの人、やはり性格悪いですね……と思ってしまう。

そんな私の感想に気付かないまま、少年はソラを見上げて言葉を連ねる。




「どこもかも本当に異なる世界だったよ。あらゆる歴史、あらゆる法則を内包しながら広がりつつある千差万別の万華鏡。終わりに向かいつつある世界もあれば、懸命に生きている世界もある。逆に生まれたばかりの世界もある───なのに不思議な事に人間いのちというのは余り変わりなくてな」



くすり、と笑う少年の顔は年不相応の達観の笑みを浮かべており、つい覗き込みそうになり慌てて視線を少しだけ逸らす。

その事さえ気づかない少年はそのまま自分が感じ取った星海についてを語り続ける。




「ここでもそうであるように、どこも世界に振り回されながら、しかし懸命に生きている人達もあれば屈している人達も居たよ。悪に邁進する者もいれば善に固執する者もいる。勿論、どちらにも寄らない平凡な者もいる………ただまぁ、そうしていれば当然、そういった事柄全てからはみ出す人間もいてな」


「それは………どのような?」


「そうだなぁ……例えば今より良い未来、大事な人を守りたかっただけなのにほんの些細な優しさと絶望のせいですれ違った奴もいる。くそったれな悪意の願望のせいで誰にも触れる事が出来なくなった迷子もいる。特殊な種族特性を付け狙われ、兵器とされそうになった奴もいる。律義な物だろう? どうせ異なるなら不幸も異なればいいのにな」


「────」




痛烈な皮肉を聞いたような感覚。

この人がどこまで意図して告げたのかは分からないが………聞き方によってはと言い聞かされているような気分であった。




………この人自身がそんな気が無いのだとしても、しかしそれは正しい真実なのだろうとは思う。




私だって考える事があった。

もしも………もしもだが………過去にあの大蛇が出現した時に降伏するのではなく最後まで抗っていれば確実に滅んではいたけれど………今のようなみっともない生き汚さを後世にまで引き継がずに済んだのではないのだろうか。

可能性の話であり、自分が生きていない時代の話だ。

無意味であるし、仮に自分が当時の時代に生きていたとしてもやはり生き残りたいと思うのではないか、と思う程度の下らない妄想の話だ。

妄想だが………そう思ってしまった自分は少年に問うていた。




「………やはり………諦めるという事は罪でしょうか?」



唐突に脈絡もない質問をされた少年はこちらを見ながら一瞬首を傾げるが






「それは違う。諦める事自体は罪でも悪でも無い」




返された言葉は打って変わって叱責するようであり………まるで固く握られた手を解くような温かい言葉に私は少し驚いた顔で少年を見る。

少年の顔には突然の哲学的な疑問に対する嘲弄も無ければ怒りを堪えているようにも見えない。

自分の問いに対して真摯に答える様に私もまた応えるかのように口が勝手に動く。




「そう………でしょうか?」


「当たり前だ。大体人間は常に諦め続ける生き物だ。何も将来の夢だとか野望だとかの話じゃない。やりたい事、したい事、為さなければいけない事、嫌々する事。様々な事に諦めを抱きながら適当に前向いて歩くのが人間だ。一切諦めない人間なんて精神異常者か、あるいはテレビの中で活躍するご都合主義おはなばたけの主人公くらいだ───そうじゃなきゃ現実は厳し過ぎるっていうもんだ!」




最後の言葉に自分の口から洩れた台詞に対して、少年は大いに笑った。

言葉だけを聞けば現実に対してやってられねえぜ、と笑うようにも聞こえるだろう。

しかし言葉だけではなく声も聞いていた私には印象がまるで違った。





現実は厳しいという本音の中には心底からの賞賛と呆れが混じっていた。




ソラを越えようが、次元を超えようが面倒極まりない世界の中で、しかしヒトのような知性体は何時も諦めながらも生き汚いと賞賛していた。

思わず、心の中でひねくれ曲がった素直という造語を作ってしまった。

表現の仕方やら言葉は曲がりくねった遠回しな言い方だというのに、込められた感情が一切隠し切れていない。

生き汚いと笑い飛ばしながら賞賛していた。

諦めてばっかりと罵りながらも呆れていた。





どこに行っても広がる事を諦めない知性体の歩みを少年は観念するかのように讃えていた




何故かは知らないが、私はその様を見て上を見上げた。

見上げる事が無くなった私が見たのは周りまえではなくうえを見ていた。

広がる蒼空を見て、ようやく空を見上げた理由に気付いた。

少年を見て、何かに似ていると思って無意識に探し当てたモノが空だったからつい見上げてしまったのだ。





忘れていた蒼空


空を見上げるだけでどこにでも行けると錯覚していた子供の自分




最早形すら残らない儚い夢幻を僅かなりとも思想し





「──ま、それらはあくまで諦めるの範囲が自身に纏わる事や取り返しが効く範囲の中だけどな」




唐突な雑音。

あれ程広がっていた蒼空が一瞬で暗雲漂う悪天候に変わったような感覚。

ぞわりと背筋を走る悪寒に沿って視線を向ける先は当然言葉を発した少年に対してだ。

別段、形が異形と変わったとかでは断じてないが………淡々と言葉を重ねた少年の内側は先程とは全く違う。

先程までの透き通るような空気は一瞬で腐り落ち、ドロドロと真っ黒で………濁り切った闇が少しずつ浮上してくるような感覚。

恐ろしい、と思った。

ただ恐ろしいと思ったのは何もそんな闇がある事ではない。





恐ろしいのはその闇が




噴き出た感情は決して特別な物だとか、ましてや呪いとかいう不可思議でもない。

知性体であり感情がある生物であるならば一度は己の身を焦がした感情───

ただし、込められた怨念が違う。

積み重ねた質量が違う。

人一人では到底生産できない宇宙の暗闇よりも尚、濃い闇が一人の少年からドロリと欠片を溢していた。





「諦めるにしても諦めていい物と悪い者がある………ま、人間なんだから出来る事なんて小さいっていうのは分かっているから別に全てを守らなきゃいけない、なんて荒唐無稽な無理難題を求める事は間違いだが」



ヒュッ、と零れた奇妙な呼吸音が自分の喉から漏れている事に今、気付いた。

足が震えているのに座り込む事も、ましてや逃げる事も出来ない。

本能で分かる。

これは別段、私に向けられたものでも無ければ、全てを曝け出したわけでもない。

ほんの一部、ほんの一欠片が零れ落ちてしまっただけ。

散りばめたワードからつい思い出したくない過去を思い出して少し不機嫌になったなのだ。

その一欠片だけで■■が捻じ曲がる。

ただ一人の感情で無限大の熱量を貪り喰らう怪物の赫怒を前に人間等、小石にすらならない。

更にはそんな赤の他人等知った事じゃない、と言わんばかりに少年は自分の憎悪に更なる火種を撒くかのように告げる。





「でもな───大事な人、自身の全てを預けるに足ると信じる程の愛する人を諦める奴は心底の屑だ。特に女が相手で男が諦める側ならそいつは兆くらい死んでも飽き足りない塵だね」



憎悪の圧が増す。

この世全てを憎んで尚も足りない現実に開いてしまった地獄の穴の如き恨み言に心が保てなくなりそうになり、遂に膝を着き、口元を抑え




「ん"ぇ………!!」



嘔吐という形で決壊する。

その瞬間、先程まで自分を襲っていた威圧が消え去り、見る事は出来ないが、少なくとも気配は先程までと変わらない感覚に戻った。





「………あぁー」



漏れた呟きには心底からの後悔が込められていた。

盛大にしくじったという声色を感じ取れば、彼がわざと憎悪を撒き散らかしたわけでは無い事は理解出来たが、一度零れてしまった嘔吐を止めるのは中々難しい。

だからか。

少年は一度頭を掻くとすぐにこちらに近寄り背を擦ってくれた。

気休め程度だったが、お陰で少しずつ楽になってきた。

そうして少し息を整えて顔を上げると少年は少し気まずそうな顔で




「………悪いな。今のは完全に俺が悪い。恨んだり殴られても文句は言えない。完全に恩を仇で返した



心底の申し訳なさから察するに、自身ですら感情を制御出来ていない、という事だろうか。

………無理もない、と思う。

今の憎悪は凡そ人が発していい物ではない。

過去も未来も現在も含め、一つの存在に感情の全てを注いで尚足らない奈落の如き暗い穴。

感じ取った後ですら今のを人一人が発したという事を信じられないくらいだ。





………だというのに、目の前に居る少年は正気に戻っているように見える




あるいは今もまだ狂気の中にあるのかもしれないが……少なくとも少年はあれだけの憎悪の中から立ち直れる余地があるという事だ。

それは……少し……

だからこれ以上怯えさせるのも悪いと言わんばかりに離れようとする手を両手で握りしめた。

眉を顰めてこちらを見るのは握る手の平が怯えによる物ではない感情で強く握りしめられているからだろう。

彼が普通の人であるならば痛みを覚える程度には握りしめているが、謝る気も構う気も無いまま好き勝手に言葉を告げる。





「どうして………それだけ憎んでいるのに立ち直れるんですか?」




疑問の言葉を吐いているように見えて、私の言葉には疑問を遥かに上回る敵意が込められていた。

何故なら私もまた憎悪という感情を抑えれない人間だから。

浅ましい感情であると理解し得た上で燃え広がる。

この少年に比べれば酷くちっぽけな、滓のような感情だが……見過ごすにはこの憎悪は私の人生にへばりついていた。

憎悪といえば………本にはこういう記述がよく書いてある。




"復讐は何も生まない"


"復讐かこにばかり囚われていては前に進めない"


"復讐なんてしても何も戻ってこない"


"死んだ人は貴方が復讐する事なんて望んでいない"




何て綺麗な言葉。

綺麗過ぎて吐き気がすると毎回思っていた。

復讐は何も生まない? 馬鹿な事を言う。このやり場の怒りを発散する事は私に平穏を与える。

復讐かこにばかり囚われていては前に進めない? 何を言っているのやら。前に進む為に復讐という概念が出来たのだろうに。

復讐なんてしても何も戻ってこない? 当然だ。復讐とは取り戻すための作業ではなく決着の為の儀式だ。死者蘇生なんて復讐という概念のどこにも書かれていない。





死んだ人は貴方が復讐する事なんて望んでいない? 愚かここに極まる。

復讐するのは自分の望みである以上、何故死んだ人が自分に関わるという。説得する為に都合よく利用しているだけではないか。




だから私は憎悪という感情を醜いとは思っても不要とは断じない。

その結果、最後まで俯き、他人に作り笑いを浮かべ、実の父に対して無関心を貫く事になっても重みはあっても後悔はしていない。

憎悪を抱き続けるという事はそうなる筈だ。

なのに……この少年は自分よりも何かを憎んでいるというのに、あっさりと空を見上げる。

憎悪を抱えながらも向き合っている。

その様は今までの自分の全ての否定であった。

赦せる筈が無い。

何もかもが同じとは口が裂けても言わないが……何かを憎悪するという形だけは似ている誰かが別の道を行くのはどうしても赦せなかった。





だって赦したら……自分だってその道に行けるという証明になってしまうのだから




それだけは赦せなかった。

赦してしまえば今日までの自分には価値が無かったのだと認めてしまいそうで。

そんな意地汚さを含めた問いに、少年は苦笑して答えた。




「勘違いさせたら悪いが……別に俺は立ち直っているつもりもなければ吹っ切れたとも言い難い。今でも頻繫に夢を見続けるし、さっきみたいに憎悪に振り切られてしまう。君がどう勘違いしているかは知らないけど、俺は泣いて祈って苦しんで……その上で立ち上がれるようなすげぇヒーローじゃない。どこにでもいる俗物だ───ただまぁ、少しだけ人より幸運と幸福を知っていただけだ」


「そんな綺麗事………」


「──綺麗事じゃない。それは綺麗事じゃないんだ。気付かず手に入れている事もあれば見つける事が出来ずに苦しむ事があるけど………ヒトは気付くとそんな些細な幸福と幸運に導かれる」




語る少年は希望を語りながらも表情は罪を背負う罪人の如き笑みであった。

幸福と幸運に感謝しながら苦しむ姿に呆然としている間に少年は続く言葉を重ねた。




「人かもしれないし物かもしれない。あるいは思い出という事もあるかもしれない。誰かにとっては塵のようなモノかもしれない。それでもヒトには必ず一つは手放せない何かを得る───それをユメと名付けるか愛と名付けるかは人とモノ次第だけどな」




………再び綺麗事だと否定する事は簡単なのだろう。

語る内容も愛だのユメだのを主眼とした精神論。

下らないと蔑む事なんて簡単だった。

簡単だからこそしたくなかった。

本当はそんな事は理解していた。





愛や友情、夢は陳腐だが……その陳腐を否定した時にヒトという種の価値は全て消え去るという事を




嗚呼、なんてお笑い種。

分かりやすい絶望とちっぽけな憎悪を抱えている自分ですら馬鹿らしいと笑ってしまう綺麗事に縋りつきたいと思ってはいるのだ。

これはもう自嘲するしかないレベルにまで論破されたのだが………当の本人は恐らく気付いていないのだろう。

今までの真剣な顔を消して、何時ものようにこの星では有り得ないどこにでもいる少年のような笑みを浮かべて





「ま、俗っぽい言い方をすればやりたい事、好きな人がいれば大抵の人間は人生を満足するっていう話だ。アイナはどうだ? やりたい事、あるいは好きな人とかいないのか? 恋バナしようぜ!」




言葉通りの俗っぽさについ口を緩めてしまう。

本当にこの人は───私が手に入れる事が出来ないものを簡単に口に出す。

他人事故の無遠慮さに煩わしさを感じなかったとは言えないけど………誰も言ってくれない言葉を言ってくれた事だけは少しだけ感謝もしていた。

その偶然キセキに感謝しながら、私も敢えて笑みを浮かべて少年の話題に乗った。




「あら? でしたら出会った時、私の胸を揉んだ妻帯者のお話はどうなるのでしょうか? どさくさに紛れて更に揉もうとしていましたが恋バナではなく修羅場をお望みで?」


「落ち着くんだガール。アレはそう………こう………いや、確かこんな感じで……」


「虚空を揉みしだくの止めませんか?」




ううむ、と唸る馬鹿を見ていると自然と笑みを浮かべれる。

同情も無ければ崇めもしない接し方がどれ程気楽であったか。





───嗚呼、もしかしたら




自分の人生に踏ん切りをつける為に少年はソラから来た天の使いのようなものなのかもしれない。

………それならば、今まで呪う事しか出来なかった相手に多少は感謝してもいい。

下手な救いよりも希望を見る事なく済むなんて所が最高だ。

だから私は笑った。





この星で見せるつもりは無い笑みを………どこかから来た異邦の少年に見せる




先程の馬鹿げた笑い話のような思い出の一つに笑うのが下手糞な少女が居た、と思ってくれたならばいいなぁ、と思って。



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