人生の重み
鮮血が宙に広がる。
まるで雨のように降り注ぐそれを避ける事は不可能であり、アイナは抵抗する間もなく全身を血で濡らす。
呆然と赤い雨を受け止めた私………幼い私はその光景に何の理解を覚える事も出来ない。
例え、その鮮血が元は母と呼んだ物であったとしても意味も理解も覚えれる程、私の頭は賢くもなければ性能も良くなかった。
ぐちゃぐちゃ、と肉を食む音。
その音を聞いて私は今、自分の全身が影に覆われている事に改めて気付く。
自分が影に覆われているのは別に空が曇っているからではない。
………というより今の自分には空を見上げる事は不可能だ。
上を見上げる事が不可能だとかそういうわけではなく………単に自分の上には今、とっても巨大な蛇が存在しているからだ。
ぐちゃぐちゃ、とわざとらしく肉を食む音は続く。
本来ならば一飲みで飲み尽くせれるだろうに、聞かせるかのように肉を食う。
──今ならば分かる
事実、これは私に聞かせるために響かせていたのだ。
お前達に
お前達に
──お前に
やがて母を食い潰した蛇はわざとらしく自分を見た。
見るといっても身長差を考えれば、空が私を見下ろすに等しかったが。
巨大とはいえ蛇の顔が私を見ながら嘲るように瞳を歪めるのが分かった。
そして巨大な蛇の口が開かれる。
絶望しか告げない闇の口腔を見せつけられ──
※※※
気付けば私は起き上がり、布団を抱えてベッドの端にまで逃げていた
「……っは!」
気付いた瞬間、荒い吐息が口から吐き出される。
叩くように口元を抑えるのはそうしないと胃から食べた物全てを逆流しかねなかったからだ。
喉奥から込み上がる物を鼻から呼吸して得られる新鮮で冷えた空気でゆっくりと押し戻しながら
「………夢?」
自分の口から洩れた言葉で今を認識しようとしたのに……告げた言葉には信じられないという気持ちが乗せられていた。
本当ならば、私はもうあの
成程、確かにその通りである。
あの日からアイナには
どちらの方角に視線を向けても一寸先は闇。
先なんて見えない。
どこに歩いても直ぐに壁にぶつかる。
どん詰まりのどん詰まり。
でも、それはしょうがない事だ、と笑う。
だって生まれてこの方──救いなんて見た事が無いのだから
そう思いながら、私は布団を引き寄せ、膝を曲げて額に付ける。
今日はもう寝る事など出来まい。
寝て、覚めて、生きる──そんな当たり前の様で最大の贅沢を私は得た事が無い。
寝て起きる度に近付いてくる恐怖が生きるという祈りを崩すのだから
※※※
暗闇の中に浮かび星々を見上げながら、アリアンは宿の屋根の上で寝転んでいた。
文無し──ではなく気分とまぁ通信環境が少しでも整うかと思っての事だ。
「オリアスーー? 聞こえるかー?」
アリアンはそう多くの荷物を持っていない。
精々が服装と共通貨幣と腰に差している剣とディアラから持たされたハンカチとかティッシュとか保存食とか………意外と持っていたか俺……。
………ともあれ、こう分かりやすい通信機器などは持っていない。
厳密に言えば必要が無い。
『はい、勿論聞こえてますよ兄さん。通信妨害等一切が無いので感度良好です』
目の前に現れる空間モニターにはオリアスの元気な姿が映っている。
見た感じオリアスだけみたいだから、他のメンバーは恐らくだがサームと合わせて就寝に入っているのだろう。
万が一に備えて一人くらい寝ずの番はいるだろうが………休めているのならば問題無い。
「ま、状況としちゃ分かりやすいもんだったよ。あの無駄にでかい蛇に抑圧されて生き続けている。アレをどうにかする超人がいるわけでもなければ、技術で戦う為の時間が足りなかった……ま、本当にただ運が悪い世界だな」
惑星サームに住む人は一切間違いなど起こしていないのだろう。
ただ一匹が絶対に予想する事が無い進化を果たした事により全ての未来が閉ざされてしまった。
実際にこれは責めれる要因は無い。
特別異常な法則が無い世界でたった一匹だけが異形に育つと予想出来るものか。
『……惑星サームの人達からしたら悪夢だった……いえ。今も続く悪夢ですよね』
「だろうな。敵う事が出来ない絶望がずっと眼前にあるんだ──苦しさだけが募っていただろうさ」
これが自業自得の結末であれば嘆きはしても理解は得れるだろう。
最悪だけど失敗してしまっただけなのだ、と。
それが今回は自分達が何かをしたわけでもなく、自然発生した異常現象という意味も理屈も通らない理不尽による暴虐だ。
「顔無し共がとっとと来てたら、こんな事にはなって無かっただろうに」
『あそこは正義を謳っているだけに守らなければいけない人がたくさん居ますからねぇ』
顔無し………正式名称は
膨大なんて言葉では全く足りないこの星海において正義を追求するイカレ集団の事である。
ある種星海における警察機構………というよりやっている事を考えたら
様々な星における悪事悪党悪夢を各々の正義を以て取り締まる武闘集団。
………なのだが、守るべき範囲が無限にも等しい世界なので全く手も足も足りていないのだ。
きっとどれだけの人が所属しても人手不足という悩みは何時までも解決されない組織だろう。
その分、どいつもこいつも正義に生きるイカレタ怪物揃いなのだが。
「ま、俺には正義なんて口に出すだけ恥ずかしい単語だわな」
『………』
おや? そこは遠慮なく"そうですね。兄さんは正義というより自分勝手っていう方が合ってますしね"とかいう返しが来ると思っていたのだが。
そんな風に内心で首を傾げていると
『兄さんは………正義は嫌いですか?』
そんな問いを返され、結局本当の首も傾げながら
「いや? 俺が正義を嫌っているんじゃなくて正義が俺を嫌っているんだよ」
どれだけ口を裂かせても自分が正義に好かれているとはとてもじゃないが言えない。
正義とは正しい義によって動く事だ。
この場合の正しいというのは千差万別だ。
法こそが正しさの証と言う者も居れば、正しいと信ずる行動こそが自身の正しさだと思う者もいるだろう。
俺が思う正義はどちらかというと後者だが……どちらにしろ自分は正義に値しない。
否、値になどなって欲しくない。
嘘偽りであったとしても──あの行いが正義であっていい筈が無い。
だから俺は正義から嫌われる立場である方がいい。
そんな旨をオリアスに告げると弟は不満そうに
『そんな……邪悪はアレであるべきです! 兄さんは最悪の中の最善を──』
「オリアス」
続く言葉を断ち切らせる。
俺の言葉に押し黙る弟に苦笑するが………正しいのは弟なのだと感情でも理性でも感じている。
きっとそうなのだろうとは思う。
だから俺は弟が誇らしく感じる───が人間には出来る事と出来ない事の区分が違うのである。
いや、この場合は正しい事の区分だろうか。
オリアスの言葉は正しい──だけど俺にはそれを頷く事が出来ない。
うっかり頷いたら自分を殺したくなる
感情も理性も正しいと感じ取っているのに。
そういった所は人類種の不便な所というべきからしい所というべきか、と思うがしょうがない。
「ほら。オリアスもそろそろ
『また僕を子供扱いする………』
「どんなに歳月を経ようとお前は永遠に俺の弟なんだからそこは諦めな」
俺の言葉にむぅ、と呻きながらしかしおやすみなさいと不満たらたらに通信を切るのだから可愛い弟だと笑い
『趣味悪いわよ貴方』
と新たに空間モニターにボイスオンリーのモニターが現れたのを見ておや、と首を傾げる。
「なんだディアラ。起きていたのか」
『最初から居たけどシャワー浴びていたから喋れなかったの──ちょっとそこで露骨に舌打ちしない」
「好いた妻の艶姿を見たくない夫がいると思うか」
『………馬鹿な事言わないのっ』
照れた声に素直に可愛い、と思う事を自分に許す。
先程の言葉も自分にとっては本心を言ったに過ぎない。
俺にとってディアラは誰よりも可愛らしく、愛しい至高の宝石。
この世の存在全てと比べても彼女に対する愛に比べれば万象全て無価値………というとディアラは喜ぶのか、それとも哀しむのかな。
『コホン………えっと何だったかしら………そうオリアスの事よ。あんな捻くれた対応して。あの子は真っ直ぐなんだからわざと歪めた対応するのは止めなさい』
「全くもってごもっとも」
真っ直ぐな弟に対してうだつが上がらない馬鹿兄貴というのも定番だよな。
それを含めて弟が誇らしいし、だからこそオリアスは俺に変わって欲しいのだろうけど……無理なモノは無理なのである。
その思考を読み取られたのか。
画面からはぁ、と小さな溜息が聞こえ
『自罰主義も行き過ぎたら毒沼よ──理解した上で嵌る人間を何て言うか分かる?』
見事な例えにアリアンは笑った。
全く以てその通りだ。
自罰は過ぎれば、最早罰という救いではなく憎悪という呪いに変わる。
尽きぬ憎悪はきっと延々と──否、永遠と自分を苦しめる毒の沼と変わるだろう。
それを理解しているからこそアリアンは困ったように笑った。
「………難しいなぁ………」
※※※
「────」
ちゃぷり、と浴槽に波が生まれる。
船の動きも無ければ当然風も無い浴室で浴槽のお湯に波が生まれたのはそのお湯に入っている少女───ディアラの体が動いたからだ。
動いた理由は少年の呟きの意味を正しく理解したから。
傍目から見たら呑気な声で自身をより良くするのは難しい、という怠惰か、もしくは小さな悩みみたいな呟きであっただろう。
しかし、ディアラにはその呟きがアリアンという少年の魂の奥底から放たれた絶望にも等しい諦めから生まれた物だという事を理解してしまった。
「っ………」
口を噛み締める。
目の前に居ないというのに抱きしめたくなるような悲哀に対し、ディアラは噛み締めた。
分かっている。
私の敵は強大だ。
辛過ぎて前を向くしかない程の諦めに至り、泣く事さえ難しくなった彼を私は諦めたりしない。
時折こうして背後から突き刺すような一言に私の心が折れないように、負けないように気丈に振舞うのが妻としての役目であると理解している。
だからこそ、私は敢えて憐憫の言葉なんて告げなかった。
「───難しくともやらなきゃいけない事なんだからやり遂げるのよ。出来ないなんて言わせないわよ。貴方はオリアスの兄で私の夫なんだから」
私達には幸せになる義務がある。
婚姻とは男女がただ同じ生活をするだけではない。
夫婦共に支え合い、幸福を築き上げるという覚悟を持って結ばれる比翼の誓いだ。
アリアンには私を幸せにする義務があるし、私はアリアンを幸福にする義務がある。
故に毅然とした言い方を心掛けたのだが
『ご褒美に自発的なチューが欲しいなぁ』
こいつ実はまだ余裕があるな? と真顔で画面を睨む。
しかし慌てる必要は無い。こういう時のアリアンはこちらをからかって言い逃れしようとしているのだ。
ここで恥じらったり、怒ったりしたら負けだし、何より妻である私がそんな事で慌てる方がおかしい。
なので余裕の表情で髪をかき上げながら………頬の赤身を湯船に漬かっているからと言い訳し
「………まぁ、それくらいなら」
『やった!?───まぁ冗談は置いといて』
「………冗談なの?」
『君を欲する時は君の心が受け入れた時に俺の意志で奪いたい』
直接的な言い方に顔がより赤くなるのを湯に漬かり過ぎた………からとは流石に言い訳出来ず、くぅ……と唸る事になる。
よくもまぁこんな言い回しを思いつく。
誰に習ったのやら。
「………まぁいいわ。そちらももう夜時間なのでしょう? 寝た方がいいんじゃない?」
『ディアラは今直ぐ寝るのか?』
「ううん。これから体を拭いて髪を乾かすから、もう十数分はかかるけど」
『じゃあその間は起きているよ。どうせなら君と一緒に寝たい』
くすぐったくなるような言葉を聞き……しかしディアラもまた破顔した。
気恥ずかしさがあるのは当然だが………愛している男に一緒でありたいと請われるのは女の喜びだろう。
心に沸き上がる感情に素直になれる事を今だけは喜び、口にした。
「───ええ、そうね。貴方の声を聞いて寝れるのは宇宙でただ一人、私だけの幸せだもの」
※※※
アイナは自室から外出の際に必要な物とマントを手に取り、部屋から出る。
廊下に出ると無駄に広々としているので、これを見る度に贅沢と楽は別物ですね、と思ったりする。
豪華絢爛という言葉は皆が憧れる物なのかもしれないが………そこで住むとなれば酷く面倒な事が多々あるのだ。
移動や掃除は広くて長いから面倒だし、豪華過ぎて物だったり何だったりを使用するのに躊躇いが生まれる事が多々あるのだ。
人々からしたらやんごとなき人なのだから当然というのだろうけど
「………何れ無駄に終わる相手に無駄に与える方が無駄というものでしょうに」
肩にかかった金の髪を払い除けながら無感動に告げる。
朝っぱらから無駄無駄無駄と三連続で言い放ってしまったが、どうでもいい独り言である。
その思いのまま外に部屋から離れようとし
「───無駄ではない。国を、否、星を守ろうとする者に対しての礼と祈りを尽くす事こそが我らの務めだ」
朝から荒んでいた感情が一気に凪のように静かになるのを感じ取りながら振り返る。
そこには傍から見たら威厳があり、国の上に立つに相応しくも、しかし悪趣味ではないレベルの豪奢な服装を纏った男性が立っていた。
この国は王政を敷いており………分かりやすく言えばこの人はこの国の王であり
「………お父様」
自分を生んだ父親………である。
父である王はしかめっ面のまま厳かに下知するかのように告げる。
「アイナ。お前の体はお前一人の物ではない。この星に住まう者全ての希望である以上、この星の誰よりも感謝を尽くさねばならない。それは私であっても例外ではない」
「………」
父の王としての言葉をアイナは右から左に聞き流す。
本来であれば不敬とされる行為なのだろうが………私の心には罪悪感も無ければ礼を失したという意識も無い。
はっきり言うならば………私はこの人に対して王としての畏敬の念を覚えているわけでも無ければ、父としての親愛も無かった。
アイナの心境を語るなら………そう、目の前で肉の塊が人語をくちゃくちゃと囃し立てているな、である
アイナは別種族に対して偏見は持っていない。
事実、民の皆には壁は感じても無関心を抱く程ではない。
精々が苦々しさを感じるくらいだ。
しかし父に対しては明確に無関心を向けていた。
それを恐らく父は理解しているのだろう。
続けていた説教を終えたら何を言う事も出来ずにただ案山子のように立つだけだった。
だからアイナは即座に失礼します、と無感動の口調で形だけの礼を行い、父の横を過ぎて出かけようとして
「………異邦人の男に会いに行くのか?」
つい足を止める。
足を止めた理由は怒りを覚えた───からではなく理解を得たからだ。
ああ………そうでしたね。第三者から見たら今の私は星海から現れた少年と密会する怪しさ満点の女………王女でしたね………
内心でクスリと笑う。
そうして見ると、ああ成程………この人の視点から見ればこの国の王女は星海から来た旅人に救いを求めているように見えるのか。
それならばわざわざ冷えた会話をしに来る理由がある。
そうと分かれば鬱陶しい会話を続ける気はない。
アイナは直ぐに振り返り、見たくないという意志で頭を下げて
「ご安心をお父様───民を見捨てて一人自由になろうとは思っていません」
前半には一切の感情を籠めず、後半にだけ少しだけ感情を籠めて告げる。
それでも父親はとりあえずは満足したのか。うむ、と頷く。
それだけ聞けばここに留まる理由は無い。
今度こそ立ち去ろうと思い、顔を上げ
「アイナ───私達はこうして生きていくしか無いのだ」
「───」
隙を読み取られたかのような最高のタイミングで告げられた言葉に私はどんな表情を浮かべただろうか。
絶対に知りたくない、と思い、意地でも父の瞳を見るのだけは拒否した。
顔を上げた関係上、父の顔だけは見てしまう。
そこにあるのは酷く顔色が悪い男の顔があった
くぼんだ瞳にこけた頬。
最低でもここ数日はまともに睡眠や………最悪食事も摂れていないのかもしれない。
もしくは何か重篤な病を抱えているのかもしれない───が、アイナはそれを顧みる気はなかった。
アイナが父に思う事はただ一つであった。
───被害者面して加害者になるのならば不景気な顔をわざわざ見せに来るな
どうせならば無遠慮に見捨てればいい。
そこまで苦しむのならば全てを捨てて───
暴走する思考を唇を噛む事によって止める。
今更そんな思考を浮かべてどうする。
私はこの人に対して期待も希望も抱かない代わりに愛も抱かないと決めているのだ。
だから、アイナは父がどれだけ苦しんでいても知った事じゃない。
早歩きで無駄に長い廊下を歩きながら無理矢理にこれからの事を考える。
今となってはアイナが当たり前のように人と接する事が出来るのは異邦人の少年のみなのだから
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