2020.5.5 17:56

ジヨンの部屋。奥にある古い箪笥の上に十字架が安置され、彼女はその前で膝をついて祈っている。銀河は自室から、文章を印刷したコピー用紙数枚と『ネクロノミコン』、和菓子屋の紙袋を持って出てくると、ジヨンの部屋の前で待っている。


ジヨン:Ave Maria, gratia plena, Dominus tecum, benedicta tu in mulieribus, et benedictus fructus ventris tui Jesus. Sancta Maria mater Dei, ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae. Amen.(アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたち罪びとのために、今も、死を迎える時も、お祈りください。アーメン。)

銀河:Amen.

ジヨン:どうぞ!


銀河は襖を開けて入ってくる。二人はペン立てとジヨンのスマートフォンが置いてあるちゃぶ台を囲んで座る。


銀河:失礼します。ジヨンさんはラテン語ができると聞いたので質問したいことがあるんですが、お時間ありますか?

ジヨン:今日は特にすることはないから大丈夫。

銀河:今のお祈りもラテン語ですか?

ジヨン:ええ。

銀河:今はカトリックも現地の言葉を使っているんでは?

ジヨン:普通はそうだけど、私の場合は単に好きだから。

銀河:いいですね、好きな言葉を選べるって。私なんか英語で精一杯です。

ジヨン:ドンブロウスキさんは褒めていたけど。銀河さんの英語は丁寧だって。

銀河:あはは……なら良かった。それでですね、質問というのがいうのがこの本についてなんです。

ジヨン:これは英語じゃないの?

銀河:そうなんですが、ラテン語を引き写しているところがあってそこを読みたいんです。(コピー用紙を取り出す)読みやすいように書き写しました。

ジヨン:うーん、少し専門的な文章だからわかるかどうか。何に関する本なの?

銀河:いわゆる魔道書の中の、数学的な記述です。


ジヨンはスマートフォンを取り出して検索しながら、銀河から受け取ったコピー用紙を読み始める。


ジヨン:書き込みしてもいい?

銀河:どうぞ。

ジヨン:(ペンを取る)……聖域を作るのは……力かつ論理である。門からの使者は……「現れ」である。彼は血と肉を持つ人の身を永遠の……神の体に造り変える……讃えるべきかな、大いなる使者は。後に示す論理によって門の統べる地に至るべし……あ、この後が数学に続くわけね。

銀河:信仰を実践するために数学を使うという内容みたいです。多分直接関係があるわけではないので、大雑把な内容がわかればそれで……

ジヨン:ざっと読んだ感じだと儀式の手順の説明に見えるけど、これは土着の宗教の記録か何か?

銀河:おそらく。元々はアラビア語の文献だそうです。

ジヨン:神の世界に行くか、神を呼び出すかして「恵み」を受けるという内容みたい。そのための方法が数学である、ということだと思う。

銀河:神秘学に数字はつきものですし、そういう系統のものかもしれませんね。ありがとうございます。これで研究が進むと思いますよ。

ジヨン:でも、この手のものには深入りしない方がいいかもしれない。

銀河:どうしてです?

ジヨン:何というか、儀式の目的が不穏なの。神と合一して不滅の生命を得るとか、「門」を開いて向こう側のものを呼び出すとか……。

銀河:試しがいのあることだとは思いませんか?

ジヨン:これを書いた人は、門の向こうにいる神とは何のことだと思っていたの?

銀河:そこはまだよく読めていないんですが、エジプト神話と関係があるようです。もっと広い地域に伝わる信仰だという説もありました。

ジヨン:世界にはまだ私の知らない文化があるのね。

銀河:まさしく。ところでこれはもうご存知の文化だと思いますが……


銀河は紙袋から饅頭を取り出す。


銀河:おやつを食べませんか。葉月屋の酒饅頭です。

ジヨン:ありがとう。


ジヨンは饅頭を受け取ってから、銀河が自分の分を持っていないことに気がつく。


ジヨン:あなたも食べる?

銀河:ありがとうございます。


ジヨンは饅頭を半分に割ると銀河に返す。二人は饅頭を食べながら話を続ける。


ジヨン:両親とも日本に来てから和菓子が大好きなの。私もよ。

銀河:家族でこちらに?

ジヨン:そう、小学生の時に。愛知で育ったんだけれど、私だけ就職で赤牟あかむに来たの。銀河さんも進学で来たんでしょう?

銀河:そうですね、ずっと一人暮らしです。

ジヨン:アルバイトはしているの?

銀河:不器用なので、勉強とそれ以外を一緒にやるのはなかなか…最近、祖母の遺言で遺産を相続したので、学生のうちは生活費も学費も出せそうで助かっています。

ジヨン:おばあさんと仲は良かったの?

銀河:いや、家族とはあまり……田舎を出られた時は嬉しかったですよ。

ジヨン:赤牟も田舎でしょう。

銀河:うちの村とは全然違いますよ。大学も図書館もあるし、歩いてコンビニに行けるし。ずっと、遠いところに行ってみたかった。

ジヨン:銀河さんは実行力があるからどこにでも行きそうね。

銀河:院生になったらアメリカに行きたいんです。

ジヨン:だから英語を勉強してるの?

銀河:そうです。

ジヨン:銀河さんならきっとすごい学者になるでしょうね。

銀河:そうでしょうか……


江森が廊下に登場する。


江森:ジヨンさん、今いいですか?

ジヨン:はい、どうぞ。


ジヨンは廊下に出る。銀河は部屋の中から見ている。


江森:お風呂の件なんですが、ドンブロウスキさんから——


大きな鼠が銀河の部屋から出てくると廊下を横切って消える。


江森:あ!鼠が。

銀河:この家、出るんですか?

ジヨン:ドンブロウスキさんに言わないと。

江森:嘘だろ?


江森はばたばたと一階へ降りて行く。


ジヨン:何をしに行ったんでしょ。

銀河:毒か何か使うんじゃないですか?

ジヨン:ああ、そうね。


江森は塩の入れ物と何枚かの小皿を持って戻ってくる。


江森:まずいことになった。何とかしないと……


江森はぶつぶつ呟きながら皿に塩を盛り、手近なところから全ての出入り口に置き始める。


銀河:(廊下に出る)何やってるんだ?

江森:盛り塩だよ。

銀河:いや、だから何で?

江森:鼠が出たら盛り塩するんだ。放っておくと誰か鼠に取られるかもしれない。

ジヨン:鼠に取られる?

江森:言わないか?子どもがいなくなったり元気そうだった人が突然死ぬと、鼠に取られたって…

銀河:私のところではそんなこと言わなかった。どこの風習?

江森:前に赤牟にいた時に曾祖母ひいばあさんに教えられた。

銀河:地元民なの?知らなかった。

江森:小学校まではね。それから引っ越して、俺は進学で戻った。

ジヨン:江森さん、塩を使いすぎるとドンブロウスキさんの機嫌が悪くなる。

江森:わかってる、後で買い足しておくよ。

銀河:あと、ジヨンさんとドンブロウスキさんはクリスチャンだから盛り塩はしないと思う。

ジヨン:お葬式から帰ると塩を体にかけるけど、それと同じ?

銀河:まあ、そういうものかと。お守りにも塩が入ってることがありますよ。江森、私の部屋の前はいいから。

江森:魚沼の部屋から出てきたんだからちゃんとやらないと。

銀河:私はそういうことは信じない。

江森:魔道書は読むくせに。

銀河:あれは研究だ。それより苦情を言った方が早い。

江森:絶対に駆除してもらわないと。


江森は退場する。銀河とジヨンはジヨンの部屋に戻る。


銀河:どうしてあんなに迷信深いんだろう。ジヨンさんの部屋の塩は片付けまし

ょうか。

ジヨン:いいわ、邪魔でもないし。


銀河は机の上に広げた資料を片付け始める。


ジヨン:ああいうのをそう悪く言うものでもないかもよ、伝統が残っている証拠だから。

銀河:大学の同級生とか、近所の人とか、みんな何かを恐れているんです——漠然とした、超自然的なものを。鳴子なるこ神社ってわかります?

ジヨン:ああ、山のふもとの。お祭りがあるところね?

銀河:うちのゼミの人達、みんなあそこのお守りを持ってるんです。私が持ってないことを知ると、あの手この手で持たせようとしてきます。

ジヨン:そういえば私の職場の人も、そんなようなことを言っていた。カトリックだって言ったらそこで話が終わったけど。

銀河:お互い苦労することもあるでしょう。あなたは違う信仰を持つということで、私は信仰を持たないということで。

ジヨン:銀河さんは無神論者?

銀河:はい、学問と自分の理性以外に拠り所にするものはありません。

ジヨン:自分の意志で道を行く者は誰よりも強い。

銀河:そしてジヨンさんの前には別の道がある。

ジヨン:目的地が違うとは限らないかもしれない。

銀河:どうでしょうか。信仰を持つ人の視点を体験したいと思うこともあるんですよ。

ジヨン:同じね、私は神のいない世界がどう見えるのか知りたい。

銀河:説明すると長くなりますよ。

ジヨン:お互い様だから大丈夫。晩ご飯の時間になったら終わらせましょう。

銀河:じゃあ、お手柔らかに。


二人はジヨンの部屋に戻り、扉を閉める。

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