第3話 池巣奏絵の思惑


 池巣奏絵は、自分こそが世界中の誰よりも不幸な人間だと信じて疑わなかった。


 学生時代、周囲の人間が就職先が決まらず、日々、追い詰められ、摩耗していく中、池巣だけはあっさりと株式会社クリエッシングに内定。


 CG文庫編集部へと配属され、担当することになった作家の本が大ヒット。


 増刷を重ね、アニメ化が決定した。


 自分の肩書きがただの編集から、アニメ化作家の担当編集に変わる、そう信じて疑わなかった。


 だが、実際はそうはならなかった。


 担当していた作家が、切島愛奈が、あんな問題を起こしてしまったからだ。


 アニメ化の企画は白紙撤回され、小説はすべて絶版。


 市場に出回っている分も回収する事態にまで発展した。


 出版社として謝罪したものの、愛奈がしでかした問題の炎上が、まったく沈静化しなかったのだ。


 順風満帆の日々はそうして終わってしまった。


 池巣自身は愛奈がしでかしたことに関与していなかったが、それでも愛奈が実はイラストを担当していなかった事実を担当編集として知らなかったでは済まされないと、編集長から厳重注意とそれなりに重い処分を受けた。


 呼び出された別室から編集部に戻ってきた時、同僚たちから向けられた視線を、池巣は決して忘れない。


 池巣を憐れむような視線。


 池巣は激しい怒りと耐えがたい恥辱に身震いした。


 そしてそれは、その後の同僚たちの、池巣を気遣うような接し方によって、さらに増すことになった。


 溜まるストレスで、池巣はどうにかなってしまいそうだった。


 だが、そんな日々も、もう終わりだ。


 むしろこれからの日々は、同僚たちがうらやむような視線を向けてくるに違いない。


 何せ、今、もっとも注目を集めるイラストレーターである『彩』に、イラストを描かせることを承諾させることができたのだから。


 つい先日、きら星のごとく現れたラノベ作家・藻ノ。


 その処女作は読者の圧倒的な支持を得て、増刷を何度も繰り返している。


 記録的な売上を叩き出している要因は小説自体が面白いことももちろんあるが、イラストの存在もかなり大きかった。


 なぜなら、小説の世界をこれ以上ないくらい完璧な形で表現しきっていたからだ。


 その圧倒的な画力に魅了されたのは、何も読者だけではなかった。


 このイラストレーターと仕事がしたい、という編集者。


 自分の作品のイラストを担当して欲しい、という作家。


 それらが大量に現れたのだ。


 実際、同僚だけでなく編集長、それに周辺の作家がそうだった。


 そのため、彩とコンタクトを取った。


 SNSを始めてからは直接。その前は出版社経由で。


 しかし、彩から色よい返事をもらったものは誰一人としていなかった。


 藻ノ以外と組むつもりはない――というのが、彩の理由だった。


 だが、池巣は違う。


 その彩と仕事をすることができる。


 彩が、須囲才賀という、愛奈の関係者だったおかげで。


 愛奈にはひどい目に遭わされたが、才賀と引き合わせてくれたことだけは感謝してもいいだろう。


 もっとも、これから先、愛奈のことを思い出すことはないだろうが。


 これからは才賀を利用し、再び、アニメ化作家の担当編集の座を目指す。


 いや、才賀のイラストがあるなら、劇場版アニメだって狙えるだろうし、TVシリーズだって1クールでは終わらないに違いない。


 それだけのポテンシャルが才賀のイラストにはあった。


 才賀は藻ノの小説のイラストも変わらずに続けると言っていたが、こちらの仕事が本格的に始まれば、再びアニメ化の話をちらつかせて、こちらの仕事を優先させればいい。


 そうして最終的には、こちらの仕事だけを専属でするように仕向けるのだ。


 池巣はCG文庫編集部内にある自分の席から立ち上がると、編集長のもとへと向かうことにした。


「……さて。それでは編集長に報告してきますか。あの『彩』を起用することができたと」


 そうすれば、自分は一目置かれることになるだろう。


 編集長ですら断られた彩を連れてこられるなんて、と。


 池巣は自らの未来はバラ色で、素晴らしいものになると信じて疑わなかった。

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