第2章 悪意の系譜

第1話 アニメ化オファー




 話しておきたいことがある。


 近くに来ることがあったら、事務所に立ち寄って欲しい。


 天空てんくう出版の社長であると同時に編集者でもある辺見へんみ秋帆あきほから、昨日、そんな内容のメールが届いた。


 そして次の日である今日。


 須囲すがこい才賀さいが語部かたりべ萌乃ものと一緒に、放課後、学校終わりゆえ制服姿のまま、天空出版へと向かっていた。


「ね、才賀くん」


 隣を歩いていた萌乃が話しかけてくる。


「話しておきたいことって何だろうね?」


「辺見さんのことだから、たぶん、それほど大したことじゃないと思う」


 近くに来ることがあったら立ち寄って欲しい――なんて書いてあったことからも、仕事にまつわる用件ではないのだろう。


 ならば、話を聞くのは、そのうち、打ち合わせをする時でもいいと才賀は思ったのだが、


『何だか気になっちゃって。行ったら、だめ……かな』


 自著一冊目にして一躍売れっ子ラノベ作家となった萌乃は、イラストレーターを務める才賀にとって仕事上の大事なパートナーであると同時に、かけがえのない恋人でもある。


 そんな萌乃にお願いされたのだ。


 才賀には断るという選択肢はまったくなかった。


 萌乃が恋人繋ぎをした手を、うれしそうに見つめている。


 こんな些細なことにでも喜びやうれしさを見出す萌乃に、才賀はますます愛おしさを募らせる。


 人目がなかったら、思わず抱きしめていたに違いない。


 往来でそんなことをするわけにもいかず、しかし何かしら自分の中から湧き出てくる思いを伝えたかった才賀は口を開いて、


「萌乃、好きだ」


 萌乃が驚いたような顔で才賀を見た。


 それから萌乃は頬をほんのりと赤く染め、


「うん、わたしも才賀くんのこと、大好き」


 ふわりと笑顔の花をほころばせ、才賀の胸の奥にあたたかいものを宿らせた。




 才賀たちが天空出版の事務所を訪れると、ちょうど秋帆が電話を終えるところだった。


 受話器を置いた秋帆が才賀たちを見て、不思議そうに首を傾げる。


「お二人とも、今日はどうしました? 2巻の校閲最終チェックならまだ戻ってきてないですし、3巻の打ち合わせなら、つい先日したばかりですよね? もしかして夜も寝ないで昼寝して仕事に打ち込んでいる私に、陣中見舞いですか? いや~、うれしいですねぇ」


「本気で言ってないよな? 辺見さん」


「ふふふ、どうでしょう」


 秋帆は食えない笑みを浮かべると、才賀たちをいつも打ち合わせする時の定位置である椅子に案内して座らせた。


「メールの件ですよね。近くに来た時でいいっていったような気がするんですけど、まさか次の日に来るなんて。そんなに気になっちゃいましたか?」


「はい」


 素直にうなずいたのは萌乃である。


「まあ、全然大した話じゃないんですけどね? お二人の小説をアニメ化したいっていうオファーがきたっていうだけで」


 秋帆が「ね? 大した話じゃないでしょう?」と頬に手を当てて言う。


「ちょ、ちょっと待ってください! それって全然大した話ですよね!? すごく大事ですよね……!?」


 萌乃が立ち上がって、両手をわちゃわちゃさせ始めた。


「ふふふ。慌てふためく藻ノもの先生ってばかわいらしくてたまりませんねぇ」


「慌てふためく姿だけじゃない。萌乃はいつだって、どんな時だってかわいい」


「……真顔で何言っちゃってるんですかね、この人」


「本音がダダ漏れだぞ、辺見さん」


「嫌だなあ、さい先生。わざとですよ?」


「知ってた」


「ふ、二人とも! どうしてそんな落ち着いてるんですか!? わ、わたしと才賀くんの作品をアニメ化したいっていうオファーがきたんですよ!?」


「萌乃の書く小説は世界で一番面白いからな。オファーがくるのは当たり前だろ? むしろ、くるのが遅すぎたくらいだ」


「なぁっ……!?」


 才賀の嘘偽りのない心からの言葉に、萌乃の顔が信じられないくらい真っ赤になる。


 何なら、頭から湯気でも噴き出すんじゃないかと思えるくらいだ。


「あ、ありがとう、才賀くん……」


「本当のことだからな」


「ぁ、ぁぅ……」


 これ以上ないくらい顔を真っ赤にしていたはずの萌乃が、さらに顔を赤くした。


 才賀はそんな萌乃を見つめ、萌乃も才賀を見つめ。


 二人の間に、砂糖と水飴と蜂蜜とガムシロップとメープルシロップをめいっぱい混ぜ合わせたような甘ったるい雰囲気が漂い始め。


 ぱんぱん、と手を叩く音に、二人はハッとなる。


 手を叩いたのは、呆れたような顔をしている秋帆だった。


「はいはい。そういう惚気的なことはふたりきりの時だけにしてもらっていいですかね? 甘ったるすぎて胸焼けしそうなので」


 秋帆の言葉に、萌乃が恥ずかしそうにその身を縮こまらせる。


「何言ってるんだよ、辺見さん。そこは辺見さんが気を遣って見て見ぬふりをするところだろ?」


「ちょっと彩先生が何を言ってるのか、よくわからないですねぇ」


 笑顔で睨みつけてくるという、そんな器用さを見せつける秋帆。


「まあ、冗談はさておき」


「いや、わりと本気だったんだけど」


「冗談はさておき……! 彩先生の言うとおりだと私も思いますよ。アニメ化のオファーがくるの、もう少し早いと思ってましたし。面白いのはもちろんですけど、売上が大変素晴らしいですからね……!」


 1巻はあれからも順調すぎるほどに版を重ねていた。


「藻ノ先生と彩先生の才能を見抜いた私の慧眼が恐ろしすぎる……!」


「わたしもそう思います!」


「……あ、いや、今のは半分冗談だったんですけど」


 苦笑する秋帆だったが、


「半分は本気だったのか」


 才賀が呟けば、


「当たり前じゃないですか!」


 とドヤ顔をめる秋帆である。


 才賀と秋帆がそんなとりとめのない話をしている間に落ち着きを取り戻した萌乃が口を開く。


「それで、あの、アニメ化のオファーの話なんですけど」


「ああ、そうでしたね。どうします? 受けますか?」


「……あの、その言い方だと断ってもいいみたいに聞こえてるんですけど」


「ええ、そうですよ。断っていただいても全然かまいません。まったく問題ないです」


 秋帆がそんなことを言うとは、まさか思っていなかったのだろう。


 萌乃は言葉を失ってしまった。


「アニメ化の話を断る作家さんも普通にいらっしゃいますし。そもそもアニメ化することでメリットもありますけど、デメリットもありますからね」


 秋帆は言う。


 メリットというのは、アニメ化されることで新規読者の獲得が期待されること。


 アニメ化に合わせて増刷されること。


「さらにそのアニメが社会現象になるほどヒットすれば、増刷に次ぐ増刷でウハウハですよ!」


「ちょ、言い方が……!?」


 才賀が思わずツッコミを入れれば、


「え、でも大事なことですよね? 生きていくのにお金は必要じゃないですか」


 秋帆の言葉を、才賀は否定できない。


「他にもアニメ化したいのにアニメ化できない同業者にマウントを取れるとか、そういったメリットもありますが」


 それはメリットなのだろうか。


 才賀の疑問に、秋帆は意味深に笑うだけだった。


「それでデメリットの話ですけど。アンチが増えます。ネットでめちゃくちゃ叩かれます。炎上することもあります」


 それまでのおちゃらけた雰囲気から一転、秋帆が真面目なトーンで続ける。


 どの世界にも、無条件で否定してくる人がいる。


「ネットで小説を発表していた藻ノ先生ならご存じですよね?」


「…………はい」


 萌乃の、苦い表情がすべてを物語っている。


 実際、現在発売中の小説だってみんながみんな、素晴らしい、最高だと絶賛しているわけではない。


 ――こんなくだらない小説が売れてるとか世も末だ。


 ――作者の妄想を垂れ流されても。


 ――買って読んでみたけど時間の無駄だった。


 ――この作者は地雷。


 ――史上まれに見るクソラノベ。


 他にもあれこれ。


 小説の売上が伸びれば伸びるほど、そういった声は増えていった。


 それがアニメ化することでさらに増えると、秋帆は言う。


「それだけじゃありません」


 萌乃の成功を面白くないと感じる人たちが、萌乃の過去の発言を掘り返す。


 そしてこう言うのだ。


『こんなことを言った作者の作品がアニメ化されてもいいのか……!?』


 と。


 そしてそれは善意の第三者を自称する輩によって拡散され、激しく炎上。


 アニメ化の話が流れるまで、その炎が収まることはない。


「他にもまあいろいろ面倒くさいことが起こったりしますね。アニメ化ともなると関わる人がめちゃくちゃ多くなりますし、関わる人が多くなればなるほど面倒くさいことになるのは世の常ですから」


 実際、そのとおりだと才賀も思う。


「さて、改めてお尋ねしますね、藻ノ先生。アニメ化のオファー、どうしますか?」


 秋帆は真面目な表情を崩さない。


 萌乃はそんな秋帆の視線を正面から受け止めていた。


「受けたいと思います」


「私の話を聞いても、その考えは変わりませんか?」


「変わりません」


「わかりました。決して少なくないデメリットもありますが、メリットもありますし」


「いえ、そういうのはどうでもいいです」


「へ? どうでもいい……ですか?」


 秋帆が間の抜けた顔をする。


「アニメ化すれば、それだけ才賀くんのイラストが多くの人の目に止まることになりますよね。わたしは才賀くんのイラストを、より多くの人に見てもらいたいんです……!」


「萌乃……」


 才賀にしてみれば、アニメ化した際、批判的なコメントで萌乃が落ち込んだ時、支えになろうとか、そんなことしか考えていなかった。


 だから萌乃のその答えは才賀にとっても予想外もいいところで、だが、うれしくないわけがなくて。


 胸の奥がたまらなく熱くなる。


「ありがとう、萌乃」


 萌乃はやわらかく微笑んだ。


「まあ、そんな理由でアニメ化を受ける作家がいてもいいかもしれませんね」


 呆れたような口調で苦笑しながらも、秋帆は「わかりました」とうなずいた。


「では、アニメ化のオファー、受けるということで。私も全力でバックアップしますんで。成功させましょう!」


 才賀と萌乃は、そんな秋帆の言葉に声を上げて賛同した。


     ※※※※※


 才賀たちは手を繋いで帰っていった。


 それを生温かい眼差しで見送った秋帆は「隙あらばいちゃつくんですから、あの二人は」と苦笑してから、椅子にもたれかかって、天井を見上げながら呟いた。


「……実は藻ノ先生たちに言わなかったことがあるんですよねぇ」


 アニメ化することのメリット、デメリットではない。


 萌乃の小説をアニメ化したいと、そういってきた制作会社のことだ。


「キリナ先生の作品のアニメ化を担当するはずだった制作会社なんですよね」


 キリナ――才賀の幼なじみである切島きりしま愛奈あいなのことである。


 何か裏があるのではないか。


 これまでにもラノベ原作のアニメ化を担当したことがあるので勘ぐりすぎかもしれないが、きな臭いものを感じるというのも秋帆の偽らざる思いだった。


「……まあ、何があってもいいように私も万全の態勢を整えておくとしましょうか」


 秋帆は、才賀たちには決して見せない、あくどい笑みを浮かべるのだった。

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