母と娘、父と子

○森の中。マハーデーヴィー、ロバート、ハルが可能な限り早く歩いている。彼らは木々の隙間からかつてナイラであったニャルラトホテプの化身、闇に吠えるものを見上げ、方向を確認する。


マハーデーヴィー:なるほど、それであなたはナイラと何らかの繋がりがあると?

ハル:彼女は、いえ、その時は男の姿だったのですが、主従契約だと。

マハーデーヴィー:私の娘があなたの主人?あとで説教しておかないと。


ハルは微笑む。


ハル:もちろん人間としては我々は対等だと思いますよ。

マハーデーヴィー:そうでなきゃ。

ハル:思うのですが、その、これが宗教的な何かであるのなら……

ロバート:あなたは神へのメッセージを取り次ぐことができる。ただ、答えがなくとも落胆しないでください。我々の存在は小さすぎて、神々には気に留めることができない。


植物は昆虫の群れに食い尽くされ、ところどころに動物の死体が転がっている。地響きが聞こえ、三人の方に近づいてくる。闇に吠えるものが彼らのすぐ近くに立っている。


ハル:来た!

マハーデーヴィー:ナイラ!


闇に吠えるものは頭部の触手をしならせ天に向かって声を張り上げる。


マハーデーヴィー:ナイラ!聞こえる?お願いだから聞いて!

ロバート:あのお方は最早、娘さんと同一ではないかもしれませんよ。

マハーデーヴィー:黙りなさい!他に何ができるというの。

ハル:お聞きください!僕はあなたに仕えるものです、この人の声をお聞きください!


闇に吠えるものはその「顔」をマハーデーヴィー達がいる方に向ける。


マハーデーヴィー:あなたは確かに私達の娘!私が産んでサラが育てた!ただ、一つ隠していたことがある!思い出しなさい!あなたがあの時、私の元にやって来たなら覚えているはず!


場面は暗転する。


○二十四年前、インド。伝統的な上流階級の寝室。黄色のサリーを着た二十代のマハーデーヴィーが床にうずくまって泣いている。美しく着飾ってはいるが顔と腕に青痣があり、首には強く絞められた痕も見える。彼女の両手は血にまみれ、全身に血飛沫の痕がある。ベッドの上では夫のアルジュンが仰向けで息絶えている。彼の髪の生え際にはまだ血が流れている傷口があり、近くに汚れたガラス製の灰皿が落ちている。黒い外套をまといフードを深くかぶった男がマハーデーヴィーの背後から現れる。彼の肌は黒く、どの民族ともわからないような美しい顔立ちである。彼はタミル語で話しかける。


暗黒の男:良い夜だ。もちろん一部の者にとってはそうでもないが。

マハーデーヴィー:どこから入ったの?

暗黒の男:私は遍在する。他人のことを気にしている場合ではないのでは?


暗黒の男は死体を一瞥する。


マハーデーヴィー:ええ、何をしても無駄でしょうね。夫の両親はすぐ帰ってくる。

暗黒の男:夫?それなら私にもいるが、この家では夫というのは敵のことか。

マハーデーヴィー:結婚するまで知らなかったけれど、そういうことのようね。

暗黒の男:その男に与えられた傷のことなら、私に話さずとも全て知っている。

マハーデーヴィー:与えられたのは傷だけではないと言ったら?

暗黒の男:もちろん、私の知らぬことなどない。

マハーデーヴィー:では放っておいて。これから私がすることも知っているのなら。

暗黒の男:まあ待て、耳を貸した方が良いこともある。そなたの夫が最初からいなかったことにしてほしいか?

マハーデーヴィー:何を言っているの?どうやってそんなことができるというの。

暗黒の男:私を遣わした大いなる神々には造作もない。


マハーデーヴィーは何度も頷く。


暗黒の男:では、願いを叶えよう。対価は——そうだな、たった今流された血で払うことを認めよう。どうかな?


マハーデーヴィーは頷く。


暗黒の男:それは同意ととってもよいかな?その手の意志をきちんと確認したい習い性でね。

マハーデーヴィー:はい、その通りです。


暗黒の男は腕を広げる。彼の足元で影が渦巻く。


暗黒の男:神の神なる王よ、我が主人なる父よ!永遠の息子たる使者に力をお注ぎください!ここに跪きたる女は思し召しを待ち焦がれる者、どうか恵みを垂れたまえ!アイ!


観葉植物の葉が一枚落ち始める。落下速度が徐々に遅くなり、ついには停止すると、巻き戻るように元の場所に戻り始める。マハーデーヴィーはそれをうっとりと眺めるが、ふと自分の腹に触れ、過ちに気づいて目を見開く。


マハーデーヴィー:ちょっと待って!


暗黒の男は少し驚いたような顔をし、あっさりと動きを止める。周囲のあらゆる物の動きが停止する。


暗黒の男:何を考えている?

マハーデーヴィー:お願いだから待って、この子はどうなるの?

暗黒の男:存在しない男が子を産ませることはできない。

マハーデーヴィー:やめて!願いは取り消します。

暗黒の男:望んで産む子でもあるまい。

マハーデーヴィー:私の子なんです。そいつの子でなければどんなにかと思ったこともありますが、それでも我が子です。


暗黒の男は首を傾げる。


暗黒の男:それでは、もっと優れた者の子にしよう。


暗黒の男は腕を広げる。彼の足元で再び影が渦巻き、現在時点からの映像が逆回しになるように流れる。最初に死体が消え、アルジュンがマハーデーヴィーに包丁を振り上げる場面になり、その彼もかき消えると次は結婚式で夫婦が並んで座っているシーンになり、新郎が消え、最後に幼いアルジュンが両親と手を繋いでいるのが見えるが、すぐに消滅する。マハーデーヴィーは自分が元の部屋に座っているのに気がつく。死体は消えている。彼女の服装は既婚者のサリーではなく未婚女性の着るサルワール・カミーズ(長い上衣とゆったりしたズボンにスカーフを合わせる民族衣装)に変わっており、既婚女性が髪の分け目に塗る紅もない。


マハーデーヴィー:消えている!あの悪魔が消えている!じゃあ私は誰の子を産むの?

暗黒の男:そなたの娘は神の神なる王が授けた子であり、私がこの世に顕現する姿となるであろう。


マハーデーヴィーは一瞬、事態をどう受け止めていいのかわからなくなり硬直し、それからできるだけ冷静そうな表情をつくる。


マハーデーヴィー:どの神様か存じ上げませんが、ありがとうございます。

暗黒の男:さあ、家主が気がつかないうちに出て行こう。そなたはもうこの家の嫁ではないのだから。

マハーデーヴィー:ええ。


二人は連れ立って扉から出ようとする。マハーデーヴィーは立ち止まる。


マハーデーヴィー:なぜ私を選んだのです?

暗黒の男:神の戯れに深入りするものではない。私を理解したその時には、そなたは永久に狂うであろう。だが……


暗黒の男はマハーデーヴィーを見る。


暗黒の男:生まれてくるのはそなたの娘でありながら私そのもの。いずれ我が元に戻ってくるその日まで、この地に生きることそのものが我が意思である。人の子が親を選ぶことはないが、私は選んだ……母よ。

マハーデーヴィー:お約束します、この子は大事に育てます。何があろうとも……

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