第34話 ベガ

【前回のあらすじ】

 お宝のサルベージをまえに準備を進める一同。そのかたわらで、クィントとマシューはお互いに少しだけ歩み寄った。




「準備はいいね。覚悟は出来てるかい」


「はい、船長。宝は必ず持って帰ります」


「上等」


 目標地点の上海、深度三〇〇メートル付近。ついにその時は訪れた。

 ジュピター号のコクピットに搭乗したクィントは、ホァンとの最終的な機体チェックも済ませて、すでにキャノピーを閉じていた。見通しのいい、耐圧クリア樹脂の向こうに映るのは、ここ一週間ですでに愛着すら沸いている母船の格納庫。そして、足許の覗き窓から見えるのは、終わることさえないような無限の暗闇である。


 あの時、ミレニアが得体の知れないなにかに引きずり込まれそうだと言ったが、まさにそんなイメージだった。いくら潜水経験が豊富なクィントといえど、これからゆく世界の困難さを想像すれば、自然と身も引き締まる。


 漸深層、深度二〇〇〇メートルとはそういう領域なのだ。

 すでに格納庫のハッチは開いている。

 あとはヴィクトリアからの発進命令を待つばかりだった。


「行っといでバカ息子。今度会うときゃ、伝説を肴に宴会だよ」


「了解!」


 バラストタンクへの注水がはじまり、サイロの水面に空気が押し出された。徐々に浮力を失うジュピター号は、暗い深海へと潜航を開始する。あたりは、ブルーポラリス号の船内からもれる光でまだ明るさを保っていた。そのおかげで静寂を破られた深海魚達は、居場所を追われて四方へと散っていく。クィントはその様子をコクピットのなかから、静かに見守っていた。


 クィントは海と一体となるように努めた。

 海水との比重のままに、ジュピター号は自然潜航を続ける。ゆっくり、ただ地球の中心へと引かれるままに。

 この彼方には、きっと宝が眠っているんだと――。


 ヒトガタのまま潜航を続け、メインスクリューも回さずに二時間が経過した。周囲はすっかり暗闇である。深海の生物達を刺激しないように、自機の照明装置も使用してはいない。クィントは、ほかに誰もいない暗い海の底に、わずか操作系パネルの放つ表示灯に照らされ浮かび上がるのだった。


 しかし、そんな深海といえど完璧な暗黒などではない。一部、自らの体内を発光させ、暗闇に瞬く星のような生き物達が生息しているのだ。それはチョウチンアンコウを代表とするような、体内に発光バクテリアを住まわせる魚類、またはワニトカゲギスのように自ら発光する体組織を持った生物達だ。


 なかでもクィントの目を引いたのは、大小様々な種類のいるクラゲの仲間達だった。

 彼らはまるで人工のイルメネーションのように、美しい光の明滅を繰り出すのである。それらは深海にも屈しない、強靭な生命の灯である。そんな儚くも頼もしい輝きをもって、クィントの超人的視野は、海底に屹立する峰々を見据えていた。


 深度はすでに一〇〇〇メートルを超えていた。水温も摂氏五度を下回っている。コクピットの内側はすっかり結露し、時折、天井から降る水滴にクィントは若干の煩わしさを覚えていた。しかし、徐々に全貌をあらわにする海底が近づくにつれ、もはやそんな些細なことはどうでもよくなってくる。


「これはすごい……」


 まるで巨大な獣の爪にでも、大地が引き裂かれたかのようだった。


 深度一〇〇〇メートルの海底に広がる、無数のひび割れ。それは通常トラフと呼ばれる、船底のような形状をした細長い海底盆地である。いま見えている部分はいわば山頂であり、その溝の奥底にはさらなる深海層が待っているのだ。


 またクィントが目にしているのは、そのトラフの複合体であり、極端に幅の狭い海溝が、連続して並んでいるという壮絶な光景だった。石切り場でくさびを打ち込まれた岩石のように。はたまた地球の裂け目であるかのように。


 クィントは息を呑んだ。おそらく『終末ノヒカリ』以降の人類史上で、自分が初となるだろう到達点。よりよく視野に刻みつけようと、ジュピター号の照明装置を点灯させる。キャノピーは一瞬、光を反射しハレーションを起こした。

 そして、あたりは闇に包まれた。


「あれ? なんで?」


 なにも見えない。

 不思議に思ったクィントは、ジャケットの袖でキャノピー内側に結露した水滴を拭いてみた。だが結果は同じである。


 なにかがおかしい――先ほどまで明瞭に見えていたはずの海底が、突如として消失するなんてことがあり得るだろうか。思えば、機体から伝わる潮の流れも微妙に変化している気がする。

 その時、クィントの野生の勘は告げていた、この状況ヤバ過ぎると。


「まさか、なにも見えなくなったんじゃなくて……目のまえに『なにか』がいるのか?」


 その直後である。クィントの耳を聞きなれない重低音が襲い、またジュピター号の機体そのものを強烈に振動した。


「ぐあっ!」


 強震する操縦桿に、手を触れることさえ苦痛だった。

 まるで破裂した瞬間の風船を、延々とつかんでいるような感覚。

 小さな衝撃の連続と、皮膚を擦るような痛み。

 クィントは慌ててペダルを踏み込み、数十メートル浮上する。


 距離を取り、次第に振動も消えてゆく頃、クィントは信じられないものを見てしまった。『海洋の守護者』『真の海の王』、その呼び名はいくつあれども、世に正確な姿形は伝わってはいない。ある者は地獄より這い出したる悪魔だと言い、またある者は太古の時代より生き残った海竜であるとした。


 だが、いまクィントの眼前に悠然とたゆたうその者の姿とは、全長一〇〇メートルはあろうかという、前代未聞の巨体を持った一頭のシロナガスクジラであった。

 一般的の個体と比較すれば、およそ三倍のスケール。

 これが世に謳われる『海王ベガ』の正体である。


「こ、こいつが……ベガ……?」


 口を開けばジュピター号など、一呑みされてしまいそうだ。

 目玉だけでも、かつてクィントが乗っていた有線式マリナーくらいはある。

 身じろぎひとつで潮流を変えるほどの巨体と、強烈な威圧感。戦って、万にひとつの勝ち目すら見出せそうにない。


 さっきの振動は、おそらくベガの超音波だろう。

 無目的に垂れ流した程度でアレなのだから、本気でやられた場合はどうなることか。

 クィントは、ミレニアと出会う直前に、物色していたビル礁が崩壊したのを思い出した。

 あの時は一体何キロ先から放たれたのだろうか。

 考えただけでもゾッとした。


 戦うか――いや、しかし。


 クィントはジュピター号に銛を構えさせながらも迷っていた。

 ヴィクトリアは死んだふりをしてでも生き延びろと言った。だが、生きるためになんの努力もしないことを、クィントはよしとしない。


 ここでベガという試練を乗り越えてこその、秘宝ではないかと思うのだ。その伝説に対するストイックなまでの情熱が、彼に銛を握らせる勇気を与えた。


 突き立てるんだ、暗闇に道を切り開くためにと――。


「クィント! ダメぇ!」


 突如、スピーカーから流れた聞きなれた電子音こえにクィントは虚を突かれた。

 眼前にはジュピター号に立ちはだかるようにして浮遊するベルーガの姿が。

 それはあたかも、後ろに控える巨影を守るかのようだった。


「ぷ、プルル? どうしておまえがここに……。そ、そんなことより後ろ! 早く逃げるんだ、おまえまでやられちゃうぞ!」


「だいじょうぶ。ベガは味方だ」


「なんだって?」


 クィントの当惑は続いた。

 すると、今度はスピーカーからプルルとは違う、別の電子音が聞こえはじめた。それはプルルよりも重厚な声音で、どこか威厳を備えていた。


「我、海洋を守護せし者。汝らヒトが、ベガと呼ぶは我なり。そこな幼き同胞を責むるに及ばず。すべては我の願いより参じたに過ぎぬ」


「どういうことだ?」


「ベガはね、クィントとお話がしたいのさ。大事なお話だから、耳の穴かっぽじってよく聞くンだぞ」


「はぁ?」


 エヘンと、どこか自慢げなプルルにクィントは正直、戸惑った。『海王ベガ』が一体、自分になんの用があるというのだろう。

 彼はかつてない重苦しさを感じながらも、ベガの言葉を待った。


「我がこの海域を守護せしは、すべて世の太平を保つため。水底みなそこに眠りしは財宝にあらず、ヒトにはいまだ過ぎたるものなり。其はなんぴとも触れてはならぬ。ヒトの子よ、どうか聞き分けられよ」


「聞き分けろったってさぁ……こっちもガキの使いじゃないんだけど……」


「汝、この海域には如何なる術をもって参ったのか」


「え? それはさすがに言っても分かんないと思うけど……」


「白き娘の導きであろう」


「テオのこと知ってるのっ?」


「テオ……かような名をもらったか。其は喜ばしきことよ。あの娘、ヒトのカタチを宿した海の者なり。おかに上がった憐れなイルカよ……我ら力なきゆえ、あの青き船に預けしこと幾とせ、つつがなく長じておるか」


「陸に上がったイルカだって?」


 思い当たるふしはあった。翻訳機を介さずにプルルの言葉を理解したテオ、またシェフから聞いた彼女の生い立ちは、まさに『ワダツミ』の子供と呼ぶに相応しい有様だった。


「でも……そこまで知っているのに、なぜ人間を拒むんだ? おれ達をここに連れてきたのは彼女だよ?」


「あの娘は知らぬのだ。この水底に眠るものの恐ろしさを。ただ共に生きしヒトらの喜ぶ顔見たさに、ここへと連れてきたに過ぎぬ。あの娘を責むるなよ。ヒトの欲望こそが、汝らをここに運ぶのだ」


「そんな……そうまでして守らなくちゃいけないものって一体なんだよ! この海底に一体なにが眠っているって言うんだ?」


「それは――」


「なんだっ? どうしたんだベガ!」


 ベガの音声はそこで途絶えた。あとは激しいノイズだらけで、まともに聞き取れるような状況ではなかった。

 キャノピーに目を向けると、ベガは巨体を激しくのたうって苦しんでいるように見える。

 いつの間にかプルルもあたりからいなくなっており、すでにソナーの捕捉域からも離脱しているようだった。


 一方ベガの苦しみようは、いよいよもって激しくなり、油断すると尾ヒレや胴で薙ぎ倒されそうだった。やがてそれでも限界がきたのか、ベガはついにこの場を離れ、海面へと急速浮上していった。


 その矢先のことである。

 クィントの視界に突如、戦火が閃いた。爆雷の中に映る巨大なシルエット。それは紛れもなくブルーポラリス号のものだった。

 対するは艦隊を組んだ無数の潜水艦。

 すでにマリナーも戦場に投入されているらしい。


 宝を目の前にして海域の状況が一変した。いまならベガもいない、絶好のチャンスである。しかし、クィントの身体は考えるよりも早く仲間の援護を選んだ。ジュピター号は潜航艇へと可変し、最大速度で戦場へと浮上する。




〈つづく〉

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