九話
こゆきからのわがままはなくなったのに、蒼人の心は沈んでいた。部活をする気も遊ぶ気も沸かず、結局何も変わらないままだ。
「こゆきと仲が悪くなった」
クラスメイトに愚痴ると、珍しいものを見る目つきで即答された。
「喧嘩したのか?」
「違う。俺が少し厳しく叱ったせいで、ぎくしゃくしたんだ」
「ぎくしゃく?」
「だって、こゆき、めちゃくちゃわがままなんだ。俺の気持ちなんか一つも考えてなくて、友だちの家に泊まってばっかりいてさ。ようやく帰ってきたと思ったら、また偉そうな態度……。こっちの身にもなれって話だろ」
「まあ……。こゆきちゃんも思春期で、つい反抗しちゃうんだろ。本当は兄ちゃん想いでいい子なんだって思うけど。こゆきちゃんの性格は、浅霧が一番よく知ってるだろ」
全く持ってその通りなので蒼人は黙った。さらにクラスメイトは明るい表情で言う。
「もしかしたら、これはチャンスって意味かも知れないぞ」
「チャンス? なんの?」
「だから、彼女ができるかもしれないってこと。こゆきちゃんがいなければ、浅霧は自由に過ごせるだろ? お世話しなくていいんだ。恋人探しだって好きなだけできる」
だが頷かなかった。蒼人は、そもそも恋人を作る気はさらさらないからだ。
「……俺は、恋人とかいらない。もしできても、いつかは別れるんじゃないかな」
するとクラスメイトは残念そうに顔を歪めた。
「もったいないなあ。未来がどう動くなんかわからないだろ? 絶世の美女と付き合えるかもしれないのに」
「絶世の美女なんかどこにいるんだよ。とにかく俺はそういうの興味ない。諦めてるんだ」
「悲しいこと言うなよ。大体まだ十七歳なんだぞ? これからって時に、諦めちゃだめだろ」
確かにクラスメイトの言う通りだ。返す言葉がなく、そっと目を逸らした。
「おい、二人でなに暗い顔してんだ? こっちに来いよ」
遠くにいたクラスメイトが声をかけてきた。「おお」と手を挙げ、クラスメイトは歩いて行ったが、蒼人は俯いていた。
学校が終わり家に帰ると、こゆきはいなかった。予想していたので驚かなかった。疲れた体を少しでも癒すため、リビングには行かず洗面所に行った。シャワーを浴び、全身の汚れを落とす。しばらくしてシャワーを止め、はあ……とため息を吐いた。
「どうして、こんなことに……」
無意識に呟いた。どうしてこんなことになったのだろう。昔は家族五人でいて、賑やかで楽しくて悩みなど一つもなかった。けれど今はたった一人で暮らしている。こんな未来が待っているとは夢にも思っていなかった。クラスメイトの言葉が蘇る。未来がどう動くかなんてわからない。本当に、人生とは何が起きるか想像がつかない。こゆきはどこにいるのか。いつ家に帰ってくるのか。悶々としても答えは見つからなかった。
翌日も、その翌日も、こゆきは姿を現さなかった。電話もかかってこない。こちらが試しにかけてみても、電源を切っていて繋がらない。ただいらいらが募るだけなので、蒼人もやめることに決めた。いつか蒼人の助けが必要になったら戻ってくる。そんな気持ちで構えていようと自分に言い聞かせた。こゆきの話を除けば、特に問題のない毎日だった。勉強も追いついているし、先生から叱られたり友人と喧嘩もしない。はっきりいって、心穏やかな状態だった。そんなある日の放課後、クラスメイトに名前を呼ばれた。
「浅霧、今日またカラオケパーティーがあるんだけど。参加するだろ?」
「カラオケパーティー? いや、どうしようかな……」
「こゆきちゃんから電話かけられなくなったんだろ? もう面倒見なくてもよくなったんだろ? ならいいじゃん」
「まあ……。時間はあるけど……。カラオケで盛り上がってるみんなに嫌な想いさせたらまずいし……」
「誰も嫌なんて思わねえよ。むしろ浅霧がいれば、もっと楽しくなるよ。一体どうしたんだ?」
嬉しかったが首を横に振った。そういう楽しい気分になれず、周りに迷惑をかける恐れがあった。
「別に。俺の分まで楽しんできてくれればいいよ」
「そうか。用事があるなら仕方ないな」
用事なんかない、と言おうとしたが言葉にならなかった。曖昧に頷くと、クラスメイトは歩いて行ってしまった。
蒼人だけ違う世界に立って、クラスメイトから浮いた存在になっているのは痛いほどわかった。どんどん深い闇にはまってため息しか吐けない。蒼人が行く場所は小さな公園だけだ。誰にも使われず見捨てられた公園は、蒼人に安らぎと落ち着きを与えてくれる。
カラオケパーティーの代わりに公園に行った。汚れたベンチに座り、夕焼けに染まっていく空を眺めた。ここでこうしているだけで、不満と胸のわだかまりがすっと消えていく。他人には言えないことも、この公園では呟ける。
「こゆきの馬鹿野郎。一体いつになったら帰ってくるんだよ。わがまま女」
愚痴り、がっくりと項垂れた。みゆきに電話をかけたいが、心配させたくないので我慢した。蒼人が一人で解決するしかないのだと考えていた。
公園に行くと、ベンチに座った。誰もいない、誰も知らない、磨弥だけの場所。華弥の存在を忘れていられる心のよりどころ。汚れて変色した遊具も、ぼうぼうに生えた雑草も、磨弥にとってはかけがえのないものだった。普通の女子高生なら、もっと綺麗で明るくてたくさん人がいる場所がいいだろう。しかし磨弥は、こういう地味で目立たない方が好きだ。自分がそういう人間だからだ。先ほどの出来事が蘇った。またカラオケパーティーに誘われ、苦笑しながら断ったのだ。
「もったいないなあ。悠崎さん、美人なのに。もしかしたら彼氏できるかもしれないよ?」
「私は、彼氏とかいらないの。もしできても、ずっと長く続きそうにないし」
「女にとって恋愛って大事なイベントだよ? 積極的にならなきゃ」
「わかってる。でも勇気がないの。ほら、この黒い眼鏡も全然可愛くないでしょ? もし好きな人ができて頑張って告白しても、可愛くないからってフラれたらショックじゃない」
「まあ……。フラれるのは嫌だよね。けど十七歳なのに恋人探さないなんて……。空しくない?」
「いいの。みんなが幸せになってくれれば。カラオケパーティー、楽しんできて」
さっと答え、走って逃げてしまった。わざわざ誘ってくれたのに申し訳なくなる。可愛いと褒めてくれてありがたいが、磨弥は自分を可愛いと認めていない。口数も少ない。友人もいない。笑顔も下手。ダサいし暗いし長所がない。何か一つ良さがあればと思うが、考えても無駄なだけだ。
恋人はいらないと言いつつも、いつかは素敵な人と出会い、結ばれ、子供も産みたいと願っている。ただ今は女子校に通っているし、努力しても意味がないと諦めているのだ。余計なことをして気疲れしたくない。それに華弥が許さないだろう。まだ子供なのに彼氏なんか作っちゃだめだ。子供なんだから恋人なんかいらない。華弥の反対の声がありありと浮かぶ。一体いつになれば大人と言ってもらえるのか。高校を卒業してもこのままだったらどうしよう。早く華弥という鳥かごから飛び出したい。
「高校生は大人と一緒って、何度言えばいいのよ」
独り言を漏らし、はあ……と俯いた。
母親が過保護で苦しんでいる子はどれくらいいるのだろう。そしてぎくしゃくしている子は、どう母親と上手く付き合っているか。いつまで経っても大人扱いされず、息苦しい子のストレス解消法は……? 悩みが後から後から生まれ、磨弥の心を重くする。
夕焼けが夜の色に変わっていった。華弥からの電話はかかってきていないが、うるさく注意されないうちにと立ち上がってマンションに帰った。
ドアを引くと、玄関から夕食の匂いが漂ってきた。キッチンに向かい「ただいま」と言うと、すぐに「おかえり」と返事が飛んできた。
「遅かったね。友だちと遊んでたの?」
「まあね。ちょっと買い物。私は買わなかったけど」
「そう。お小遣いほしくなったら言いなさいね」
「うん。私はおしゃれに興味ないから、買うのは本ばっかりだからね。そんなにお金は使わないよ」
「磨弥がそういう性格で、ママもよかったよ。馬鹿みたいに服やお化粧を買う子じゃなくて」
これも華弥にそっくりだと雅人に驚かれた。華弥は単に母に買ってもらえなかったという理由だったが、磨弥は本当に綺麗なものも高価なものも興味がない。
「まだ夜ご飯できないから、先にお風呂入っててくれる?」
「わかった。お湯は?」
「沸いてるよ。着替えはママが持っていく」
「ありがとう」
短く答え、洗面所に行った。
シャワーを浴びて、全身の疲れと汚れを流した。髪や体を洗い湯船に浸かる。暖かなお湯が、磨弥を癒してくれた。あがると綺麗なパジャマに着替えた。部屋に向かおうと思っていたが、「夕飯できたよ」と華弥に呼び止められてダイニングに入った。
おいしい出来たての料理を、華弥と向かい合わせに座って食べた。
「最近の学校はどうなの?」
「どうって?」
「友だちと喧嘩したり、不安なこととかないの?」
「ないよ。心配しないで」
「勉強は? ちゃんとできてる?」
「もちろん。真面目に受けてるよ」
「そっか。安心した。もし困ったなら、ママに相談してね。磨弥のためならどんなこともする」
また幼稚園児扱いだと不快になった。むしろ「もうママがいなくても立派に生きなさい」と話すべきなのに。
「平気だって。高校生は大人と一緒だからね」
しっかりと言い切ったが、華弥は聞こえないフリをしているのか、目を逸らして黙った。
食事が終わると、部屋に移動しベッドに寝っ転がった。目を閉じ、大学生になったらどんな日々が訪れるのか予想してみた。大学は、できれば共学がいい。もっとおしゃれな可愛い女の子に生まれ変わって、素敵な男性と恋に落ちたい。恋人にならなくても、友人でも構わない。とにかく男子と仲良くなりたい。だが、大学生になっても華弥がまとわりついていたら、その夢は叶わないだろう。母親にとって、子供は何歳になっても子供だ。親と子はいつかは離れなきゃいけないのに、それがわかっていない。注意しても聞く耳持たずで、馬鹿にしているみたいだ。死ぬまで一緒にいられると思っているのか。馬鹿なのはそっちなのに、信じようとしない。子供が可愛いのは確実に伝わる。きっと磨弥も自分に子供が産まれたら、一生この子と暮らしたいと考えるだろう。だが子供も一人の人間なのだ。いつまでも親のものと勘違いしてはいけない。親のおもちゃではないのだから。
「磨弥。ちょっといいかな」
ドア越しに声をかけられ、はっと起き上がった。ドアを開けて首を傾げる。
「なに?」
すると、なぜか華弥は表情を硬くし目を逸らしていた。
「どうしたの?」
「……あのね」
そこで一旦口を閉じ俯いた。わけがわからず戸惑った。
「ママ? 具合悪いの?」
覗き込むようにもう一度聞くと、華弥はそのまま呟いた。
「磨弥、もう十七歳でしょ? もしかして、男の子と付き合いたいって考えてる?」
「えっ」
どきりとして冷や汗が流れた。ぎこちなく笑顔を作る。
「そんなの考えてないよ。大体、女子校に通ってるんだし」
「そう……だよね。うん、それならいいの。ママ、磨弥と離れ離れになりたくないのよ。だから、できれば大学も女子校に通ってほしい……」
つい先ほどの「大学生になったらやりたいこと」が、一瞬で消え失せた。「うん」とも「いや」とも言わず、ドアを閉めてしまった。
一寸先はキミ さくらとろん @sakuratoron
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