二話
磨弥が華弥に会いたくないと感じるようになったのは、小学一年生の初めての授業参観だった。華弥や他の親たちにかっこいい姿を見せようと積極的に手を挙げ、難しい問題も頑張って解答した。担任も磨弥を優先して呼んでくれて、とにかく目立つように努力した。授業が終わり、くるりと後ろを向くと華弥は他の母親に囲まれて褒められていた。
「悠崎さん、どんな育て方をしてきたの?」
「あんなにできている子供、羨ましい」
「うちも磨弥ちゃんみたいないい子になってほしいわ」
「悠崎さんは、素晴らしい母親なのね」
やった、と磨弥は心の中でバンザイをしていたが、華弥は喜ぶどころか顔が白くなっていった。体を震わせ、走って教室から飛び出してしまった。
「ママ!」
立ち上がり、磨弥も教室から出た。華弥は廊下の突き当たりにしゃがみ込んでいた。気分が悪いのか、手で口を覆っている。その背中を撫でながら、そっと覗いて聞いてみた。
「ママ、どうしたの? いきなり……。具合がよくないの?」
ほんの少し顔を上げて、華弥は小声で呟いた。
「ごめんね。びっくりさせて……」
「あたしのことは気にしないで。びっくりはしたけど……」
「ありがとね。……ごめん。もうお家に帰るね」
「えっ? 帰っちゃうの?」
目を丸くし勢いよく立ち上がった。
「うん。ママ、耐えられないの」
「耐えられないって? どういうこと?」
けれど華弥は黙ったまま、よろよろと昇降口へ歩いて行った。追いかける気もなく、磨弥はそのまま教室に戻った。全員が心配そうな表情で磨弥を見つめていた。今までこのようなことは起きなかったから動揺しているのだと、幼い心で感じた。
「……ママ、帰りました。もう平気です」
ぼそっと言うと、ほっと空気が和やかになった。
放課後に友人と遊ぶ約束をしていたが、断って家に帰った。ドアを開けると、リビングのソファーに華弥はぐったりと眠っていた。
「ただいま。起きて、ママ」
体を揺すると華弥は目を開けて、はっと起き上がった。
「あっ、磨弥。おかえり」
「いったいどうしちゃったの? どうしてあんなことしたの?」
責める口調で聞くと、華弥は俯いて返事を探していた。しかし結局何も言えず、ぎゅっと磨弥を抱き締めた。その後は、お互いに会話せず目も合わせずにいた。磨弥の方も、かける言葉が探せなかった。
ようやく父、
「パパ。おかえりなさい」
「ただいま。今日は授業参観の日だってママが話してたけど、どうだった?」
そばに華弥がいないのを確認してから、抑揚のない口調で答えた。
「最初はよかったんだけど、急に逃げちゃって……」
「逃げた?」
「他のママに、どんな育て方をしたのとか素晴らしい母親とか聞かされて、いきなり……。みんなびっくりしてた」
「素晴らしい母親ね……」
雅人は磨弥の頭を撫で、ダイニングまで移動した。華弥は風呂に入っているようで姿がなかった。向かい合わせに椅子に座り、雅人は囁くように話し始めた。
「ごめんね。ママはそういうことに慣れてないんだ。正しい母親になれないって悩んでるんだよ」
「正しい母親? 何それ?」
「きちんと子供を愛せる母がどういうものか知らないんだよ。ずっと何年間も悩んでるんだ」
「ママは正しいよ。ほしいっていったらおもちゃ買ってくれるし、おいしいご飯も作ってくれるし遊園地にも連れて行ってくれるよ」
しかし雅人は首を横に振った。さらに声を小さくした。
「違うよ。むしろ正しい母は厳しいんだ。何でもかんでもお願いを聞いてたら、親に頼めば何でも手に入るんだって子供は勘違いしちゃうだろう? 少しは我慢しなさいって叱るのが正しいんだ。磨弥はろくでもない大人になりたいか?」
「それは……嫌だけど、でもママは正しい母だよ。何も悩むことなんかないのに……」
小学一年生の磨弥には難しく、いつまで経っても「パパは間違ってる」と信じてこなかった。優しくて穏やかな華弥が正しくないなどあるわけがない。
その考えが変わったのは、意外と早くにやって来た。ある朝、学校に行くと、クラスメイトたちに冷たい目つきで見られた。ひそひそと話している子もいる。華弥の奇行に、誰もが気持ち悪いと感じるようになっていた。
「逃げるなんてわけわかんない」
「ものすごい妄想好きなんじゃないの」
「変なママ。気持ち悪いわ」
子供の素直さは恐ろしく、磨弥へのいじめはエスカレートしていった。相手は軽い気持ちで言ったつもりでも、磨弥の胸には鋭い槍となって突き刺さった。いじめられていることについて、磨弥は決してバラさないように隠していた。いつかこの日々は終わるはず。けれど現実は厳しい。耐えきれなくなって、ある夜全て華弥に叫んでしまった。
「ママが変な人って、あたしいつもいつもみんなから馬鹿にされてるんだよ。いじめられてるんだよ。ママのせいで、仲良しの子が遊んでくれなくなったんだよ」
まるで怒鳴り散らすかのようにぶつけた。華弥は床に崩れ落ち、泣いているのか両手で顔を覆っている。
「ママ」
磨弥もとなりにしゃがみ、肩に触れてぎくりとした。肌が凍り付いて氷みたいに固く、慌てて手を引っ込めた。
「ごめん。あたし、ママが嫌いになったわけじゃないよ。だから」
「ママは最低だね。弱虫で、どうしようもないママだね……。正しい母親になれなくて、酷いよね……」
きちんと子供を愛せる母がどういうものか知らないんだよ、という雅人の言葉が蘇った。しかし磨弥には意味がわからない。
「どうして正しい母親になれないの?」
ふと、自分が祖母に会ったことが一度もないという事実に気が付いた。祖父は何回か遊びに来たが祖母はない。
「あたしのおばあちゃんって、どこにいるの?」
はっと顔を上げ、華弥は勢いよく首を横に振った。
「磨弥は、おばあちゃんに会っちゃいけないの。会ったらだめなの」
さらに疑問は募る。なぜ会ってはいけないのか。
「海外に住んでるから?」
「違うよ。だけど、絶対に磨弥に会わせるわけにはいかない。あの女は悪魔みたいに歪んでて、産んだ子供を地獄に突き落とす死神だから。もしここに来たら、ママは人殺しになっちゃう。……磨弥に酷い目を遭わせたら絶対に許せられないから。……殺しちゃう……から……」
あまりにも衝撃が強すぎて全身から冷や汗が流れた。親を悪魔だ死神だと呼ぶ人はいないからだ。それと同時に、華弥が正しい母を知らない理由がわかった。子供は親を見て育つものだ。けれど華弥はそのお手本が悪魔なため、必死に独学で勉強しているのだ。きっと磨弥を傷つけないように、自分は悪魔や死神にならないようにすることで精いっぱいだろう。参観日に逃げた原因も何となく理解した。
「ごめんね、ママ。もう泣かないで」
囁くと、華弥は微かに頷いた。とりあえずその夜は丸く収まったが、翌日からぎくしゃくとした関係が始まってしまった。
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