三話

ゆっくりとドアを開くと、夕食のおいしい匂いが漂ってきた。靴を脱ぎリビングに移動し「ただいま」と声をかけた。しかし返事はない。聞こえなかったのかと強い口調で繰り返した。


「ただいま」


 するとようやく耳に入ったのか、華弥の声が飛んできた。


「あっ、おかえり。早かったね」


「うん。カラオケパーティーに誘われたけど、断ったの。満木の男の子も参加してるんだって」


「満木って、イケメンで有名な男子校だよね? 行けばよかったじゃない。もったいないなあ」


「もったいなくないよ。今は勉強が一番だし、遊んでる暇なんかないの」


 さっと素早く答えて部屋に逃げた。これ以上質問されたくない。余計なおしゃべりはしたくない。特に話題もなかった。


 椅子に座って、大きな眼鏡を机に置いた。幼い頃からかけている黒縁の眼鏡。これ一つで女の子らしさがかなり欠けている気がする。コンタクトにしてもいいが、目に直接貼り付ける勇気がなく、ずっと眼鏡のままだ。もともと磨弥は瞳が大きくまつげも長いが、眼鏡でほとんど隠れてしまう。けれどこれがないと周りがぼやけて何もできない。


「遠視が治れば、ちょっとは印象よくなるんだろうな……」


 叶わない願いだ。たぶん、磨弥と同じように眼鏡が手離せず悔やんでいる子はいるはずだ。最近は「メガネっ娘」など可愛らしいニックネームもあるが、実際に彼女にするなら眼鏡なしの方がいいと磨弥は考えている。


「私が可愛いなんて、嘘に決まってる」


 クラスメイトに褒められたが、どうしても頷けなかった。自分を可愛いと感じている子は少ない。みんな何かしら容姿に悩みがあり、褒められてもただ喜ばせるだけのお世辞としか聞こえない。そしてこちらもありがとうと返すが、本当は嬉しさは一つもない。


「お風呂沸いたよ」


 華弥の声がして、外していた眼鏡をかけ直した。洗面所の鏡で、はっきりと全身を見つめた。とても可愛いとは言えないと俯きため息を吐いた。


 シャワーを浴びながら、無意識に独り言を漏らした。


「もっと可愛くなりたい……」


 もっと可愛くなって恋をしたい。誰かを愛して愛されたい。大好きな人と手を繋いでデートをしてみたい。しかし黒い眼鏡が邪魔をして、おまけにいじめの経験がある磨弥に魅力などない。友人も少ないし全然笑わない。頭がいいと言っても別に普通だ。ちょっとくらい頭が悪くても、にこにこと愛想がよく明るい女の子の方が人気だ。恋人など夢のまた夢。熱い湯船に浸かり、全て忘れることにした。


 風呂からあがると、華弥が料理をテーブルに並べていた。


「磨弥の好きなシチューにしたよ」


「ありがとう。嬉しい」


「和食ばっかりだったもんね。たまには洋食も食べないと」


「ママのシチューって本当においしいから、毎日でも食べたいよ」


 笑ったがぎこちなくなった。さっと華弥も目を逸らし、気付かないフリをした。華弥も磨弥とぎくしゃくしていると感じている。優しい態度の中に、ほんの少し固い心が含まれているのだ。家の中にいる方が緊張し疲れるなど悲しくなってくる。椅子に座って手を合わせてからシチューを食べ始めた。


「学校、どう?」


 突然の質問にどきりとしてしまった。首を傾げて聞き返した。


「どうって?」


「友だちと喧嘩したりして悩んでない?」


 昔いじめられた経験があるからか、やけに気にしているようだ。


「平気だよ。喧嘩なんかしてないよ」


「悩みがあるならママに言ってよ。隠したりしちゃだめだよ」


「大丈夫だってば」


 しっかりと言い切ると、華弥は頷いて黙った。できるだけ華弥と会話したくなかった。傷つけたくないし余計な言葉で泣かれたら大変だ。ただシチューだけ食べて口を開かなかった。


 そのまま夕食が終わると考えていたが、その夜は違った。華弥が申し訳なさそうな声で話し始めた。


「あのね、パパ、しばらく帰ってこれなくなったよ」


「えっ?」


 驚いて手が止まった。華弥はさらに続ける。


「北海道に単身赴任だって。だからしばらくはママと二人暮らしになるよ」


「北海道……。単身赴任……」


 足の先から凍り付いていった。いつも、この華弥との気まずい空気を雅人がほぐしてくれた。父がいるから何とか倒れずにいられたのだ。その支えが遠くに行ってしまうとは。


「そんな……。寂しいよ……」


「寂しくてもしょうがないよ。むしろ頑張ってってパパを応援しなくちゃ。二度と会えないわけじゃないんだし」


 そうはいっても磨弥にとって雅人がそばにいないのはかなり辛いことだ。決して口外はできないが、華弥と二人暮らしするのは避けたかった。もっとぎくしゃくが強くなり、家にいるのが苦しくなる。


「そう……だよね……。二度と会えないわけじゃないんだよね……。いつかは帰って来るんだもんね……」


 呟くと華弥は俯いた。これから始まる息の詰まる生活で暗くなっていると、はっきりと伝わった。暖かくおいしかったシチューはとろけただけのお湯みたいで味が消えていた。お互いに黙ったまま夕食を終わらせ、ゆっくりと部屋に向かった。


 ベッドに寝っ転がり、天井を眺めて崩れそうな心を固くした。不自然な顔をしないように、緊張しているのがバレないように、本当は母とは別の場所で暮らしたいという願いに感づかれないように気を付けなくてはいけない。


「……馬鹿じゃないの、私。血の繋がったママを怖がるなんて。ママは悪魔でも死神でもないんだもん……」


 自分に言い聞かせて首を横に振った。この不安定な気持ちを少しでも静めるため、さっさと眠りについた。








 夜遅くに目が覚めた。熟睡していたはずなのに、なぜか不思議な声が耳の奥から響いていた。ゆっくりと音を立てないように起き上がり、静かに部屋から出て声が聞こえる方へ一歩一歩進んでみた。声は、華弥の部屋から聞こえてきた。


「どこにも行かないで……。悠……」


 消えそうな囁きが微かに聞こえた。


「悠……。どこにも行かないで……。必ず戻ってきて……。悠がいなくなったら、私……独りぼっちになっちゃう……」


 涙が混じっている。あまりにも弱々しく、いたたまれなくなってベッドに戻った。頭から布団を被り、どきどきと疑問でいっぱいになっていた。


「ユウって誰……?」


 嫌な予感が胸に溢れて止まらない。謎のユウという人物の正体が気になった。


「まさか……」


 華弥には愛する人物がもう一人いるのか……。そんなわけがない。あんなに仲がいい夫婦なのに。


「ママが浮気なんか……するはずないもん」


 悶々として眠れなくなったら大変と、ぎゅっともう一度目を閉じた。


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