80.きっと、これが幸せ

 次の休みの日、僕は紗由奈と買い物に出た。紗由奈のイギリス旅行に必要なものを買い揃えるためだ。


 洋服や小物類を買ったわけだけど、普段の彼女のファッションから考えたらちょっと地味だと感じた。

 僕がそう感想を言うと、紗由奈は「あんまり派手にしてるとお金持ってるって狙われちゃうかもしれないし」と返してきた。


 なるほどと納得する一方で、まさか悪い奴らが集まるような場所に行くつもりじゃないだろうかとひそかに心配になる。


「さすがに治安が悪いって言われてるところには近づかないつもりだけどね。できる対策はしておかないと」


 その付け足しに、ほっとした。


 買い物を終えて早めの夕食となって、腰を落ち着けた時、あの話を紗由奈に切り出すことにした。


「僕さ、トラストスタッフの就職試験受けようと思ってるんだ」


 紗由奈は一瞬、目を大きく見開いた。ひゅっと鳴った口からは言葉は出なかった。出ないほどに驚いたんだろう。


「そっか。ともくん最近何か考え込んでるふうだったけど、今日は明るかったから何があったんだろうって思ってたんだ」

「そんなに?」

「うん。最初は、わたしがイギリスに行くって話をした直後だったから、もしかして許せない、別れるとか言われるんじゃないかって怖かった」

「そんなこと言うわけないだろう?」


 思いっきり首を振ったら紗由奈が笑った。


「わたしが怪我した時に、大切な人がって言ってくれてその不安はなくなったよ」


 今思い出すに、かなり恥ずかしい。


「でも、じゃあ、ともくんは何を悩んでるんだろうって、判らなかったよ。聞こうかなって思ったけど、ともくんが話さないのをこっちから聞くのもなぁって思って。あと、ヤブヘビになるのが怖かった」


 ごめんね、って紗由奈は謝った。


 話の流れからもしもこじれて喧嘩するとか別れるとかになったらって思うと聞けなかった、って。


「ともくんが悩んでるのに、わたし自分のことばっかり考えてた」

「いいよ、僕が自分で決めなきゃいけないことだったし、そう考えてたってことは僕と別れたくないってことだよね? だったらすごく嬉しい」


 紗由奈の顔がぼっと赤くなった。

 くっそ、めっちゃかわいい。


「それで、どこの部署? まさかわたしと同じ、じゃないよね?」

「うん、それは無理。僕には向いてない。人事部IT課を目指すことにした」

「うわぁ、エリートが集まる部署だね。すごい!」


 ……えっ?


 えぇっ? そうなんだ??


 僕、もしかしてすごくハードル上げちゃった感じ?




 あれから一年とちょっと。


「おーい、しんちゃん。これも入力しておいてくれ」

「あ、しんちゃん、こっちもな」


 パソコンのキーボードをたたく音と人の声が絶えない部署で、僕は次々に詰まれる書類に呆然とする。


 トラストスタッフ人事部IT課。思っていたよりも激務だった。


 そしてなぜか先輩たちから「しんちゃん」呼びが最初から定着してしまっている。

 まさか紗由奈が誰かに言ったのかなって考えたこともあったけど、彼女がそんなことをわざわざする必要なんて何もないしなぁ。


 新人の僕はまだ、山のような報告書を決められた書式にまとめてディレクトリに保存する仕事しか任されていない。

 先輩のみなさんはあちこち飛び回って情報を集めて「情報課」の人達に伝える仕事までどんどんこなしている。僕が引き受けてるのは先輩の仕事の一部だというのに、一日がほぼそれだけで終わってしまう。


 エリートが集まる部署って言ってた紗由奈の言葉は間違ってなかったわけだ。


 ……紗由奈とは、入社してひと月近く、ほぼ会えてない。

 紗由奈は諜報員として訓練していて、僕はこのとおりの激務(といっても僕が手早くできないだけなんだけど)にやられて、二人とも休日はほぼ寝て過ごしてるからデートもできない。


 このまま自然消滅なんてことは……。


 そんなこともチラチラっと頭をかすめだす今日この頃。


 紗由奈を守るなんて格好いいことを黒崎さんに宣言して、就職試験はあったとはいえ縁故と変わらないような感じで入れさせてもらったのに。

 彼女を守るどころか自分の仕事すら満足にできないなんて。


 ひそかに落ち込んでいる、短い昼休み。


「おや、しんちゃん、お疲れか?」


 机に突っ伏してると声をかけられた。


「いえ、ちょっと眠いだけで――」


 顔を上げたら黒崎さんがいた。


「くろs、いえっ、社長っ。な、なにか私に不手際でもありましたかっ?」


 めっちゃ勢いよく立ち上がった。眠気も飛ぶというものだ。


「そうかしこまるな。休み時間だ。各部署の新人がそろそろヘバってくるころだろうから様子を見て回ってる」


 周りの先輩達は笑いながら僕達を見ている。こんな光景は見慣れてるって感じだから毎年恒例なのかもしれない。


「しかし疲れがたまって眠いのは業務に支障が出るなぁ。困ったことだ」

「あ、あの、いえ、大したことでは……」

「さらに困ったことに、俺の直轄の情報部の新人も、休息が必要みたいなんだよな」


 ……えっ? それって紗由奈のこと?


「そこでだ。明日の金曜日は君ら休め。これは社長命令だ。三連休で英気を養ってまた月曜日からがんばってもらおう」


 そう言い残して黒崎さんはさっさと部屋を出て行った。


「よかったなぁ、しんちゃん」

「情報部の新人って、あのセミロングのクールビューティだよな。おまえら付き合ってんのかよ」

「カノジョとラブラブかよ。うらやましすぎだろおまえ」

「こりゃ月曜日しんちゃんの机の上は大変だぞぉ」


 先輩達にからかわれ小突かれながら、自分の頬が緩んでるのを自覚した。




 次の日。紗由奈が僕の部屋に遊びに来た。

 二人でのんびりと過ごすの、すごく久しぶりだ。

 紗由奈が隣にいて、穏やかな居心地を覚える。

 なんて幸せなんだ。

 きっとこれが、僕がずっと思い描いていた幸せなんだろうなって思える。


「そういえばともくん、課の人達にしんちゃんって呼ばれてるけど、まさか自分からそう呼んでって言ったとか?」

「そんなわけないよ。僕も不思議だけど入社して次の日にはもう、あの呼び方が定着してたって感じ」

「偶然か、もしかしたら社長の茶目っ気?」

「なんでそこで社長?」


 咄嗟にカップルを装って紗由奈が僕をしんちゃんと呼んだことは、事件の顛末を報告する時に報告書の書いたのだとか。


「だったら、社長じゃなくても偶然その報告書を見て知ってた先輩の誰かってのも考えられるな」

「そうか、そうだねー」

「しっかし、そんな報告が書類として残ってるなんてなんかハズいなぁ」

「あの時はまさかともくんまでトラストスタッフに就職するなんて思わなかったもんね」

「就職どころか紗由奈と付き合うなんてことも思いもしなかったよ」


 完全に僕の片思いだったし、思いを伝える勇気もなかったんだし。


 いろいろあったねぇ、と今までを振り返って笑った。


 これからもいろいろあるんだろうけど、二人一緒なら。


 紗由奈と見つめあって、笑顔の紗由奈がそっと目を閉じた。

 こっ、これはっ。

 紗由奈の肩に手を置いて、顔を近づけて……。


 もう少しでってところで、スマホの着信音!

 なんだよこのお約束展開はっ!


「はい、赤城です。え? あ、はい。すぐ行きます」


 うわ、嫌な予感。


「極めし者がらみの事件だって。ちょっと行ってくる」


 紗由奈がきりっとした顔で立ち上がった。


 僕のカノジョはエージェント。

 こんなことは日常茶飯事……、にはなってほしくないけど。


「うん、気を付けて。晩御飯に間に合いそうなら何かいいもの用意しとくよ」


 とりあえず今、僕ができるのはこれぐらいか。


「よぉっし、お仕事頑張って、ともくんと美味しいごはんだー」


 紗由奈は張り切って出かけてった。


 公私ともに彼女のパートナーになれるように、僕も頑張っていこう。



(僕のカノジョはエージェント 了)

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