30.魔法の呪文

 紗由奈が来るまで一時間近く、僕はずっと掃除してた。


 ベルが鳴ってドアを開けたら、紗由奈からすごくおいしそうな香りがした。

 そういえば昼飯まだだった。


 食欲を刺激されて騒ぎだす腹を抑える僕の後ろからついてきた紗由奈は部屋を見て――。


「おじゃましまーす。わぁ、すごい片付いてるー」


 彼女いわく、男の人の一人暮らしって雑然とした部屋だって想像してたらしい。


「間違ってないと思うよ。一時間前まで散らかってたし」

「見られちゃマズいものを隠してたんだね」

「まだ言うか……」

「あはは。美味しいパン買ってきたから許してよー。一生懸命片付けてくれて、ご飯まだなんじゃない? わたしもまだだし、一緒に食べよう」


 やっぱ敵わないな。


「ありがとう。紗由奈、何飲む?」

「そりゃ断然紅茶一択よ。紳士の国のたしなみよ」


 イギリスのことか。そういえばイギリス行きたいんだっけ?


「なんでそんなイギリス好きなんだ?」

「そりゃ、イギリスと言えばMI5とMI6でしょ」

 MI6ってスパイ映画でよく出てくる組織だな。でもMI5って?


 尋ねると、よくぞ聞いてくれたとばかりに紗由奈は嬉々として話し出した。


 イギリスのいわゆる情報機関で、MI5は国内で活動して、MI6は海外で活動する組織らしい。

 他にもどんな活動をしているのか細かく話してくれたけど覚えきれない。


「できることなら直接職員さんに話聞いてみたいんだよねー」


 うっとりとした紗由奈は遠くの国のスパイに思いをはせている。


「っと、ごめん、つい夢中になって話し込んじゃった。本題に入ろうか」


 買ってきてくれたパンと並べて紅茶を置くと、紗由奈は我に返った。


「山下さん、本気でともくんと結婚したい、っていうかできるって思ってたみたい。朝目が覚めてともくんがいなくて、置かれてた連絡先がわたしのだったって知ってすごく取り乱してた」


 紗由奈は何とか山下さんをなだめて、冷静に話し合った、と言う。


「それにしてもなんでそこまで、小さい頃の言葉にこだわってたんだろう」


 ぽつりと漏らすと紗由奈は微苦笑を浮かべた。


「それだけともくんが好きだったんでしょ。育ってくと相手の嫌なところとか見えたり、実はそこまで好きじゃないんじゃないかって考え直したり、他に好きな人ができたりするんだろうけど、山下さんにとっては解けることのない魔法の言葉だったんじゃないかな」


 もしそうだとしたら、もうそれって呪いの域だ。

 そんなものに縛り付けてしまって申し訳なくなる。


「ともくんがそんな顔して責任感じることないと思うよ。そんなの、園児になんか判るわけないし、付き合ってもなかったなら反故になってて普通なんだし」


 そういってもらえたら、ちょっとは気が楽になるけど。


「それで、そんな魔法にかかってた山下さん、どうやって納得させたんだ?」

「それはもう、誠心誠意、あきらめるように説得したよ」


 にっこり笑う紗由奈だけど、どこか不自然な気がする。


「ほんとに? なんか裏技使ってない?」


 かまをかけたら、今度はぎくっと肩が揺れて笑顔の口元がぴくりと震えた。


「ともくんも、結構鋭いよね」


 紗由奈は控えめな笑顔になって、山下さんとの会話を告白しだした。

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