終章-2 政宗の歌
「今更我々に止める権限などありません、それがしも伊勢へ帰ります」
「ちょっとそんな! 泉州殿(藤堂高虎)、細川と鍋島を止めて下さい!!」
この時、大坂城南側の軍勢にも家康死すの報が伝わっていた。
必死にすでに退き支度を整えている高虎に哀願する黒田長政を、高虎は顧みようとはしなかった。
「私は徳川に大恩を受けた手前今さら無理でしょうが、貴方は親友を頼れば何とかなるはずです、ではいずれまた」
高虎はその言葉を最後に、長政を置き去りにして馬で駆け出した。
「どやつもこやつも……!!」
長政とて家康が殺された手前、徳川軍の敗北である事はわかっている。だが、それでも余りにも薄情な高虎たちの振る舞いに怒りを覚えずにいられなかった。
まず、家康の死の報を聞くや、鍋島勝茂が突如白旗を掲げ南門に向かって走り出した。これは豊臣軍への降伏以外の何物でもない。
当然ながら長政は慌てふためき、助けを求めるように細川忠興の陣へ駆け込んだが、そこにいた忠興は信じられない姿をしていた。
「何ですか、その白帷子は!」
白帷子をまとうのは降伏の意志の証明である。
「今からわしは投降する、それだけの話だ」
「鍋島だけでなく……!」
鍋島家は龍造寺家を従える大名と言うよりは龍造寺家の執政と言うべき立場であり、黒田や細川などという他の大名家とはいささか構造を異にしていた。よく鍋島家が龍造寺家に対して下剋上を起こし龍造寺家を奪ったように言われるが、実際には龍造寺家の家督を継ぐ事ができる人間はまだ山と残っており、そのほとんどが鍋島家が事実上の当主の座に着く事を容認していると言う状態があるからこそ家内に平穏があるのである。勝茂にとって何より大事なのは龍造寺家の安泰であり、徳川も豊臣も二の次だったのである。
そして細川家の場合、忠興の次男の興秋が大坂城に入っていた。ある程度の勢力を保った時点の投降であれば優遇されるのが慣例であるから、今の時点での投降ならば小倉四十万石の維持は無理としても半分ぐらいは大丈夫だろうという計算が忠興にはあった。もちろん、自分自身の切腹ぐらいは覚悟の上である。
「貴殿も友を頼った方がいい、あれは友に酷い事ができる男ではないからな」
忠興は自分が興秋を頼ろうとしているように、長政にも親友である福島正則を頼って大坂城に降伏する事を勧めた。
「ふざけるな……!」
「あれが貴殿を見放すような薄情な男には思えんが」
長政は忠興の言葉を突っぱねた。さすがに忠興は歴戦の勇士らしく冷静であり正則の性格を読み切った上で長政に降伏を勧めたが、怒りで沸騰してしまった長政の頭には届いていなかった。
そして豊臣軍に投降せんとする鍋島と細川を止めるべく長政は高虎に縋り付いたのだが、高虎の返事は余りにも冷たかった。
高虎は南門軍の大将であり、関ヶ原の時から徳川寄りの姿勢を取り続けて来た手前今更豊臣軍への降伏はできなかったが、かと言ってこんな所で散る訳にも行かない。それゆえ本国への撤退と言う決断を下したのだ。
「うぬぬぬぬぬ……!!」
長政が唸っている間にも勝茂と忠興は大坂城に向けて歩み出し、高虎の姿も小さくなっている。そして高虎に追従するように伊勢の小大名も退却を始め、いつの間にか残っていたのは黒田と徳川譜代の本多忠政だけになっていた。
「もういい! 我々も撤退だ!!」
長政はもう何もかも嫌だと言わんばかりにその決断を下した。
だが、それに応える声は予想外に少ない。
「太兵衛はどうした!」
「それが、細川様と共に……」
この時、黒田軍の家老である母里太兵衛は既に大坂城に向けて白旗を振っていた。そしてその太兵衛の後には黒田軍の中白旗を掲げた二千余りの軍勢が後続していた。
「あいつ……!」
長政は声を失った。当主である自分を無視して何を勝手な事を……と、怒る気力すら湧き上がって来ない。
太兵衛の行動の理由はわかっている。忠興や高虎に言われた通り、自分の親友である正則に縋ろうとしているのだろう。実際、この場での正解はそれだったかもしれない。だが、長政にはどうしてもその「正解」を着手する気が起きなかった。
確認情報ではなかったが、山崎での決戦にて後藤又兵衛が大活躍したと言う話が長政の耳に入っていた。ここで大坂城に降れば、まず間違いなく豊臣家の中で幅を利かせるであろう又兵衛に頭を下げる事になる。長政には、それがどうしても許せなかった。
「……退くぞ、早急にな。本多殿にはもう手一杯だと伝えてくれ」
長政の顔から全ての表情が消え失せ、能面のような顔になった。そして一刻も早く自分の存在をこの地から消すため、長政はてきぱきと動き始めた。
※※※※※※※※※
「何じゃと!? 家康が死んだ!?」
「はい……」
家康死すの報は、淀殿にも強い衝撃を与えていた。
「馬鹿な……わらわはどうなるのじゃ!!」
豊臣方の人間としては最高の結果なのだが、淀殿に言わせれば最悪の結果だった。今、大坂城には自分が大嫌いで向こうも自分を嫌っている高台院が君臨しており、その高台院の任命した大将である真田幸村の指揮の下この大勝利を勝ち取ったと言う事実は、高台院の存在を果てしなく大きくするだろう。
そうなれば、もはや淀殿の居場所などない。
「誰じゃ、下手人は! 真田か!?」
「それが、確認は取れておりませぬが、あの娘がと言う話が……」
高台院を寺から引っ張り出し自分を城から放り出した、秀頼の母である自分の頬を横手で叩いたあの娘が!
今度はある意味最後の希望であった家康まで殺したと言うのか!
「ぐぅぅぅぅぅ!! 許さんぞ、あの小娘!!」
「ですが……」
「わかっておるわ!! 返事はないのか!?」
何としても秀美から受けた屈辱を晴らし大坂城と秀頼を取り戻したい淀殿であったが、今の淀殿には何もない。
だからこそ多くの大名に自分に味方するように書状をばらまいていたのであるが、ほとんど梨の礫であった。
「奥方様、伊達陸奥守(政宗)様から返答が参りました!」
「おお……!!」
そこに女官が持って来た報告を耳にして、淀殿はわずかに頬を緩ませた。
「頼むぞ……!」
淀殿が撒いた書状に返事が来たのはこれが初ではない。ただし、前向きな回答は一つもなかった。今回こそは前向きな回答なのか、それとも……淀殿は藁にもすがるような思いで書状を開いた。
「謹んで淀のお方様に捧げまする」
封の中から出て来た短冊には添え書きと共に、一首の短歌が記されていた。
千々の日も 尾根より出でて 青さ消し 茶葉摘み取られ 桐松繁る
下界ではいろんな事が起きている日々が繰り広げられているが、そんな事は関係なく太陽は山から出てきて夜の青さを消して行く。その下では人間が毎年同じように茶葉を摘み取り、同じように桐や松が背丈を伸ばしている————。
一見単に風流なだけの短歌だが、今は十月下旬である。茶葉や桐など、どう見ても初夏のそれであってこんな時期に詠む歌ではない。
「おのれ……!!」
まもなくこの歌の真意を解した淀殿は、怒りの余り右手だけで短冊をへし折った。
尾根は言うまでもなくおね、すなわち高台院であり、青さは葵、つまり徳川家である。桐は五七の桐で豊臣家、松は市松こと福島正則、繁るは繁栄すると真田信繁、すなわち幸村とかけている。更に言えば、頭の「千々」も千成瓢箪と、すなわち秀吉本来の旗印とかかっているとも言える。そして「茶葉」は、他ならぬ茶々こと淀殿自身である。
要するに、おねが太陽となって秀吉が築き上げた豊臣家を照らして徳川家に制裁を加え、茶葉を摘み取った、すなわち淀殿を放り出した結果、豊臣家は福島、真田と共に繁栄していくであろう、そう政宗は言っているのである。
市場にて 拾われ光る 瓢箪に 地の果ての手は 玉露満たさす
その短冊の裏にはさらにこんな短歌が記されていた。あらゆる物が商品となる市場で拾われた瓢箪は光を取り戻し、どこか遠くの地では上等なる茶である玉露を入れるほどに重用されるのだから、希望を捨ててはならない、と言っているかに見える。
怒りに打ち震えた淀殿はこの短歌の存在に気が付かなかったが、これもまた淀殿の怒りを駆り立てるに十二分な内容だった。
市場は淀殿の母であるお市、拾うはお拾こと秀頼を指し、瓢箪は淀殿が君臨した豊臣家と言うよりおねによって大きくなった羽柴家の家紋であり、地の果ては陸奥、要するに地の果ての手とは政宗自身の事であり、玉露は茶、つまり淀殿である。
要するに、瓢箪こと豊臣家に玉露を満たす、つまり淀のお方様が豊臣家に戻るにあたっては、地の果ての手であるこの政宗が高台院との仲介役となりますゆえ、ご安心召されよと言っているのである。淀殿にしてみれば、今さら高台院に頭を下げるなど出来っこない相談であり、見ればますます頭を沸騰させるだけだっただろう。
「他に誰かおらんのか!!」
「……恐れながら……」
「どうなっておるのじゃ! 申せ、全て申せ!!」
「細川に鍋島が大坂城に投降、尾張の徳川軍は福島軍の攻撃を受け敗走、藤堂軍は大坂城より撤退……」
「何と言う事じゃ……みなあの高台院に屈服したと言うのか……!」
「奥方様、まだお一人だけ残っております……!」
「誰じゃそれはっ!」
「越前の松平忠直でございます。彼は太閤殿下の養子の子、つまり奥方様にとっても孫と言って差し支えなきお方! 義理の叔父である秀頼君を救ってくれと申せば」
「そうか」
政宗の返事が否である事と了解した淀殿は他に誰かいないのかと女官に怒鳴り付けたが、入ってくる情報は最悪のそればかりであった。大蔵卿局の言葉に、淀殿はかろうじて救われたと言う表情に変わった。
「忠直にその旨を伝えよ!」
「既に書状は送っておりますが」
「だからより条件を高くしてじゃ!!」
「申し上げます、忠直が家老、本多富正が参りました」
淀殿がやっとつかんだ藁に縋り付かんとしたちょうどその時、忠直の家老である本多富正の上げた声が淀殿の耳に入った。
「淀のお方様でございますね」
「さよう、そなたが忠直の家老か?」
「はい、本多富正でございます」
「それでは早う、わらわを連れ出してくれ」
「それは願ってもない事」
淀殿は願ったり叶ったりの展開に久しぶりに心底から笑った。さすがに淀殿とて、忠直の手勢一手ではどうにもならない事はわかっている。
一旦どこかの大名家へと逃れ、自分の力を利用して勢力を拡大させ高台院から大坂城を取り返す、淀殿はそういう絵図面を頭の中で描いていた。
「ではそれがしと共に大坂城へ」
「大坂城へ?」
「はい、高台院様の下へと」
「どういう意味じゃ!」
「我が主の命でございます。もし否とおっしゃるのでしたら一人で大坂城へ参りますが」
「そなたは何をしたいのじゃ!?」
「それよりご返事の方を」
「高台院などに頭が下げられるか! それより忠直は何を……!」
「わかりました、その言葉高台院様へとお伝えいたします」
だが、その絵図面が机上の空論であった事が判明するのには十秒の時も要らなかった。
この時、忠直は筆頭家老である富正たちを人質として大坂城に差し出す代わりに越前への撤退を黙認してもらうと言う条件を豊臣方に持ち掛けて承諾を得、既に大坂城から撤退を始めていた。
忠直が富正を淀殿の元へ寄越したのは、ただ投降の際の手土産を稼ぎに来ただけに過ぎなかったのである。
富正は、言いたいだけのことを言うとさっさと淀殿の元を去って行った。完全に袖にされた格好の淀殿であったが、もう癇癪を起す気力すらなくなっていた。
「わらわは秀頼の実の母じゃぞ…………それを…………どやつもこやつも…………」
淀殿は虚空を見つめながらただそう呟く事しかできなかった。大蔵卿局らにも、どういう言葉をかけたらいいか全くわからなかった。
そこにあったのは、この戦いの勝者の側である豊臣家に属する人間とはとても思えない、敗者と呼ぶにふさわしい暗く淀んだ空気と顔だけであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます