第五章-6 さよなら、徳川家康!

「ぐぅっ……!!」


 家康は思わず呻いてしまった。いくら攻撃をかけても前面の明石軍が崩れてくれない。このままでは天王山を突破されてしまう方が早い、そうなれば後方からも豊臣軍が迫ってくる、そうなればまさに命の終わりだ。

 明石軍の損害も馬鹿になっていないはずだが、それでも全然崩壊する気配すらなく、むしろ人が死ねば死ぬほど強くなっていく。




「まだ突破できんのか!」

「このような狭い山道では大軍の展開ができず正面衝突となり、その結果壁は厚くなり」

「わかっているわ! 左右に兵を回せ!」


 だが家康のその言葉が丸聞こえであるかのように、いや実際大声で叫んでいるので丸聞こえなのだが、家康の言葉に追従するように明石軍の後方の兵が左右に開き始め、家康の意図を阻まんとしている。



(ええい……やはりキリシタンどもに対する処分が甘すぎたか!)



 家康は彼らの強さと正確な挙動が徳川軍のそれと同じである事に気付いていない、いや気付いているのだが認めたくなかった。

 信仰心に裏打ちされた軍勢の強さは家康自身が一番よく知っており、だからこそ、反乱を起こすような強い力を持った軍隊を根絶するために家康はここ十数年政治を執って来たのだ。

 そして、自分ではもういいだろうと判断して此度の戦いを始めんとしたのだが、予想外の事が起き続けたにせよ時期がいささか早すぎたかも知れないと思わざるを得なくなった。







「家康!! 豊臣栄光の地、山崎に眠れ!!」




 そして、ついに恐れていた事態が現実になった。真田幸村の声だ。家康は天王山に三千近い兵を残していたが、幸村は重成に天王山制圧を任せ、自らは家康の残存兵力六千余りとほぼ同等の軍勢を率いて家康の追跡にかかっていた。


 さらに天王山そのものも正面からだけでなく脇道から登って来ていた豊臣軍の攻撃を受けていた。所詮脇道であるだけに一つ一つの軍勢は少数だが、全体では多数であるだけに倒しても倒してもやって来る。その結果、幸村の手勢の後方をつく所ではなくなってしまっていた。また相変わらず豊臣軍の射撃は正確であり、徳川方も部隊長を中心に次々と被弾して討死までは行かなくとも戦う力を奪われ、防備は次々と剥ぎ取られていく。天王山まで落とされたら、重成の手勢や残りの幸村の兵まで自分を追ってくる。


「幸村に構うな!! 前面を突き破れ!!」


 ここで怯めば確実に幸村に喰われる、だとすれば前面を突き破るしかない。幸い、激しい戦いが行われた結果明石軍の数はさすがに減って来てはいた。


「この戦いは逃げ切れば勝ちだ! 敵を倒さずともよい、戦闘能力さえ奪えばな!」


 家康は必死に突撃を命じ続ける、だが明石軍の防備も薄くなりこそすれ全く崩れる気配がない。手や足を負傷し戦闘能力を失ったはずの兵たちも、徳川軍の兵の足を掴んだり健在な方の腕で刀を差し出したりして必死に徳川軍を妨害してくる。



 この時、徳川軍の兵士たちの間に死や苦痛に対する恐怖とは別物の感情が芽生え始めて来た。何なんだこいつらの執念は、こんな奴らを相手にしているのか、自分たちとは別の生き物のようだ……。



 人間、理解できない物に遭遇すると恐怖を覚えるものである。ただの敵兵ならば自分たちを殺しにかかっている存在、そう考えれば恐ろしくはあるが理解はできる。


 だが今の明石軍の負傷兵たちの、人間の限界を越えているとしか思えない執念は戦争に勝つという基本的な目的のためだとしても恐ろしく、ましてやキリスト教に全く理解のない徳川軍の将兵には理解を越えている存在であった。




「うわわっ……こいつら……こいつらは何なんだ!」

「ば、化け物だ!」

「助けてくれぇ!」




 ついに、徳川軍の兵士の心が砕かれ、家康の身を顧みることなくバラバラになって逃げ出し始めた。


「馬鹿、逃げるな!むしろ助からなくなるぞ!」

「じゃあ何とかして下さい!!」

「さ、さ、真田が来るぅ!!」


 足軽大将の必死の督戦も、兵たちには届かない。前からは明石軍、後ろからは真田軍が来ている中、兵たちが逃げ散ってしまってはもうどうにもならない。


「わしについて来い! 何とかして逃げ延びるのだ!!」


 崩壊する軍の状況を素早く見極めた家康は旗も兜も投げ捨て、命一つを守るためならばそれ以外は何も惜しくないと言わんばかりに、後ろも振り向かずに北の山中に向かって駆け出した。


「逃がすな!!」

「ついて行くぞ!!」


 それを見た幸村、全登、家康軍の兵士たちが同時にほぼ同じ言葉を叫んだ。


「この化け物は俺らが何とかする! お前たちは大御所様を!!」


 残っていた徳川軍の兵士たちは二つに分かれ、一つは明石軍への盾となり、もう一つは逃げて行く家康の盾にならんと家康を追い掛けた。


「やらせるかっ!!」


 しかし明石軍への恐怖に打ちのめされた徳川軍の兵士は既に多くが逃げ散っており、これまでの戦死者と合わせると既に四千近くが消えていた。


 すなわち、残りはわずかに二千ほどであり、さらにギリギリの所まで追い込まれていた兵士たちの中には家康の後を追うと言う名目で逃げ出した者も多く、明石軍に立ち向かった者はわずかに四百人前後であった。


「揉み潰せ!!」


 さすがにこの四百人は明石軍に対し勇敢に立ち向かったが多勢に無勢、まもなく全滅の憂き目を見る事となった。



















 家康は必死に山道を逃げている。正直、今何人が自分に付いて来られているのか、真田はどこまで追って来ているのか、それすらわからない。


「三方ヶ原とて……生き残りさえすれば立ち直れたのだ……!」


 家康はただそれだけを頼りに馬を走らせていた。


 何とか京まで逃げ延びる、そして忠輝の軍と合流し、何をしてでも忠輝の軍勢を傘下に収め、その軍勢で幸村の首を取ってみせる、家康は逃げ切った後の構図をそう描いていた。


 無論、そこまで安易に行くとは思えないが、そうだとしても何とかこの苦境を乗り越えて生き延びねば、今まで犠牲にしてきた多くの者に申し訳が立たない。


「うわわっ!」


 そんな途上、限界をとうに超えた速度で走らせていた為か馬が前脚を折り、家康を地面に投げ出しながら後ろ脚を蹴り上げた。

 家康はすぐに立ち上がって馬の方を顧みるや、二つの事実を知る事となった。もはや馬が持たない事と、味方の兵たちが自分の方に向かってくる事である。







「大御所様!!」

「おお……来てくれたのか」


 見た所三十数名であるが、今の家康にとっては万の軍勢にも匹敵する存在であった。


「残念ながら我ら以外はどうなっているのか」

「やむを得まい、そなたらが来てくれただけでもありがたい。だが馬はこの通りのありさまだ、わしはどこへ逃げればよいのか……」

「我らが先導いたします、大御所様は我らについて来てください」


 その三十数名の中の一人が口にした力強い言葉に従い、家康は勇気を奮い立たせて二本の脚で歩き始めた。


「何とか京、或いは近江に入らねば……」

「ですが一日では無理でしょう……」


 満足な軍装などあるはずがなく、真田や明石に見つかったら間違いなくそれが人生の終わりを意味しているであろう三十数人の敗走集団は、必死にお互いを励まし合いながら歩を進めていた。


「全く、夜が早うございますな……」

「それだけが救いかもしれん」


 午の刻(午後零時)に戦いが始まったためか、今は既に申の刻(午後四時)になっており、更に十月下旬と言う事もあって既に夕焼けになりかかっていた。


「ですがこれ以上は」

「わかっている、今日はもはやこれまでだ」


 闇の中ならば敵に見つかりにくいが、こちらも動きが取りにくいのは変わらない。家康は本日これ以上の逃亡を諦めた。


「いざと言う時は大御所様を背負ってでも逃げまする」

「頼むぞ……」

「ありがたきお言葉…皆、大御所様を取り囲むのだ!私は周囲を探してくる!」



 力強い言葉に、家康はようやく相好を崩し、大木にもたれかかった。

(久しぶりだな……こんなに人心地がついた気分になったのは)

 二十分ほどそうしていた家康は、思わず目を閉じていた。しかし、







 ズダダダーン!!







「な、なんだっ!?」


 その心地よい微睡はけたたましい銃声によって破られた。


「大御所様をお守りせよ!!」


 慌てて兵たちは家康を担ぎ上げ運ぼうとしたが、降り注いだ銃弾の雨によって三十数名いた兵士はあっと言う間に十名になり、走って逃げようとした家康も脚を狙撃されてしまった。


 そして、残った十名の内五名は家康の盾となろうとして血の海に沈み、一名は家康を背負い込もうとして射撃の的になり、二名は家康を見捨てて逃げようとした所を背後から撃たれ、残る二名は銃弾の飛んで来た方を見てあっと言った直後に首元に手裏剣を突き刺されてあの世へと旅立った。










「逃がす訳には行かなかったからな」


 見れば、自分を先導してきた兵士の一人が五十人近い鉄砲衆を従えている。


 彼の名は霧隠才蔵、真田十勇士の一人である忍者であった。徳川軍の敗残兵になりすまし、真田軍が待ち構えている所まで家康を連れて来た、そう言う塩梅である。


「やられたか……真田に……幸村に我が首級を持って行け」


 全てを悟った家康は口元に諦めの笑みを浮かべながら才蔵に向けて首を突き出した。


「悪いけど……それは私の仕事なの。才蔵さん、そうでしょ」

「その通り、そういうことですよ」


 才蔵は家康の言葉を無視するように横に下がり、そして一人の火縄銃を抱えた少女が家康に近寄って来た。


「私は浅川秀美。家康……あなたを殺す」








「ふふふふ……はははは…!」


 家康は秀美の余りにも面妖な格好に一瞬目を剥き、そして口を大きく開けて笑い出した。




「おぬし……遥か未来ではその装束が日常になっておるのか?」

「ええっ……」


 秀美は家康から信じられない言葉を聞かされた。まさかこの家康が女子に討たれるのかと言う自嘲の笑みかと思っていたが、まさか家康が自分のことを未来から来た人間だと知っているなどとは微塵も思わなかった。


「やはりそうか。弥八郎の言っていた通りだわい」

「弥八郎……本多正信!? あの人は一体どこで!?」

「勘違いするな、弥八郎とて根拠をつかんでいたとは思えん。だが、弥八郎は何となく察していたのであろう。今となってはどういう経緯で察したのか全て推測になってしまうがな」


 味方にさえ極秘であった秀美の情報が漏れたとは思えない。才蔵も秀美も改めて、本多正信と言う男と、家康という男の恐ろしさを感じずにいられなかった。


「それでおぬしか? 秀忠を討ったのは」


 秀美は内心驚きながらも、家康の質問に黙って頷いた。


「そうか……これで秀忠の死に顔が歪んでいたのも合点が行ったわ」

「もう、終わった……?」

「いや、もう一つだけ聞かせてくれ。わしを討った後おぬしはどうする気だ?もし、豊臣家への忠義心だけでここまで持って来たのならば、わしはおぬしを許さんぞ」




 家康の厳しい言葉は、要するに自分を討った先に何の展望もないのならばお前に明日はない、そう秀美に言っているのである。




「その事については考えて、自分なりに答えを見つけたつもり。政治の事はよくはわからないけど、その事への答えを持たなければ、あなたを倒す事なんてできないと、私は思ったから」


 秀美はたどたどしくはあったものの、全体からすれば迷いなく家康の問いに答えた。


「ふ……それならばよい。浅川秀美とやら、おぬしがどの様に世を動かすか、あの世から見届けてやろう」


 家康は観念したように、秀美の持っていた火縄銃に自らの心の臓を当てた。秀忠と同じように殺してくれと言う事だろうか。その秀美の疑問に対し、家康は目礼をもって肯定に代えた。




「さよなら、家康!」




 秀美は家康の顔を両目で見据えながら、火縄銃の引き鉄を引いた。




 秀美の放った銃弾を心の臓に受けた家康は地に倒れ伏しながら、秀美の制服を鮮血で汚した。倒れ伏した家康の首を才蔵がもぎ取ると同時に兵士たちから歓声が上がったが、秀美の耳には銃声だけが聞こえていた。







 自分が放った、日本の歴史を自分が知るそれとは全く別の物に変えるであろう銃声が……………………。

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