第五章-5 スマホ、死す!

「たわけがっ……!」

「いえですが現に!」

「違うわ!上杉は寝返ってなどおらん! あれは真田の手下だ!」





 家康は連竜に対したわけと怒鳴ったのである。


 もちろん家康とて、徳川の今の状況が上杉寝返りと言う最悪の事態を誘発する可能性がある事はわかっていた。

 だが歴戦の勇将である連竜ならばその事態を避けるように冷静な判断をしてくれると信じていた。なのに、その連竜が簡単に偽上杉軍に騙されてしまった。




「まさか……!」



 この時、家康の頭の中に最悪の予測が浮かんだ。忠輝が寄越して来た援軍は……



「大変です!! 上杉が寝返りました!!」

「大御所様は既に知っておいでだ! そしてそれが真田の手先の成り済ましである事も!」

「上杉軍はおよそ七千の兵を擁し」


 そして、新たに本陣に駆け込んで来た伝令と最初に上杉寝返りの報告を伝えて来た伝令の問答を聞くや、家康は自分の悪い予感が的中してしまっている事を悟り、その伝令の次の言葉で確信し固まってしまった。



「七千? せいぜい二千だろ!」

「しかし北からも上杉が来て交戦を始めていて!」

「何言ってるんだ? 北から敵軍が来るわけがないだろう? 援軍ならともかく」





 二人の伝令が押し問答を繰り広げる中、家康は気付かれない内にとばかり慌てて固まっていた表情を元に戻そうとしたが、どうにもままならない。

 ここで真実を公開してしまうべきか、それとも兵の動揺を最小限に抑えるべく伏せていた方がいいのか。もし前面の豊臣軍との戦いが優勢ならば真実を公開しても動揺は最小限で済み、最小限の被害でこの山崎から撤退できるだろうが、現状は有利どころか豊臣軍が押し気味である。


 単に偽上杉軍と後藤軍の突入による混乱だけならばともかく、寝返りまで発生したとあっては兵たちの心理的動揺は更に大きくなる。そんな状態で整然と退却する事などできるはずがなかった。しかし、だからと言って伏せてしまっては、事態が判明した際に却って兵たちの恐怖を煽り混乱をさらに悪化させるだけかもしれない。だとすれば言ってしまった方がいいのか……だが現状を考えるとその報告を受けた兵たちの心が持つかどうかわからない。家康は迷った。


 そしてその結果、最悪の形で真実が明るみに出る事になってしまった。







「やられた……真田にやられた……」


 家康が口からこぼしてしまったこの言葉は、この時一番徳川の将兵に聞かせてはいけなかった言葉だっただろう。だが、迷いの果てに悔恨の念に支配された家康は、その言葉を、最悪の調子で吐き出してしまった。

 敗北宣言とも取れそうなほどに、暗く陰鬱で、まるで自分たちの運命はこれで敗北と決まったと言わんばかりに。







(辰千代が誰を援軍として寄こすか、あやつは読み切っておったのだ……そして、彼らが味方になるかもしれない立場の人物である事を利用した……全てはその為だったのだ)


 真田は忠輝が上杉を援軍第一陣として派遣するのを読み切っていたのだ。勝手にすればとばかりに遅滞行軍を続けていた忠輝が、政宗辺りに必死に説得されてようやく重い腰を上げて手勢を送るとすれば誰だろうか。

 家風として義理堅く、関ヶ原の徳川に対する罪を晴らそうとし、武勇にも優れている上杉だろう。あるいは上杉家が自ら志願したかもしれない。その真田の読み通りに、忠輝は上杉を先鋒として送り込んで来た。


 そして真田は連竜と上杉の因縁と言う爆薬に点火させ、一挙に徳川を吹っ飛ばしにかかったのである。だからこそ、「自分たちにとっての」援軍である上杉を待つべく、あんなに開戦を遅らせていたのだ。


「えっ!? 何か!?」

「いや……何でもない」




 不幸中の幸いと言うべきか家康の言葉は周囲の者たちの耳には入らなかったものの、絶望に襲われた家康から醸し出される陰鬱な空気は容赦なく周囲の人間を覆い始めた。その間にも間断なく豊臣軍は銃弾の雨を降らせ、銃弾と共に人間を突っ込ませてくる。


 兵士の質では徳川軍の方が圧倒的に勝っていたが、連戦連勝の勢いと真田幸村への信頼をも兼ね備えた軍勢はいくら倒しても引き下がろうとせず、さらに休みない攻撃による徳川軍兵士たちの疲弊も馬鹿にならなくなって来た。

 その上に安全地帯だと思っていた麓で混乱が発生したとなれば、兵たちは動揺し士気の低下による苦戦への転落は免れないだろう。


(もはやこれまでかっ……!)



 麓へと撤退するしかない。麓も混乱状態ではあるがどうせ味方の方が多いのだ。何とかなるだろう、いや何とかできるだろう。家康は覚悟を決めて采配を手に取ろうとした――その時である。


「立花軍、真田信幸軍、上杉に続いて寝返り!!」


 徳川陣に激震が走った。上杉に続いてと言うセリフは、上杉が完全に寝返ったと言う事の証明である。


「何を馬鹿な!」

「既に北より到来せし上杉軍共々、この天王山の麓にて我らと槍を合わせておりまする!」






 家康はこの時、自分の下そうとしていた決断が完全に手遅れである事を悟った。さっき上杉寝返りの報が入った時点で決断していれば、途中でこういう報告が入った所で怯んだり停止したりすることなどなく、一直線に駆け抜けて京まで逃げる事ができただろう。

 さすがに京で戦闘を起こせば政治的打撃が大きい事は真田とてわかっているから、損害は少なくないにせよ何とかはなるはずだ。だが、こんな状況で麓への撤退を言い出した所で兵たちはついて来ないだろう。

 ただでさえ押されている中、最悪の情報を受けて心理的動揺は大きく、そして大将である自分が無謀な命令を下すとなればいくら徳川の兵が純朴で愚直でも限界がある。だが、正直他にどうすべきかわからなかった。


「……やむを得ん……天王山を捨てよ! 麓へ突っ込み、京へと抜ける!」

「えっ!?ですが」

「もはやこれ以上の戦いに利はない!」


 家康は必死に悔恨の色を隠しながら兵たちに命じた。手遅れであろうが、もう助かる方法は他にない。自分の迷いによる失敗を取り返さんとばかりに、家康は采配を力強く振り下ろした。


「生き残りたくば振り返るな!! 京まで駆けよ!!」


 そして家康は馬上の人となり、大混乱の戦場になっている麓へ向けて己が手勢を叩き付けんばかりに進軍させようとした。







 しかし、その家康の目の前に豊臣軍の兵たちが立ちはだかった。


「徳川め! よくも高山殿をこの国より放逐してくれたなっ!」

「デウス様に代わり、裁きを下してやる!」


 十字架旗を掲げた軍勢、明石全登率いるキリシタン武士たちである。家康はこの年、日本のキリシタンの代表と言うべき高山右近をマニラへと追放していた。大久保長安がキリシタンであった事がこの家康の措置に結び付いたとも言われているが、この処分は当然の事ながら日本のキリシタンの恨みを買っていた。


 信仰心に支えられた軍隊の強さは歴史が証明している通りであり、徳川がここまで来たのも徳川の御家に対する信仰心の厚さが成した業と言える。明石軍のキリスト教への信仰心もまた同じであった。










 幸村はこの時、豊臣軍で最強の軍勢は大名の正規軍である福島軍や毛利軍ではなく明石軍だと考えていた。だからこそ、幸村は明石軍を上杉軍に成り済まさせて連竜にぶつけたのである。


「突破するのだ!!」


 家康は叫ぶが両軍は士気に大差がついており、明石軍は元々が武士である牢人の集団であるだけに徳川軍と比べても質も互角以上であり、容易に突破できる相手ではない。

 しかも、本来ならばこちらの負け戦、すなわち自分たちの勝ち戦が定まっている状況ならば必死に逃げようとする軍勢に構って大火傷をするのを避けるために、大将はともかく逃げようとする雑兵たちはある程度は逃がしにかかる。


 だが、明石軍は誰一人功を焦ろうとせず、それでいてかつ徳川軍を逃がそうとせず、自己そのものを槍とし楯として徳川軍に立ち向かってくる。

 そして傷付こうとも引こうとせず、前の者が倒れれば次の者が現れ、隙間を埋めてこちらの進軍を阻んで来る。よく見れば後ろに大将の明石全登が控えていたが、それを差し引いてもこの強さと統率のとれた挙動は牢人たちの軍勢としては異常だった。




※※※※※※※※※




「ええい、上杉めっ! どこまでも面倒をかけさせるのだ!」


 その頃、麓では連竜が目を血走らせて吠えていた。


「自分たちだけで自滅すればいい物を真田に立花まで巻き込みおって! どうだ、天王山から降りて来た連中は全滅させたか!」

「いえ、まだ半数以上が健在との事」

「くそっ……」


 先に述べたように、上杉軍に成り済まして連竜にぶつかって行ったのは明石軍であり、現在の豊臣軍の中で正規軍を差し置いて最強であると幸村が考えている軍勢である。

 もし、送り込ませたのが他の大将の軍勢であれば、上杉軍がこんなに弱いはずがないと正体を見破られてしまうかもしれないし、この三方から麓の頼宣軍を攻撃すると言う策の効き目も弱まっただろう。連竜だけでなく頼宣にも、いや徳川軍全体に上杉軍は強いと言う思い込みがあったのだ。






※※※※※※※※※




「おのれ……」


 怒りと焦燥と憎しみに支配された連竜には、兼続の無念はわからない。


(なぜだっ……なぜ徳川は……!)


 関ヶ原から十四年、確かにあの時自分は石田三成らと組み徳川を討とうとした。だが、もはやあの時とは時代が変わっているはずなのだ。確かに上杉は強兵ではあるつもりだが、今やたった三十万石の家である。徳川を脅かす力などもうないはずだ。そんな上杉家に対してすらこんな仕打ちを行うとは!


 連竜の私怨が原因である事はわかっているが、もし徳川が天下を治める家であれば、今すぐこんな失態を犯した連竜を斬るべきであろう。徳川にとってみれば連竜は陪臣、言い訳ならばいくらでも利くはずだ。それを怠っている徳川に天下人の資格はないのではないか、兼続の頭にそんな思いが渦巻いていた。それに、単純にこちらの話に聞く耳を持たない連竜に腹が立っていた。兼続の瞳から、赤い涙が流れていた。







 そして兼続とほぼ同じ思いを、上杉に続いて援軍の第二陣として到来し、同じように裏切ったと思い込まれて攻撃を受けている立花宗茂と真田信之も抱いていた。


(これが故意でない事はわかる……だが余りにも情けない)


 宗茂は上杉と同じように信義に厚く、関ヶ原で西軍に与し、武勇に長けている。信之は関ヶ原の時から東軍方であるが、豊臣軍総司令官である真田幸村の兄であり、ここで徳川方として何らかの功績を挙げないと徳川家中での立場が危うくなりそうである。


 だがそれらの援軍第一陣として忠輝に選ばれ真っ先に派遣された理由は、完全に「徳川方を裏切る理由」に化けていた。兼続も宗茂も信之もかなりの実績を持つ世に名高き将であり、本気でかかって来られれば三軍合わせて八千とて厄介である。


(それにしても誰だ、発砲した奴は!)


 信之は思わず歯噛みした。兼続と同じように、宗茂や信之も必死に無実を訴えていたのだが、連竜が全く聞く耳を持たず、そして兼続の時と同じように自軍の方から聞こえてきた謎の銃声に背中を押される形で徳川軍への攻撃を始めてしまった。こうなった以上、どう将兵を諌めようとしても無駄であり、却って自分たちへの信頼を失い損害を生むだけだと判断した信之と宗茂は自らの手で采配を振って徳川軍への敵対行動を取らざるを得なかった。

 この結果、頼宣軍は南の後藤軍、天王山の偽上杉軍、北からの上杉・立花・真田連合軍に完全に包囲される格好になった。




※※※※※※※※※




 麓に降りていた猿飛佐助はこの大混乱を、右手に文明の利器を持ちながら傍観していた。言うまでもなく、上杉と立花と真田信之を徳川の敵と言う立場に引きずり込んだ銃声は、佐助が秀美から譲り受けた文明の利器で出した音である。


(直江山城殿、立花侍従殿、真田の兄君様、申し訳ありませんね。これも我らの殿のためですから。で、これで家康は麓には逃げられない、となれば……)


 そこまで佐助が考えた所で、佐助の間近で甲高い音が鳴り響いた。


(こりゃ不味い、逃げないと)


 何が起こったのかすぐにはわからなかったが、自分ではないにせよ自分の間近にある何かに銃弾が命中したのだ。流れ弾ならばともかく、見つかって狙われているとなれば一刻の猶予もない。その辺りの判断は流石真田忍びの棟梁だったと言えよう。




「あーあ……」


 やがて麓から距離を取り安全を確保した佐助は思わずため息をついた。佐助が右手に握り続けていたスマートフォンに、銃弾がめり込んでいたのである。もはや、スマホは何も言おうとしない。どこを押しても、何の音も出はしなかった。


「すみませんね秀美さん。いや、失礼ながらこんな事態も覚悟はしていたんでしょ? 幸村様共々、家康を頼みますよ」


 佐助は秀美に対し許しを請うような笑みを浮かべながら、被弾した秀美のスマホを懐にしまい、再び天王山に向けて走り出した。

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