第五章-4 上杉の悲運

「急げ急げ!」


 直勝は必死に声を出しながら駒を進めていたが、この時直勝は家康が押され気味であるとは思っていない。直勝も家康が負ける可能性などないと思っていたのだ。


 井伊直孝を討たれても、秀忠を討たれても、家康が負ける可能性などないと、直勝を含む徳川の将兵の自信は揺るがなかった。


 ところがここでそんな直勝の耳に、鉄砲の一斉射撃の音が入り込んで来た。


「なっ何!」








 麓かとも思ったが、この時まだ頼宣軍と後藤軍の再衝突は起きていなかった。直勝は慌てて天王山に目をやったが、そちらでもなさそうだ。

 今の一斉射撃の音はおよそ百丁ぐらいの音であり、天王山の軍勢の音だとするとむしろ貧相である。

 と言うより、余りにも音が近かった。まだ頂上には結構な距離があったはずなのに、一体どこから来たのだろう。




 直勝が進軍を止めて銃声の出所を探す内に、また先程と同じ一斉射撃の音が鳴り響いた。

 だが何かおかしい。よく聞けば、一斉射撃の音が二回とも同じ方向から聞こえて来ていた事に、直勝はここで気が付いた。


「敵伏兵だ! 叩け!」


 直勝はそう叫んだが、鉄砲の音がした方を見ても何もない。


「まさかっ……!? 敵はっ……!?」


 直勝は背筋に冷たい物が走るのを感じた。あの二回の一斉射撃は音だけで、こちらの注意を向けさせるのが目的なのか……!


「はっ」


 謀られた、敵は逆の方向だ……!と言いかけた所で、直勝に本物の銃弾の雨が浴びせられた。直勝は数発の弾を立て続けにその身に受け、側近数十名と共に帰らぬ人となった。

 そして直勝が死の間際に気が付いた通り、銃弾の雨は一斉射撃の音と真逆の方から降って来ていた。






「今だ!!」


 そして大将らしき男の叫び声と共に、一斉に伏兵たちが飛び出した。ありえなかった方向からの一斉射撃と共に、ありえなかった方向からの伏兵が飛び出してきたのだから、たまった物ではない。

 いや、本来はこれを抑えるのが直勝軍の役目であったはずなのだが、こんな状態ではできっこなかった。


「大将がやられた!」

「落ち着け! この伏兵を倒すのが我らの任務だろう!」

「そんな事言われても!」


 直勝を失った軍勢はあっと言う間に混乱を始め、麓へ向けて壊乱を始めた。心ある者はその場に踏み止まって伏兵との戦いを始めたが、そんなのはごくわずかであった。


 さらに、その混乱に拍車をかける事件が起きた。

 先ほど、偽物の一斉射撃の音が鳴り響いた方から銃声と共に一本の火箭が飛び出し、一人の兵士の背に銃弾をめり込ませたのだ。


「ど……どっちからの射撃だ!」

「あ、あっちだ!」

「馬鹿な! あっちは偽物じゃないのか!?」

「いや、確かにそうだ! あっちからだ!」


 俺たちは完全に挟まれているのか……!?徳川軍の兵士たちは恐怖に憑りつかれ、遂に雪崩を打って逃げ出した。それでもわずかに理性を保っていた者たちは天王山の頂上を目指したものの、ほとんどは麓に向けてわき目もふらず走り出した。


「追え!」


 伏兵の大将と思しき男の声と共に伏兵たちが一斉に飛び出し、壊乱する徳川軍の追撃を始めた。


「またもやこんな代物が勝敗を決める鍵になるなんてね」


 その様子を見ながら苦笑を浮かべていたのは猿飛佐助である。右手には火縄銃、左手にはスマホが握られていた。

 秀忠を討ち取った時と同じように、一斉射撃の音はこの携帯から鳴らされていた。そして右手に持っている本物の火縄銃の射撃によって、残っていた徳川軍の心を打ち砕いたのである。


「さて、引っかかってくれればいいけど……」


 佐助は火縄銃とスマホを持ちながら、麓の方に視線をやった。




※※※※※※※※※




「間違いないのだな……!」

「ええ……」

「よかろう……お主らの仇はわしが取ってやる……!」


 麓に逃げて来た兵から伏兵現るの報を受けた連竜は感情をむき出しにし、やってやると言わんばかりに叫んだ。


「落ち着いてください!迎撃に徹すれば十分です!不意を突かれただけの結果故」

「わかっている……!」

「でしたら無理をなさらず」

「うるさい!」


 老齢の連竜を止めようとする側近の言葉にも耳を貸さず、連竜は強引に輿を降りた。


「大将が戦況を把握せずに戦ができるか!」


 そう怒鳴りつけて馬上の人となり天王山から降りてくる軍勢を目の当たりにするや、連竜の全身の血が一瞬にして沸騰した。







「毘沙門天だと……!」







 伏兵の軍勢が掲げる旗、それは五七の桐でも六文銭でもなく、「毘」の字だった。


「おのれ上杉め……!この好機に遂に本性を剥き出しにしおったか!!」


 現在能登は前田家の領国になっているが、それ以前に能登を治めていたのは室町将軍家に連なる名門畠山家であった。だが戦国時代の荒波にもまれて弱体化し、織田を討つべく上洛を企図し越中を抑えた上杉家から圧力を受けるようになった。

 この時、連竜の父と兄であり畠山家の重臣であった続連・綱連親子は七尾城に籠城したが、共に籠城していた遊佐続光・温井景隆・三宅長盛らが上杉謙信に内応したため、七尾城は落城し、長一族は皆殺しの憂き目にあった。

 連竜はこの時兄の命を受けて織田に救援を求めに向かったものの、加賀の一向一揆に阻まれて七尾城まで行く事が出来なかったのである。ちなみに、この時七尾城落城を知り退却する織田軍を上杉軍が追撃して圧勝した戦いが手取川の戦いである。





 その後、謙信の急死もあって上杉は勢いを失い、長一族でただ一人生き残った連竜は復讐の念に突き動かされるように遊佐・温井・三宅らを攻め立てた。温井・三宅の両名は織田に通じたが、連竜は信長の再三の自重を求める要請を蹴飛ばして彼らを叩いた。

 そして、最終的に逐電した遊佐一族を連竜は皆殺しにし、温井・三宅も本能寺の変の直後に討ち取るに至った。謙信が死んでから本能寺の変までの信長と言えば、この世で逆らえる者などいないと言うほどに権勢が膨らんでおり、その信長に堂々と異を唱えたのだから、連竜と言う男が大変な男である事がよくわかる。

 そして当然の如く、連竜は彼らを寝返らせて長一族を滅亡の淵に追い込んだ上杉家を憎んでいる。




 さらに、現在の状況も最悪だった。淀殿が大坂城から放逐されてからと言うものの、池田・井伊軍が大敗、加藤嘉明寝返り、挙句の果てには征夷大将軍徳川秀忠が討たれるなど確立しかかっていたかに見えた徳川の天下が大きく揺らいでいた。

 このどさくさに、豊臣家に味方しようとする者が出て来ても全くおかしくなかった。ましてや上杉の場合、関ヶ原の戦いでは西軍方の中心勢力であった。この状況を好機ととらえ、再び徳川に牙を剥いても不思議はなかった。

 連竜の上杉家への憎しみ、上杉家そのものの徳川から離反する可能性、そして目前に突き付けられた毘の字の旗が徳川軍を攻撃していると言う現状、これらすべての要因が連竜にとんでもない言葉を吐かせた。


「上杉は寝返ったのだ!!上杉を討て!!」

「えっ……」

「討てと言っている!!」




 連竜は一瞬の逡巡さえも許さぬと言わんばかりに怒鳴り声を挙げ、自ら山から降りてくる毘の旗を掲げた軍勢に突っ込んだ。大将にそうされては、部下も従うしかない。今この時、四千の前田軍は事実上の機能不全に陥った。


「北から軍勢が来ます!」


 毘の旗を掲げた軍勢と接触しかかっていた連竜はその声を聞き北の方に視線を向けた。すると、竹に雀の旗を掲げた、五千を少し上回る軍勢がこちらに向かってくるのを目の当たりにする事ができた。


「やはり来たか…!!わしの思った通り上杉は徳川に頭を下げてなどいなかった!!ずっとこの機会を待っていたのだ!奴らを叩きのめせ!!」




 連竜はこの時、幸村の策略を悟った。家康に反感を持つ忠輝を通じ上杉に何らかの褒賞を約束させ、忠輝の手で上杉を家康への援軍として派遣させる。わざと開戦を遅らせて上杉軍の到着を待ち、家康への援軍と見せかけて自分たちを攻撃させる。

 そうして混乱に陥った所を又兵衛に抑え込ませ、自分たちは逃げ道を失った家康を悠々と叩く、それが幸村の策略なのだと。

 しかしその場合自分たちが今対峙しようとしている軍勢は何なのだと言う話になるが、今の連竜にはそんな事を考える冷静さは消し飛んでいた。いや、冷静であった所で「上杉に連なる牢人衆をかき集めたのだろう」で終いだっただろう。


「はっ……」


 残された徳川の兵士たちには、正直自分の意見はない。いや、あったとしても連竜の指揮に従う様にと言い含められていた彼らに、連竜に意見する事はできなかったであろう。

 徳川の将兵は従順であり、素直であり、愚直だった。だから、多少戸惑いを覚える者もいたにはいたが、その者たちもみな結局は他の兵士たちと同じように連竜の命に従った。


 この時、天王山から降りて来た毘の旗を掲げた軍勢は二千ほど。北からやって来る上杉軍は五千よりやや多い数。対して本陣に残っている徳川の軍勢は一万である。七千対一万と言う決して大差とは呼べない差で、しかも挟撃を受けるとなればかなり危ない。徳川の将兵は理屈で考えることなく、本能で北からやって来た上杉軍の迎撃に当たった。


「ちょっと待て! 我らは味方だぞ!」

「越後殿(松平忠輝)の命によりやって来たのだ!」

「うるさい! 騙されはせんぞ!」

「考えてみれば上杉は三成と並ぶ関ヶ原の戦犯! 大御所様も甘いのよ!!」


 北からやって来た上杉軍は必死に無実を訴えるが、徳川の将兵の耳目は完全に塞がれており、耳を貸すことなく北からやって来た上杉軍に立ち向かってくる。






 実は、北からやって来た上杉軍は本当に忠輝が派遣した援軍であり、天王山から降りて来た毘の旗を掲げた軍勢は明石全登の手勢だった。

 しかし上杉を完全に敵と思い込んでいる連竜が率いる軍勢に、その事実を理解せよという期待を抱くのは全く無理な相談だった。




 当然、この大混乱は頼宣にも伝わった。そして余りにも折悪しき事に、それは頼宣軍が又兵衛の手勢と交戦を開始した直後であった。


「何だと!? 上杉が寝返っただと!?」

「永井様は殺され、麓の軍勢は挟撃を受けている状態だそうで!」

「馬鹿なっ……!! 何がどうなっているのだ!!」


 頼宣は十二歳、才覚とか云々以前の問題として軍勢の指揮が取れる年齢ではない。ましてや一万三千などと言う大軍を動かすなど絶対無理である。連竜と直勝が頼宣の出陣を許したのはただ敵を受け止めあるいは押し返すだけだと言う単純な作戦であり、自分たちが後方を抑えておりかつ援軍が来るのだから問題はないだろうと言う判断であった。

 だが今や直勝は殺され、連竜の暴走のせいもあって援軍は敵軍となり、頼宣が安心して出撃できる状況などではなくなっていた。こうなった以上後藤軍には同数ほどの軍勢を当てて、残る手勢を後退させて事態の収拾を図るのが最良策であっただろうし、頼宣など無視してそれをすべきだっただろうが、それができるような将はここにはいなかった。


「こ……後方だ! 後方を抑えよ!!」

「そ、そうだ、後方へ回れ! 回るのだ!」


 頼宣は必死にそう叫んだが、却ってそれが物事をより悪い方向へ運んでしまった。本来ならばその声と共に後方にいた二、三千の固まりが整然と後退していくのだが、大将の頼宣がぎりぎりの所まで追い詰められており、その追い詰められた心理が馬廻り以下軍勢全体にも伝染してしまっていた。

 混乱と恐怖に駆られた頼宣軍は今現在の立ち位置など関係なく、本来その場に留まって後藤軍と戦うべき兵たちまでもが雪崩を打つように後方に下がり出した。無論、心ある兵たちはその場に留まって戦うように、あるいは整然と退却するように促したが、それもまた恐怖心を煽っただけであった。



「前面は崩れた! 追い掛けるように突っ込んで行くぞ!」


 当然、又兵衛はこの好機を見逃す将ではない。頼宣軍の崩壊を見るや一気呵成の攻撃に転じ、円明寺川を渡って敵本陣をも打ち砕かんばかりの勢いで兵を進めた。



 もっとも、徳川軍はやられっぱなしと言う軍勢ではない。理性を保っていた兵士たちはわずかに下がった所で踏み止まり、後藤軍の攻撃を凌ぎにかかった。と言っても、百や二百の固まりがいくつ連なった所で五千が相手では先が見えていた。

 全部が集まれば何とか後藤軍の勢いを押し止められそうだが、それができるのならばこんな軍勢の崩壊は起きていないだろう。結局の所、彼らの必死の抵抗も時間稼ぎぐらいにしかならなかった。



 それに、彼らの崇高なる犠牲を払って何とか本陣へと後退、いや敗走した頼宣の軍勢を待っているのは、それ以上の大混乱であった。











「ここまで簡単に歴戦の勇将、長連竜がはめられるとは……」


 本物の上杉軍の総大将・直江兼続は連竜が完全に真田の策にはまってしまっている事に馬上で嘆息していた。連竜が自分たち上杉に恨みを抱いている事は知っている。しかし、もう関ヶ原から十四年も経っているのだ。

 確かに今徳川の天下は揺らいでいるし、自分たちは徳川を倒そうとしていた。


 だがもう、兼続に徳川の天下を覆す気はなかった。期待があるとすれば、自分たちが勝利に貢献する事により、自分たちを派遣した忠輝が家康の後継者の座に就き、この活躍の恩に報いて自分たちの領国を加増してくれる事ぐらいだった。


 だが、連竜の恨みはそんな上杉の家老の心変わりや十四年の時間如きで消える生易しい物ではなかった。

 いや、奥底にしまわれてはいたが、徳川の連敗と幸村の策によって、連竜の心の奥底から掘り起こされた格好になってしまった。


 そして―――一度狂った歯車は狂いを修正することなく、更に徳川の天下を軋ませていく。


「待たれよ!これは真田の策」







 バーン


「なっ、何をやっている!」


 兼続が間近で聞こえた銃声の方を慌てて振り向くと、それが反撃の合図であるかのように、今まで徳川軍の一方的な攻撃に耐えていた上杉軍が一挙に徳川軍に対しての攻撃を開始した。

 兼続は必死に無実を訴え徳川軍を攻撃しないように兵たちを抑え込んでいたのだが、全く聞く耳を持たない連竜らの態度に兵士たちの我慢は限界に達しており、一発の銃声をきっかけについに堪忍袋の緒が切れてしまったのである。


「なんていう事だ…………」


 兼続がため息を吐く暇さえも与えられないまま、またもや同士討ちが起こってしまったのである。

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