第五章-3 山崎決戦

 慶長十九年十月二十三日、家康と幸村、ひいては徳川と豊臣の最終決戦の地である山崎の地を、冬の太陽が照らし始めた。




 太陽が尾根から顔を出したばかりの卯の刻(午前六時)、家康は決戦に備えるように既に目を覚ましていた。


「幸村はあと一刻でもすれば来るぞ!準備を整えておけ!」


 家康の言葉に従い、兵たちも次々と朝餉を取り、戦闘態勢を整えて行く。


「来い、幸村!父親として、そなたの首を秀忠の墓前に据えてやる!」






 家康にしては珍しく、わかりやすく感情を剥き出しながら叫んでいた。これは本音ではあるが同時に督戦のためでもあった。実際、天王山に控える一万の内大半は旧秀忠軍である。どこまでも、家康はしたたかな戦略家であった。そしてその家康の叫びにつられるが如く、兵たちは作業の速度を高めて行った。




 そして、辰の刻(午前八時)となった。準備は完璧であり、後は敵の来襲を待つだけである。


「もうそろそろこの天王山目指し、奴らは向かってくる!よいか、我らは凌げば勝ちなのだ!無理をせず守りに徹せよ!」


 前を見れば豊臣軍もまた態勢が整っていた。まもなく号砲と共にこの国の運命を左右する決戦が始まるのだ。兵たちに、いつもながらの緊張感が覆い被さっていた。










 だが――――前方の豊臣軍は動こうとしない。そしてそのまま睨み合いが続き、気が付けば巳の下刻(午前十一時)になっていた。


「おかしい……まだなのか」


 物見の報告で、あと一刻半もすれば忠輝軍からの援軍第一陣およそ八千が到着する事がわかっている。それに来られては不利になるだけではないか。


 自分たちの援軍ならともかく、敵の援軍が来るのを待ってから攻撃をかけるなど聞いた事がない。幸村が何を狙っているのか、家康にもよく分からなかった。










「なぜ父は仕掛けようとせぬのだ!」


 一方その頃、麓では頼宣が苛立ちを露わにしていた。


「天王山の我が方の兵力は敵の三分の一。それで仕掛けるのは無謀です」

「では、なぜ我らは動いてはならぬのだ!前面の敵は我らの五分の一だぞ!!」

「それは大御所様の」

「父が動かなければ我らは動けんのか!」

「まあ、そういうことになりまするが…………」


 頼宣の傍に侍る直勝にも、それしか言えなかった。家康は、あくまでも自分から仕掛ける気はなかったのだ。


「援軍はどうなのだ?」

「あと二刻ほどで」

「援軍が来次第、我らは仕掛けてもよいであろう!」

「いやそれは大御所様の」

「わかっている!だが父がそんな好機を逸すはずがない!」

「確かに。ですが」

「わかった、援軍が来るまでは待つ!」


 血気に逸っている頼宣を必死になだめた直勝であったが、直勝にも幸村が仕掛けて来ない理由がわからなかった。


(敵にも援軍があると言うのか……?)


 家康にわからない物が、直勝にわかる訳もなく、直勝も首を捻るばかりであった。







 そして更に半刻が過ぎ、遂に午の刻、文字通りの正午となったその時である。


 一発の火縄銃の音が天王山に鳴り響いた。そしてそれと同時に、今まで二刻もの間沈黙を保ち続けていた豊臣軍の先鋒部隊が遂に動き始めたのである。


「ようやく動いたか!よし、全力で迎撃に当たれ!!」


 家康の言葉と共に、今まで延々待たされていた兵士たちは豊臣軍に向かって鬱憤を晴らすように吠えかかった。


「この野郎! 散々じらせやがって!!」

「逃げるならばとっとと逃げればよかったのによ、腰抜けの豊臣軍が!!」


 豊臣軍も負けずに悪態を付き返す。


「よく言うよ! 秀忠を殺した俺らを目の前にして仕掛けて来なかった奴が!」

「二代目様があの世で泣いてるぜ、俺の手勢はこんな腰抜け揃いなのかとな!!」


 聞くに堪えない低俗な罵詈雑言だが、これが戦場の音声でもあった。







「よし、我らも仕掛けるぞ!」


 天王山での戦の始まりを知った頼宣も手勢に前進を命じた。前を見れば、又兵衛の手勢も自分たちを阻止せんとばかりに前進を開始している。


「後藤軍を打ち砕くのだ!!」


 永井直勝の言葉と共に、五千の徳川軍が前進を開始した。

 本陣は長連竜に任せている。後藤軍とほぼ同じ数だが、自分たちの方が強兵だと言う自負がある頼宣にとってはこれでも十分すぎたぐらいだった。


「敵は弱いぞ! 鉄砲さえ凌げばこっちの勝ちだ!」


 さすがに鉄砲隊の精度の高さには警戒を払っているものの、恐れていたのはそれだけであった。白兵戦に持ち込んだその瞬間、自分たちの勝ちだと言う気になっていた。実際、お互いの兵の質の差から考えれば間違いでもなかったのだが。

 やがて、永井軍は両軍の境目と言うべき円明寺川に足を突っ込んだ。一方、後藤軍は円明寺川の少し手前で前進を止めていた。


「ここが敵の狙いだ! ここを乗り切れば大丈夫だ!」


 半渡に乗ずる。兵法の常識の一つであり、やはりと言うべきか、ここで銃弾の雨が降り注いできた。さすがに数十名の兵が倒れたものの、防備がしっかりしていただけに損害は少なく、ひるむ事なく前進を続ける。


 そして大坂城で徳川に損害を与えた長尺の鉄砲に対抗するために、直勝軍は中軍にまで竹束を持たせていた。何としても鉄砲を封じ込め、白兵戦に持ち込んでしまおうと言う腹である。

 実際、中軍にまで届いた鉄砲玉もあったが、命を奪った物はひとつもなかった。




 だが、ここで思いも寄らない大きな音が鳴り響いた。


 鉄砲の音にしては大きすぎる。鉄砲の音は今もあちこちで鳴り響いており、鉄砲音との識別は容易であった。じゃあ何だこの音はと後方の兵が落ち着きをなくしていると、彼らの元に「答え」が届けられてきた。



「わわわっ!!」


 彼らに向かって、巨大な鉄球が降り注いできたのだ。まだ戦に加わるのはこれからだと思っていた後方の兵たちは、大きな鉄球に驚き肝を潰し、また実際に潰される者もいた。


「なんだと!?」


 当然、この異変はすぐ直勝にも伝わった。一瞬、どこに鉄球を撃つ大砲があるのだ、これは大坂城の意趣返しなのかと疑問が渦巻いたが、それより直勝にはまずすべきことがあった。


「やられたか……一旦下がれ!」


 この状況で白兵戦に入っても兵の心理的動揺が大きく勝てるかどうか難しい。こうなれば新手を持ってきてそれをぶつけた方がよい、直勝はそう判断したのである。後藤軍も元よりこちらの進軍を止める事が目的であるためか、追って来ようとはしなかった。


「後方までは警戒していなかった……チッ!」


 直勝は思わず舌打ちした。白兵戦では勝ち目のない豊臣軍は鉄砲で対抗しようとして来るであろうことはわかっていたが、だから先鋒だけでなく中軍にも竹束を携帯させて長尺の鉄砲に対する備えを完璧にしていたはずだったのに、更にその後方を狙われてしまったのだ。

 人的被害そのものは多くはなかったが、心理的動揺は結構あるだろう。


 実際、この衝突で生まれた死傷者は百人を少し超えたぐらいだが、これ以降麓の徳川軍の動きは明らかに鈍った。頼宣などは全軍突撃を主張したが、そうすると家康に援軍を送る、及び天王山を追われた際の家康の逃げ場を確保すると言う意図から外れてしまうと言う直勝と連竜の意見により、再攻撃の態勢を整える事となったのである。




 当然、この大筒の音は家康にも聞こえた。


「大筒の音が!」

「あわてるな! あの様子では天王山までは届かん! おそらくは麓の頼宣の足止めだ」


 さすがに家康は大筒の音の大きさから射程距離を読み切っていた。やはり幸村は当初の読み通り三万の兵で天王山の自分を討ちに行くつもりだ。だから、五千の兵でも頼宣を抑えられるように大筒を用意したのだろう。


「頼宣が麓に控えておるのだ!怯むには値せん!」


 豊臣軍はひた押しに攻撃をかけているが、それでも家康と兵士たちには安心感があった。麓には頼宣軍二万六千が控えている。こちらの苦境を察すればその頼宣が援護をしてくれるだろうし、本当に危ない時は麓に逃げ込めばよい。

 本音としては頼宣に豊臣軍の尻尾に喰らいついてもらいたかったものの、それでもまだ家康軍全体に楽観の気分があった。何より、豊臣軍の兵士が強くないのだ。連戦連勝の勢いはあったものの、逆に言えばそれだけが豊臣軍の頼りであり、兵一人一人の質は明らかに徳川軍に劣っていた。五対一とまでは行かないでも、三対一ぐらいの戦力差があった。

 さすがに連戦連勝の軍勢だけに士気は旺盛であったものの、徳川軍とは物が違った。頼りの鉄砲も、徳川軍のしっかりとした防備の前にあまり威力を発揮できていない。それに、何を思ったか幸村が攻撃をためらってくれたせいで、まもなく援軍が到着する。


「まもなく、この山崎の地は豊臣の栄光の地から徳川の栄光の地へと変わる! そなたらは今、その歴史の狭間に立っているのだ!」


 家康にしては珍しい大言壮語だが、無論これは督戦のためである。そしてそれが今自分がすべき役目である事も、この男はよく分かっていた。










 その頃、麓では頼宣が馬上の人となっていた。


「本当にお出になるのですか?」

「ああ、わし自ら後藤を抑える!」

「しかし大筒の弾は人を選んでくれませんぞ」

「構わぬ! 大筒なぞに怯んでいられるか!そなたは父の元へ向かえ!」


 必死に止めようとする直勝であったが、頼宣の決意は揺るがなかった。


「敵は所詮五千! こちらが一万三千の兵を持って行けば問題なかろう! そなたは三千の兵で父の元へ向かえ! 麓には長殿がいる、大丈夫だ!」

「なぜ私が大御所様の下へ」

「天王山の敵は三万だ! 回り込むだけの数がある! それを阻止せよ!」


 援軍が来るまで待つ、そう言えば先ほど頼宣はそう言っていた。もうすぐ援軍が来ると言う所まで来て遂に抑えきれなくなったのだろう。

 それに、考えてみれば頼宣の言う事もお説ごもっともだった。先程は大砲に怯まされただけだ、まともに一万三千の自軍で当たれば五千の豊臣軍など粉砕可能なはず。更に言えばそれだけの兵を動かしてもまだ一万の将兵が麓に残っているのだ。それに援軍が加わるとなれば麓は十分安全地帯だろう。


「わかりました!」


 頼宣の言う通りにしても麓の機能は失われないと考えた直勝は頼宣の言葉に頷いた。


「よし! では我らはこれより前進する! 敵は後藤又兵衛! そして父を脅かす真田らの後背!!」


 直勝の了解を得た頼宣は麓の陣を飛び出した。


「我らは天王山へ向かう! 回り込む敵を抑えるのだ!」


 そして直勝もまた、麓に長連竜を残し天王山へと急行した。


 この時、この頼宣の言葉は当たっていた。幸村は前方から木村軍と自分の軍勢を激しくぶつけながら、そのどさくさに紛れて一部の軍勢を回り込ませていた。

 更に言えば、この時家康軍は豊臣軍の攻撃を持て余しかかっていた。確かに攻撃そのものは弱かったが兵たちの士気は旺盛であり、攻撃が途切れる事がなかったのだ。

 鉄砲の弾も人的損害こそ多くないものの徳川軍の防備を確実に弱めており、死傷者が出始めていた。そういう点では、頼宣のこの決断は誠に時宜にかなったものだった。



「急げ急げ!」


 直勝は必死に声を出しながら駒を進めていたが、この時直勝は家康が押され気味であるとは思っていない。直勝も家康が負ける可能性などないと思っていたのだ。


 井伊直孝を討たれても、秀忠を討たれても、家康が負ける可能性などないと、直勝を含む徳川の将兵の自信は揺るがなかった。




 ところがここでそんな直勝の耳に、鉄砲の一斉射撃の音が入り込んで来た。


「なっ何!」

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