第五章 女子高生、徳川家康と戦う

第五章-1 老人たちの意地の張り合い

「……たわけめがっ!!」




 家康はそう叫ぶことしかできなかった。




 十月十四日、いったん大坂城の中に入った秀忠の首は豊臣家の使者により家康の元に届けられ、家康は我が子と無言の対面を果たした。



 秀忠の顔は歪んでいた。苦痛でと言うよりは、恐怖で歪んだのであろう事が家康にはすぐわかった。顔の歪みが直されていないのは、やらなかったのではなく、硬直がひどくてできなかったからであろう。


 いくら憎い相手でも、戦が終われば神仏であり、死に顔を整えるのが武士の作法と言う物だからだ。それができないと言う事は、秀忠が死の間際によほどの衝撃を受けたからだろう。


 にしても、一体何事があったのか、家康にはわからなかった。鉄砲で心の臓を撃ち抜かれたのが唯一最大の致命傷だと聞いたが、だとすれば不意討ちならば気付くより先に痛みが前に来るだろうから苦痛で歪んだ表情になるだろうし、追い詰められたのならばもう少し覚悟を決めた表情になっているだろう。



「誰にやられたのだ……そんなに驚くべき奴にか?」



 家康はそう考えるよりなかった。しかし、それは一体誰なのだろう?

 

 幸村自らが撃ったとしても、ここまでの衝撃は与えられまい。秀忠にとって、本当に全く想像できない人物が撃ったのだ。秀忠に思いも寄らない物を、現場にいない家康が思い付く訳がない。

 だが今そんな事を考えてもどうにもならぬ、今必要なのは豊臣に勝つ事である。家康は自分に対し必死にそう言い聞かせながら、秀忠の首を片付けさせた。


「こうなれば……総本山を打ちのめしてやるまでだ」


 家康は両目に怪しい光を輝かせ、側近に何かを命じていた。




※※※※※※※※※







「まさか、そなた自らが秀忠を討つとはな……」

「ですが戦いが終わった訳ではありませんから」


 その頃、秀忠殺しの下手人・浅川秀美は大坂城の大広間にて高台院と一対一で向かい合っていた。


「秀忠を討ったわけですが、秀頼君はどうなさっています?」

「それで形勢は我らに傾いているのかと。首を縦に振ったらそうか、で終わった」

「淀殿については」

「さあな……わらわを憚ってであろうが、何も言って来ん」




 秀美は高台院の言葉に頷きつつ、いささか落ち込んだ。


 秀頼は二十一歳、秀美の時代と比べて成熟の早いこの時代では、もう一人前どころではない年齢である。にも関わらず、秀美は秀頼の言葉を一度も聞いていない。


 実母である淀殿が大坂城から事実上放逐されたのに、その件に関しても何も言っていない。本来なら、秀頼自ら戦場に立ち、将兵を督戦するぐらいの事はすべきだと秀美は思っている。


 秀美にしてみれば自らの正室千姫の父、つまり義父である秀忠の死を聞いて秀頼がどう思っているのか知りたかったのだが、反応そのものがないに等しかったのだ。



 だが秀美はそれも仕方ないと思っている。淀殿を自らの手で放逐してから、秀美は千姫の付き人の大半を秘かに真田忍びの監視下に置かせ、家康に情報が届かないようにしていた。その結果家康に大坂城内部の情報はほとんど入らなかったが、秀頼に入る情報も少なくなっていた。そして秀頼に入る情報は、全て高台院を通すようになっていた。


 極めて大雑把に言えば、淀殿放逐後秀頼に入った情報は「池田軍・井伊軍に大勝」「福島正則参陣」「家康蜂起」そして此度の「秀忠討ち死に」の四つだけである。



「まあこんな調子では情報を統制したくもなりますが……」




 秀美は懐から一枚の書状を取り出し、高台院に見せた。


「その書状は」

「左衛門佐様を通じて私が入手しました」

「何じゃその文字は」

「私は読めなかったので左衛門佐様の配下の方に読んでいただきまして、それを私の使っている文法で訳した物です」


 筆で細かい字を書くのは難しい事を、秀美は今更思い知った。一応筆記用具はあったがメモ帳で大事な文書を書いて見せてもしょうがない。

 結局この時代の紙に書くのには、筆が一番有効だった。




「高台院は真田幸村、長宗我部盛親、明石全登ら罪人の力を借り、豊臣家の正統なる後継者である秀頼とその生母たる我を侮辱している。この高台院の暴挙をまかり通らせる気がないのであれば、今からでも遅くはない、我に味方せよ。   淀」




 高台院が主犯とは、言うに事欠くなどという次元ではない。


 まだ幸村の方が主犯に近く、真の主犯は秀美である。

 しかも、その書状には幸村、盛親、全登の三人の名前しかなく、福島正則や毛利秀就、後藤又兵衛の名が書かれていない。彼らを当てにして書いたのであろうが、それと同時に「罪人」と言う言葉に当てはめ高台院を貶めるために必死な意図があからさまに見えていた。


 自分を名指しするのならばまだともかく、自分が無理矢理に引き込んだ高台院を主犯呼ばわりした淀殿を、秀美はこの時完全に見限った。もちろん、淀殿とて秀美と言う人物の存在を世間に納得させる難しさをわかってはいるし、秀美もその点は何となくわかってはいるのだが。


「おっといけません、本題を忘れていました」

「本題?」

「家康はきっと……」


 秀美は大事な事を忘れていたと言わんばかりに、腰を上げて高台院に向かって何かを話し始めた。


「なんと……」

「そこで高台院様にお願いしたいのです」

「わかった……わらわで役に立つのであればそういたそう」

「お願いいたします」


 秀美は高台院の力強い返事に、安堵と不安を覚えながら去って行った。


(本来なら、それって秀頼さんの仕事なんだけどなー……)


 正直、秀美は秀頼の素質を疑い始めていた。いくらこちらが情報を統制していると言えど、家康蜂起の話は伝わっているのならばもう少し前に出て来て欲しかった。


(このまま勝っちゃったらどうなるかな……)


 秀美はふと考えた。ここで家康まで討てば徳川家は間違いなく天下を手放さざるを得なくなるだろう。だが、秀頼にその後の天下を受け継げるのだろうか。

 今までは勝つ事だけに神経を集中させて来たから気にしていなかったが、秀忠を討ってから秀美の頭の中にはその疑問が渦巻いていた。それは余裕が出て来たからなのだが、秀美はそれに気が付いていない。




(逃げちゃダメだってことはわかってるけどね……)


 征夷大将軍を殺した時点でその問題を背負うことになった。わかりきっていたし自覚していた事だが、いざ面前に突き付けられてみると、十六歳の女子高生には途方もない難題だった。秀美はこの時、自分の時代・この時代を問わず政治家と言う人間の偉大さを痛感せざるを得なくなった。


 そしてその日、秀美は寝食共に取ろうとはしなかった。


「今は話しかけないでください」


 心配して声をかけようとした幸村や佐助にも、秀美はこう返しただけであった。




 ※※※※※※※※※




 翌十五日、当然と言えば当然だが秀忠の喪にも服さず家康は戦を仕掛けて来た。


「真田め、戦など本丸を取れば仕舞いだと言う事を忘れた訳でもあるまい……」


 家康は不気味に目を光らせ、采配を振って兵を前進させるとともに、後ろをちらりと振り向いた。


「準備は整っているな……よし、狙いは大坂城本丸!放てっ!」


 地をも震わせんばかりの音が鳴り響き、それと同時に黒い鉄の塊が六つ、大坂城に向けて飛んで行った。


「フン、人間ならばともかくこれには対処しようがあるまい」


 もちろん、一発や二発で大坂城を破壊したり秀頼や高台院を殺せたりするわけはない。だがこれを四六時中続ければ、豊臣軍の将兵の心を打ち砕く事ができる。

 あるいは、秀頼や高台院自身を恐怖に溺れさせ、譲歩の方向に持って行かせることもできよう。さすがに秀忠を失ったこの状況でそう簡単にそこまでは持って行けないだろうが、長引けば忠輝の軍勢もやって来るだろうし、長引かせて戦えるだけの物資も徳川軍にはあった。


「秀忠を討ち取られた帳尻ぐらいは合わせんとわしも引き下がれんからな……」


 家康の顔には息子を失った落胆の色も、七十二と言う年齢に相応の枯淡の色もなかった。あったのは、桶狭間から数えれば五十年以上戦場で過ごしてきた男にふさわしい、戦歴相応に刻まれた年輪だけであった。




※※※※※※※※※




 一方家康からの砲弾を受けた大坂城では、三ヶ月前秀美が立てたそれとほぼ同じ音が鳴り響いていた。


「な、何を……」


 高台院は右手を胸のあたりに置き、一人の女官を見下ろしていた。一方その女官は右頬を抑え、半泣きの表情で高台院の方を見ていた。


「これしきでひるむでない!!」

「しかし……」

「前線の将兵たちはこれと同じ、いやこれ以上の苦しみを味わっておるのだ!それに比べれば我らはこんな当てずっぽうの攻撃しか受けておらん!」

「ど、どうせよと……」

「秀忠を討たれて家康は焦っておる! 秀頼に累が及ぶことなど絶対にない、もう少し耐えれば家康は退却の一手に追い込まれる、そう皆に伝えて来い!」

「は、はい……」

「声が小さい!!」

「はいっ!」


 女官が慌て気味に走り去って行くのを見届けると、高台院は女官の頬を打った自分の右手を見つめた。


「秀美……そなたには掌の中の事のように見えておったのか?」


 高台院は、家康がいずれ大筒で攻撃をかけてくる、狙いは秀頼や高台院、他の女官たちの心を揺るがす事にあるから、女官たちに対し決して怯んだりしないように督戦をしてもらいたいと秀美から言われていたのである。

 無論、この予測は秀美が史実から判断してその可能性が高いと考えただけであるが、秀美が未来から来た人間である事を知っている高台院はその他の人間からすれば当てずっぽうに聞こえる秀美の言葉を信じた。


 いや、例え未来から来た事を知らなくとも今の高台院は秀美の言葉を入れただろう。




 高台院は六十六歳である。当時からすれば完全な媼だが、二十一世紀に生きる秀美にしてみればまだ何とか現役が務まる年齢であった。だからこそ、秀美は高台院の年齢を気にする事なく堂々と高台院の元を訪れ、秀吉の正室たる高台院の威光を頼りに来られた。

 そして、その秀美は豊臣家を守らんと八面六臂の活躍をしている。自分も秀美の頑張りに応えなければ天下人の正室として合わせる顔がないとばかりに高台院は秀美の言葉を入れ、若い時人を斬る事を厭い戦に積極的でなかった夫の尻を叩く様に、大坂城の主として豊臣家に連なる者の尻を叩き始めたのである。




 ※※※※※※※※※




 それから三日後。


 七十二歳の家康と六十六歳の高台院が冬の大坂で意地の張り合いを繰り広げる中、一つの七十六歳の命が散ろうとしていた。


「大御所様を……」

「弥八郎……!」


 骨と皮ばかりになった手でその七十六歳の男、本多正信は家康を呼んだ。


 一時家康の元を離れ、その後家康の元に戻って来てから四十年余り、家康と共に今日の徳川の栄光を築き上げてきた一人の男が、今まさに生涯を終えようとしていた。

 家康は、その終生の友の顔に困惑を隠せなかった。ほんの十日前までまだ元気そうであったその顔に、はっきりと死の影が覆っていた。

 本来なら正信はあと一年半生きられたのだが、秀忠の死を初めとする様々な心労が彼の寿命を削っていた。


「すまん……おぬしが生きている間に徳川の天下を定められず……」

「いいえ……私こそ…………」

「もういい、何も話すな」


 正信は横になりながら震える腕で何かをつかんでいた。


「我が遺言にございます……上様討死の際より書きとめし……」

「わかったもうよい、休め」


 家康は眼を潤ませながら、いや眼を潤ませていた液体を正信に落としながら、正信の右手から書状を奪い取った。


「大御所様……戦乱を……葬っ……て、下さい…………」


 そこまで言ったきり、正信は二度と眼を開けなかった。


「弥八郎……!!」


 家康は、たった今亡骸になった正信に縋り付いて泣き崩れた。











「どういう事ですか!?」


 涙を涸らすほどに泣き終わり、落ち着きを取り戻して再び床几に座った家康の目前で正純は口をあんぐりと開けていた。


「弥八郎の遺言だ」

「父が……」


 正純も、父の寿命が尽きかかっていた事はわかっていた。だから父の死を聞かされて驚いていた訳ではない。


「なぜ忠純に小山を……」


 忠純は正信の三男であり、下野榎本で一万石の知行を取っていた。

 そして正純は、下野小山にて三万三千石の知行を取っていた。


「佐州いわく、正純の知行を召し上げ忠純に与えよとの事だ」

「ですからその理由をおうかがいしたいのですが」

「では上野介、秀忠はなぜ死んだと思う?」

「真田に奇襲を受けて」

「確かにあの時秀忠の軍は未曾有の大混乱の中にあった。しかしもしわしの所に逃げて来ていたらどうだったと思う?」

「はあ……」

「おそらく家次のように命は助かっただろう。生きておればいくらでもやり直しは利く。何せわしがそうなのだからな」

「それで……」

「弥八郎はこう申しておる。おそらく正純が秀忠を煽るような事を申し述べたのであろう。征夷大将軍の見栄と、上田で受けた恥辱と、そして正純の言葉が重なった結果、わしを頼ろうとせず、わしのいる東に逃げなかったのであろうと」

「……」

「つまり、弥八郎はお前が秀忠の死の原因だと見なした訳だ!」

「ええっ」


 ようやく理由を悟ったと言う顔になった正純に、家康は内心溜め息をついていた。


「……今の今まで悟らなかったなど、情けないにも程があるわ……下がれ、そなたの身柄は江戸に戻し忠純に預ける。宮内大輔と共に江戸へ帰れ。あと、玉縄はこれも弥八郎の遺言だが相州に与える事とした」


 正純は真っ青になった。宮内大輔こと酒井家次は秀忠軍の生き残りであり、自分の事をよく思っているはずがない。ましてや相州こと大久保忠隣が、正信はともかく自分をよく思っているわけがない。

 一方で忠純は短気で粗暴と言われているがそれゆえかそれほど徳川の武断派とは折り合いが悪くなく、そちらの気を引くために自分を冷遇して来る可能性が高い。

 忠隣と家次が江戸の中心に立てば、正純に待っているのは針のむしろの暮らしだけである。


「……もう何も申す事はない、下がれ」


 正純は悄然とした表情で肩を落としながら家康の天幕を後にした。







「……あの調子では大坂城を抜くのは無理か」


 正純の背中が消えたのを確認した家康は大坂城の方に目線を移した。もう大筒攻撃を始めてから三日も経つと言うのに、大坂城の士気は落ちるどころか上がる一方であり、死者もいるにはいるが両手で足りるぐらいであると言う。

 逃げようとする者、怯む者は女官・小者など身分を問わず高台院の叱責・打擲を受けており、彼らにとってみれば砲弾などより高台院の方がずっと恐ろしく、逆らえない存在になっていた。その高台院が徹底抗戦を主張しているのであるから、砲撃の効果は推して知るべしであった。


「だがこのまま引けばこちらの一方的な敗戦か……」


 しかし、そこまでつぶやいた所で突如家康の顔に赤みが差し、何かを思い付いたと言う表情に変わった。


「真田を討てば徳川の面目は保てるか」


 征夷大将軍の秀忠と総大将とは言え元々はただの牢人である幸村では重みの差は致し方ないものの、幸村さえ討てば大坂の敵が繰り出す策は自然限られて来よう。大坂に幸村以上の才人はいない。

 福島正則は指揮官としては勇猛で優秀だが、奇策を繰り出せる知能はない。







「幸村を討つのだ……!」


 家康はやおら立ち上がり、兵たちに何かを言い始めた。家康の言葉を聞いた兵たちから驚きや批判の声が上がったものの、家康は全く耳を貸そうとしなかった。


「我らの勝ちで決着をつけるには他に方法はない……!!」


 家康の声には、急に十や二十も若返ったような迫力があった。いや、古くからの者が聞けば姉川や三方ヶ原、長篠の頃の様な血気を感じただろう。それほどまでに、家康は興奮し、血の気をたぎらせていた。




 そして翌十九日、前田利常軍三万を先行させ、それに続く形で家康は秀忠軍残党を加えた本隊、三万二千と共に大坂城から後退を始めたのである。

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