第四章-5 女子高生、征夷大将軍を殺す

「これではもうどうあがいても無理だ、北へ逃げるぞ!」

「東ではないのですか」

「北だ、北だ!」


 秀忠はその決断を下さざるを得なかった。


 だが、東へ逃げる準備を整えようとする兵たちに対し秀忠は軽く北へと手を振った。西と南は論外としても、東は父家康の本陣である。大混乱が巻き起こっている北側よりどう考えても安全だ。


「こんな有様で父にどんな顔をして会えばいいのだ……」

「しかし……」

「すまん、頼む、どうか頼む!」

「わかり申した!」


 秀忠の涙目になった顔に、旗本たちも思わずほだされてしまった。



 この時、秀忠の周りにいた兵はおよそ二千。分裂した塊としては大きい方であったが、当初の兵力から比べると二十五分の一である。


「真田め……覚えておれ!必ずやこの屈辱を晴らしてやる…!!




 この時、秀忠の頭に正純の言葉が浮かんでいた。



「では、上様が大御所様に真田幸村の首級を持ってくる日を父共々楽しみに待たせていただきます」



 秀忠が北への逃走を決意したのは家康に対する体面だけではない。

 自分だけでなく家康をも弄んだ真田を、何としても自分の手で討ちたいと言う強い願望があったのだ。だから秀忠は家康の方へ逃げようとしなかった。

 ここを何とか逃げ切れば、散った兵も集まってくる。そうすればまだ真田と戦える兵力になるはずだ。独力で真田を倒す、それだけが今の秀忠を駆り立てていた。


(彦左衛門……!おぬしならこんな余でも支えてくれるだろう……生きていたらまた会おう)


 こんな時、傍らにいてくれたら誰よりもありがたいであろう男の名を、秀忠は思い返さずにいられなかった。例えここで死なずともボロボロになる事が確実な自分に、何があっても付いて行ってくれるであろう男の事を。


 迷っていた自分の背中を押してくれたのは彦左衛門なのだから。彦左衛門の言う通り、父には頼らずに真田を倒そうという思いだけが、今の秀忠を駆り立てていた。




 しかし昨日、彦左衛門がそのような事を言ったのはそんな理由ではない。


 彦左衛門にしてみれば、本多正純に対する憎悪を間接的に秀忠にぶつけただけなのである。

 そして、その憎悪は正純が大久保家を陥れた事から発しているのではない。

 あれだけ武士の誇りを汚すような言葉を吐いたのに反感の欠片も見せない、能面のような表情を崩さなかった正純の態度が単に腹に据えかねただけなのである。


 だから、彦左衛門は秀忠に正純のように柔弱な、あるいは機械的な振る舞いをして欲しくなかったのである。今彦左衛門が秀忠の隣にいれば、さすがに東へ逃げるように言って来ただろう。こうなった以上、彦左衛門とて体面より主の命を優先すべき事ぐらいはわかるのだから。

 だが今秀忠の傍らに彦左衛門はおらず、そして今の秀忠にそこまで考える頭はなかった。










 事実、北へ逃げた秀忠は整然と動いたために敵軍と間違われて攻撃を受けていた。


 さらに、自分が逃げた事を知れば兵たちが追従してくれるだろうと思って秀忠はあえて大将である事を隠さずに逃げたが、兵が付いて来ない。

 兵たちは自分の身を守るだけで精一杯であり、その上秀忠の判断が理解できない兵も少なくなかったのである。

 東の方がどう考えても安全なのに、どうして北に逃げなければならないのか。本来ならばそれでもついていくのが徳川軍なのだが、大混乱の最中でそれを期待するのは無茶だった。

 秀忠の行動は名誉や意地を重んじていたと言うより、頑迷で不可解に思われていたのである。そして、大将が逃げた事を知った兵たちは一斉に壊乱を始めた。







「もはやこれまでだ!!」

「誰か助けてくれぇーっ!」


 ここぞとばかりに、嘉明は太鼓を鳴らさせ、秀忠軍に追い討ちをかけた。徳川軍一人に大坂方は五人は注ぎ込まなければ無理だと思われていたのに、大坂方一人に秀忠軍五人がおびえ、後ろを顧みる事なく逃げて行く。

 その間にも同士討ちは止まず、さらに逃げ場を完全に失って大坂城の堀に飛び込む兵まで現れ出した。










 秀忠はそんな後方を顧みることなく、ただただ北に向かって逃げるのみであった。

 二千だった手勢は五百になっていたが、それにすら気が付いていない。


「早く逃げねば……今は日だけが頼みだ」


 夜が明けて自分の健在がわかれば、多くの兵が集まって来てくれるだろう。そうなればまだ再起は可能のはずだと秀忠は考えていたがこの時はまだ十一日になったばかりであり、この冬の時期では卯の刻(午前六時)まで日は登りそうにない。


「福島砦へ逃げるのだ……」


 秀忠は本陣としていた福島砦へ逃げ込むべく馬を走らせていた。その表情に余裕はない。もはや秀忠に天下人の威容はなく、あるのはただの三十五歳の男の引きつった顔だけであった。


 だが、福島砦を目前にした秀忠の耳に、絶望を告げる一斉射撃の音が鳴り響いた。

 その上実際に火箭が一本飛び出し、物見の兵の頭を打ち抜いたのを兵たちが目の当たりにしたのだからたまったものではない。


 秀忠の悲痛な声と共に、秀忠軍の兵士たちがさらに散って行く。



「真田め……ここも抑えていたのか!!」

「しかし」

「しかしとか言っている暇などないわ!」



 もうどこにも逃げ場がない、その恐怖が闇により増幅し、最後の望みであった福島砦が抑えられていた事が兵たちの心を木っ端微塵に砕いていた。

 一人だけどこかその一斉射撃の音に不自然な物を感じた人間もいたが、その疑問に耳を貸す事なく秀忠は必死に逃げ、小山を発見した。



「ここだ……ここならば……」



 もう真田は来るまい。何とか逃げ切ったと安堵した秀忠であったが、ようやく後ろを振り返って呆然とした。二千はいたはずの兵が百名いるかいないかまで減少しており、しかも無傷の兵となると両手で数えられそうなぐらいしか残っていなかった。


「そなたらにはどれだけ礼を言うても足らぬ……すまぬ、すまぬ」


 秀忠は残った兵たちと共に小山に逃げながら憑りつかれた様に礼を言っていた。この者たちはこんな自分を見捨てずついて来てくれたのだ。彼らを大事にしなければならない、秀忠はただそれだけを考えていた。


 そして四半刻後、ようやく秀忠と百人の兵たちの逃避行は止まった。


「上様はお休みくださいませ、我らが楯となりますゆえ」


 その言葉に、秀忠はようやく顔から強張りを消し、木にもたれかかった。ようやく人心地がついたと言う表情で秀忠は眼を閉じかかった。



 しかし、そこに鳴り響いた一発の銃声が秀忠を現実に引き戻した。


「何だ!?」

「銃声です! ですが、火箭は見えません!」


 兵たちは銃声に反応しながらもそう答えたが、秀忠は銃声の大きさに違和感を抱かずにいられなかった。


「こんな大きな銃声なのになぜ火箭がない!? 相当近いところで撃たれているはずなのになぜ火薬の臭いもしない!?」

「さあ……」


 そう怒鳴った秀忠であったが、自分でもどうなっているのかわからない。

 そこにまた銃声が飛んで来た。しかも更に近い。


 そして、秀忠の真後ろから聞こえて来ている。


「誰か調べろ!」


 だがまた火箭は見えないし火薬の臭いもない。一体どうなっているのだ、真相を確かめるべく十名ほどの兵が秀忠の元を離れたその時、三度、銃声が秀忠たちの耳をつんざいた。その銃声は今までとは逆の方向からであり、数も多い。







 そして最大の違いは、それが本物であることだった。







「うわわっ!」

「ぎゃあっ!!」


 闇夜に鉄砲とは言うものの、流石に百丁近い銃から放たれた銃弾は数発であるが命中し、秀忠軍の命を奪った。


「どういうことだっ!」


 秀忠の短い叫び声を上げている間に、松明がじわりと迫ってくる。松明に照らされた六文銭の旗が、秀忠の兵たちに絶望の二文字を刻み込んでいた。


「こうなれば最後の決戦だ!!」


 秀忠は気力を振り絞って叫んだ。さすがに、残っていた兵たちは逃げる事なく真田軍に立ち向かい、秀忠も刀を抜いた。

 だが、この真田軍の旗の下に集っていた部隊は五百。


 圧倒的な数の前に、秀忠軍は一人また一人と命を散らした。


 それでもひるむ事なく真田軍に立ち向かい二人の兵を斬り倒した秀忠であったが、複数の松明に照らされた一人の人物が視界に入るや、一瞬動きを止めてしまった。










「まさかっ……!?」





 そして、その人物は今だとばかりに手にしていた火縄銃の引き鉄を引いた。




「があっ……!」




 その人物が放った銃弾は、秀忠の心の臓を狙ったかのように討ち抜いた。秀忠は口から血を吐きながら、前のめりに崩れ落ちた。




「そんな……まさ…………か…………」


 江戸幕府二代目征夷大将軍徳川秀忠はその六文字を最後に、この世に別れを告げた。主君の死を目の当たりにした秀忠軍の兵士たちは、一人残らず主君の後を追うように自刎した。

















「歴史は……変わったのね……」




 その人物、浅川秀美は火縄銃を抱えながら秀忠を見下ろしていた。

 本来ならば、二代目将軍として家康の後を立派に相続し、江戸幕府の基礎を作り上げていくはずの徳川秀忠。その秀忠を、たった今一人の女子高生が殺したのだ。


 彦根藩主に過ぎない井伊直孝はまだともかく、秀忠がいなくなった後のこの先の歴史は秀美にもまるで見当がつかない。


「それにしても、すまほとはすごい代物ですなあ」

「運が良かっただけです」


 そんな秀美の目の前に、喜色満面と言った様子の佐助が姿を現した。




 秀美は素っ気なく言ったが、実際自分の幸運に感謝せざるを得なかった。

 戦国時代マニアの秀美のスマホには、火縄銃の音や一斉射撃の音が偶然ダウンロードされていたのだ。


 秀忠軍と家次軍の間で鳴り響き同士討ちを誘発した銃声、福島砦から鳴り響き秀忠を福島砦から追い払った銃声、そして秀忠軍にとどめを刺すべく残った兵を引き付けた銃声、それらは全て佐助がスマホで鳴らしていた音声だったのである。


「……祈りましょう」


 秀美が佐助からスマホを借り受け電源を落とし、そして佐助以下真田の者たちと共に秀忠の遺体に向けて手を合わせた。













 この夜通し行われた戦いの結果、秀忠軍五万の内二万が討死、五千余りが行方不明となり、残った兵の内無傷だったのはほぼ一万だった。


 酒井忠世は討ち死にし、土井利勝は混乱の最中で誤って堀に転落して溺死し、大久保彦左衛門は秀忠の死を知って自害した。酒井家次も命は取り留めたものの、かなりの重傷を負ってしまった。


 他にも大野治胤と彼の率いていた部隊もほぼ全滅し、他の箇所も含めると徳川軍は二万四千の死者と二万の負傷者をわずか一晩で出してしまった。

 その一方で大坂方も秀忠から目を逸らす為に強引な戦を続けていたため、塙団右衛門、石川康勝、仙石秀範らを失い、一晩で二千五百の死者と六千の負傷者を出した。










 もう、逃げ道などどこにもない。いや、自らなくした。何が何でも私は勝つ。それしかない。その後どうなるかはわからないけど、今はただ勝つ事だけを考えるしかない。秀美は、首だけになり三宝に乗せられた秀忠を見据えながら、そんなセリフを自分の心の中で連呼していた。


「秀忠さん……驚いた?あなたに恨みはないけれど、私は、家康を討たなきゃならない。それしか、今の私にできる事はないから」


 秀美は秀忠の事を別に嫌ってはいなかった。だが、それ以上に幸村を勝たせたかった。だから、あえて自分の姿を見せつけ、ひるませて一瞬の隙を作らせた。

 まさか女が……まさか女に……おそらく秀忠はそう言いたかったのだろう。女に討たれる、征夷大将軍の最期としては余りにも不本意にして不名誉な最期であろう。

 それが本人だけに留まらない、御家として耐え難い屈辱である事は秀美も重々わかっている。それでも、この女子高生はこのやり方を選んだ。


「家康……あなたはどう思う?あなたは、寵臣と息子を殺した相手と出会った時、それがこんな小娘だと知った時……あなたはどうする?」


 秀美は誰に言い聞かせるでもなく、そんな独り言をつぶやいていた。

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