第四章-2 本多正純と大久保彦左衛門
「炊煙だと?」
「はい、ずいぶんと派手に上がっております」
十日、大坂城北門付近に着陣した秀忠は思わぬ報告を受けた。
「変だな……討って出ようと言うのか?」
籠城している分には派手な炊煙を上げる必要などない。がっちり守ってさえいれば三食その都度城から供給される、だから一食分の炊煙しか上げる必要はないはずだ。
ところが、あの炊煙の量を見ると三食分は炊いているように見えた。
「宮内大輔、どう考える?」
秀忠は宮内大輔こと酒井家次に尋ねた。家次は徳川四天王の一人であった忠次の息子で家康の従兄弟に当たり、五十歳と言う年齢からしてもこの時秀忠軍で最も頼りになる人物であった。
「敵は焦っているのではないでしょうか」
「焦っている?」
「確かに大坂方は連勝中ですが、それは今までの話。
池田や井伊との戦いは多数で少数を策にかけた結果、大坂での初戦は伊予侍従(加藤嘉明)の寝返りを誘発した策のおかげ。
ですが今度は我らの到着で少なかった数の差は大きくなりもはやこのまま籠城していても先はないと見たのでしょう。ならば今の勢いにかこつけて何とかするよりないと」
「それはさすがに楽観的ではないでしょうか」
「真田は我らの及びもつかない手を打って参ります。宮内大輔殿もよくご存じのはず」
「そうですぞ。上田の事を忘れてはおりますまい」
その家次の言葉に秀忠が頷いた所で待ったをかけた人物がいた。土井利勝だ。 利勝に同調するように異を唱えたのは酒井忠世である。この三人と秀忠は関ヶ原の戦いに臨むにあたって中山道より関ヶ原に向かおうとした際、上田城で真田昌幸にかき回されて関ヶ原にたどりつく事ができなかったのである。
「ではどうすべきだと言うのだ」
「真田の事です。大御所様の正面であった東門より我らが来るまで一兵もいなかった北門に移ったのは必ずや我らが北門を抑えると見越しての判断。とすれば何か陥穽があると考えるべきでは。例えば伏兵とか」
忠世の言葉に家次はむっとすると言うより少し失望した。確かにその可能性はあったが、我らの及びもつかないと言った利勝の言葉に同調しておきながら伏兵と言う余りにも平凡な策を出してくるとは、と言う気分にさせられたのである。
「だとすればどうすればよいのだ?」
「宮内大輔殿に一万の兵を率いて後方を警戒してもらえればよいかと」
「真田は伊予侍従と共に三万の兵で構えている。一万を警戒に回すとなると四万だが、それではどうにも不安が残るぞ」
「四万でも城方より多い事には変わりません」
「敵は勢いに乗っている。その勢いに任せて一気に打って出て来たら面倒だぞ!」
「宮内大輔殿は敵兵を恐れすぎです! 徳川軍は最強の軍勢です!」
「拙者は宮内大輔殿の意見に賛成です」
家次と利勝と忠世による白熱の議論が行われる中、大久保彦左衛門が口を挟んで来た。
「彦左衛門殿が宮内大輔殿に賛成とは意外ですな」
「どういう意味ですか」
「いえ、勇猛振りの名高い彦左衛門殿が真田を恐れているとは思い難かったもので」
「失礼な! 拙者は真田など恐れてはおらん! 単に、真田がまた小手先で徳川を弄ぶと言うのならば、それを打ち砕いてやろうと考えているまで!」
利勝と忠世の嫌味にも思える物言いに、彦左衛門は声を荒げて反発した。
「皆落ち着け! どちらの意見も正直もっともだ。少し時間をくれないか」
秀忠は四者の議論を抑え込むように床几に手を叩き付けた。さすがに、征夷大将軍のこの態度に四者ともおとなしく秀忠の本陣を離れた。
(確かに私ならば今の余勢を駆って攻めにかかるだろう、だが敵は真田だ。何をするかわからない。だが大軍に戦術なしとも言う)
いくら真田と言えども此度は三万、いや大坂城全体の十万の兵を率いる立場である。二度にわたって上田城で徳川を翻弄した際には真田の手勢は千から二千だった。
それに今回の場合、一人一人の兵士の質がその時に比べ全く劣る。真田の真田たる兵法を教え込まれた精鋭でなく、大半が寄せ集めの牢人か新兵である。彼らが幸村の精巧な策を遂行できるほどの精鋭かと言うと大いに疑問である。
だがそれは幸村とてわかっているし、また自分たちがその事に気付いている事もわかっているであろうだけに、またそれを利用して何かを仕掛けてくるのではと言う疑いがあるのだ。要するに、秀忠の思案は完全な手詰まりに陥ってしまったのである。
(やはりここは父上の力を借りねばならんか……)
ここでまた父の力を借りるのは情けないが、どうにもそれ以外思い付かない。家康のいる東門は三万対一万六千、しかも敵将は幸村より格が一枚落ちる明石全登であり、家康には援軍を回す余裕はあるはずだ。
「何しに来たのだ!!」
「な、何事だ!」
結局それしかないか、と秀忠が思った所で野太い罵声が天幕に響いて来た。塞ぎ込んでいた秀忠は思わず驚きの声を上げてしまった。
秀忠が慌てて立ち上がり天幕を開けると、声の主である彦左衛門がものすごい形相で使者と思しき男の胸倉をつかんでいた。
「これは上様」
「上野介……」
胸倉を掴まれているにもかかわらずその男・本多上野介正純は平然と秀忠に挨拶をしたが、その結果彦左衛門はなおさら腕の力を強めた。
「貴様は……」
「落ち着け彦左衛門! 上野介、父上から何らかの用命を受けて来たのであろう? 要件とは何だ?」
「こちらの書状を」
彦左衛門に両手で吊し上げられながらも、正純は平然と懐に手を突っ込み書状を取り出した。
「何々……おや、これは彦左衛門、お前宛ではないか」
「それでは某はこれにて」
「待てこら!」
意外だと言う表情になった彦左衛門は正純を地に放り出しその書状に目を通そうとしたが、地面に放り出された正純が、袴の泥を払ってゆっくりと立ち上がり、秀忠に頭を下げて整然と去って行こうとするのを見るや、彦左衛門の怒りが再び爆発した。
「何か」
「貴様はそれでも武士か!」
「まあそうですが」
彦左衛門が先程以上の音量で正純に向けて怒鳴りかかっても、正純は相変わらずの調子であった。
「貴様には金玉が付いておらぬのか!?」
「まさか。ならばなぜ私が二人の子の父親になれるのですか?」
「そういう事を言っているのではない!!」
彦左衛門の凄まじい怒鳴り声に、何だ何だとばかりに人が集まって来たが、秀忠は手を振って家次・利勝・忠世以外の三名を追い払った。
「あ、御三方! 拙者はこの上野介があまりに腑抜けなので腹を立てていただけです」
「ところで、私のお役目は既に終わっておりますか? それならばお暇させていただきたいのですが」
「勝手にしろ! この天下一の腰抜け男!」
「では、上様が大御所様に真田幸村の首級を持ってくる日を父共々楽しみに待たせていただきます」
最後まで彦左衛門の怒りの刃を無視しながら、正純は秀忠の天幕を去った。後には憤懣やる方ないと言った表情の彦左衛門と、訳も分からず呆然とする三人、更に深い憂いを顔に浮かべた秀忠が残された。
「どこまでもあの男は!!」
五人は再び秀忠の本陣に集まった。
「まあまあ…それでその、彦左衛門殿宛の書状とは」
「これだ」
秀忠は正純から受け取った書状を開いた。
「大久保彦左衛門殿に申し上げる。
此度の処置は全て徳川の支配を確立するためであり堀、石川、里見、佐野と言った徳川の未来を脅かさんとする大名たちを粛清し、未だ野心を捨てぬ伊達、大御所様と上様に反感を持つ越後少将(松平忠輝)を黙らせる為であった。
しかし、伊達と共に黙らせんとした伊予侍従の返り忠を読み切れず、相州(大久保忠隣)殿の恩を無為にした代価を払い切れなかった事、痛恨の極みである。
豊臣家を滅ぼし戦乱の根を断ち切った後には、例え我が子正純が何を言おうとも、相州殿を元の領国に戻すよう上様に訴えていただきたい。
だがその際、我が領国玉縄二万二千石だけは安堵するようにお願いいたす。
本多佐州」
秀忠の音読を聞き終わった彦左衛門は複雑な表情になっていた。
昨年彦左衛門の甥にして大久保家の当主である大久保忠隣の側近・大久保長安が亡くなったが、その際に生前ぜいたくな生活を行い、そして多くの大名と姻戚関係を結んで謀反を謀ろうとしていたと言う咎で忠隣は改易され、長安及び忠隣と関わっていた大名の多くも改易された。
更に長安は松平忠輝の付家老でもあり、放置しておけば忠輝と忠輝の岳父である伊達政宗の二人が家康と秀忠に対し本当に謀反を企む可能性もあった。要するに、徳川に対する謀反の芽を摘まんとして正信がかけた策だったのだが、政宗と同じように長安と姻戚関係を結んでいた加藤嘉明がこの大坂で寝返ってしまったのである。
確かにこの文面からは佐州こと本多正信の誠意が伝わってくる。だが、だからと言って何を今さらと言う気分なのも確かなのだ。
(あれが父親と同じように反省する男か……)
正純も四十九歳と若くはないが、正信は七十六歳と言うこの時代にしては相当な長寿であり、しかも最近体調がよくないのに無理を重ねていると言う話が流れている。要するに、正信はもうすぐいなくなる男なのである。正信が死んだら正純を抑えられるのは家康しかいなくなるが、その家康も七十二歳でいつまで生きられるかわからない。
秀忠がいるではないかと思うかもしれないが、秀忠の取り巻きの利勝と忠世は正純と親密であり、正純に追従して大久保の方に配慮しない可能性があった。要するにいくら正信が真摯に反省していても、大久保の名誉と領国の回復にはつながらないかもしれないのである。
「それを届けるために本多上野が来たと言う訳ですか?」
「そうなるな」
「それで策はどうなさいます?」
「それなんだが……正直父から五千ぐらい兵を借りるぐらいしか手が思い付かんのだ…………」
「何と弱気な! それが征夷大将軍のお言葉ですか!」
沈黙を破るように家次が口を開いた。その上で苦しい胸の内を明かした秀忠に、彦左衛門が吠えかかった。
「だが真田は……」
「そんなに真田が恐ろしいのならば、拙者と宮内大輔殿にお任せ下され! 雅楽頭(酒井忠世)殿の言う通り、一万の兵を割いて後ろに備えればよろしいのでしょう!」
その案を提案した忠世、元より賛成していた利勝は黙って頷き、家次はえっと言う表情で彦左衛門の方を見た。
「わかった、その案で行こう。大輔、頼むぞ。彦左衛門と共に頼む」
秀忠のこの言葉が最終結論となり、家次は彦左衛門と共に一万の兵を率いて奇襲に備えるべく大坂城と逆向きに陣を構える事となった。
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