第四章-3 秀忠軍大混乱
十日、戌の刻(午後八時)。
家次の軍勢一万と背中合わせの格好で四万の兵を北門に向けていた秀忠の目は冴えていた。
「そろそろお休みになった方が……」
「気にするな」
旗本の進言も秀忠は軽く手を振って退ける。
(真田め……)
正直、真田が何を仕掛けて来るかと思うと不安がいっぱいで眠れないのだ。
(もう半刻だけ我慢してやろう……それでも来ないのならば明日ゆっくりと料理してやる)
秀忠は不安と苛立ちを抑え込むようにそう自分に言い聞かせていた。
そんな時、一発の鉄砲の音が秀忠の間近で鳴り響いた。
「誰だ! 鉄砲を間違って発射した奴は!」
「わかりません」
「まあいい、落ち着いて構えれば大丈夫だ」
秀忠はその銃声を、夜襲を警戒して起きていた兵士の誰かが間違って発砲してしまった物と考えた。
「まったく……戦う前から浮き足立つ奴があるものか…」
だがそこに、追い打ちをかけるように門が開く音が聞こえて来た。
「北門から敵が出て来ます!」
「来たか! 迎え撃て!」
秀忠がそう叫ぶと同時に、また銃声が鳴り響いた。
しかも、先ほどと違い一発や二発の銃声ではない。百発、いやそれ以上の一斉射撃である。
秀忠は本能的に大坂城の方を見据えたが、火箭も火縄の煙も見えない。
「まっ……まさか!?」
秀忠は思わず口からそんな言葉を吐き出してしまった。
(お、落ち着け! 伊予侍従だ! そうに決まっている!)
慌てて北門の方に目をやった秀忠であったが、まだ北門から出てきた軍勢と自軍との戦いは始まっていないようだった。
「そうか……真田め、北門が空白地帯であったこの数日のうちに兵を潜ませていたな! 見つけられなかったのは迂闊だが、わかってしまえば問題はない! 宮内大輔に真田の兵を迎え撃たせるように命ぜよ!」
急ぎ伝令を放った秀忠はわずかにほっとした表情に変わると北門に視線を向け、松明に照らされていた桐紋と蛇の目の紋の旗を見据えた。
(一発逆転で決戦を挑んで来たか……受けて立ってやろう! 潰してやろう!)
秀忠は自分の心を奮い立たせるかのように、力強い言葉を自分の心に投げかけた。
だがこの時、秀忠は自軍の有様にまるで気付いていなかったのである。
※※※※※※※※※
「真田の奇襲だと!?」
「はい」
「ふざけるな、どこに真田がいるのだ!」
「ええっ?」
秀忠の命を受け家次の元に走った使者は、あまりにも予想外かつ頭ごなしな家次の物言いに戸惑いを隠せなかった。
「それより我らの後方で何が起きているのか説明していただきたい!」
「伊予侍従の軍勢が門より飛び出し上様の軍勢と合戦を」
「そんな事を聞いているのではない! どうして我らが後方より銃声が聞こえるのだ!」
「えっ!? 上様は私に、自分たちの軍の後方より銃声が聞こえるのは真田が奇襲をかけているゆえと判断なさって私をここへ……」
家次はふざけるなと言わんばかりの顔で使者をにらみつけた。その物言いが正しければ、銃声は秀忠軍と家次軍の間で起こっていると言う事になる。
一発や二発なら誰かが誤って発射してしまったで済むが、あの銃声は軽く見ても百発分はあった。ほぼ背中合わせになっている両軍の間で、どうしてそんな多量の銃声が起こるのだろう。
そんな所に、また先程と同じ一斉射撃の銃声が、また同じように家次の背中から鳴り響いた。
「ほら見ろ! これでも真田が奇襲をかけていると? すると何か? 真田の部隊が我らと上様の間で暴れているとでも言うのか!?」
使者は何も言えない。たった今、自分も後ろから銃声を聞いたからである。使者は何も言えず、涙目になって家次の元を去って行った。
「落ち着け! 伊予侍従め慌てふためきおって! 伊予侍従の攻撃を受け止めろ!」
家次は、この銃声を北門から出て来た嘉明軍の部隊の一部が一発逆転をかけて自分と秀忠の間に入り込もうとしていた結果だと考えていた。
(三万と言ってもまともなのは伊予侍従の配下ぐらいだろうに……)
夜襲は効果的であると簡単に言うが、仕掛ける方が手練れていなければかえって自分たちが混乱を起こすだけであり、そんな手練れた兵が大坂方にいるとは思えない。
いるとすれば嘉明の配下だけであろうが、それとてかつて上田で真田昌幸が率いていた兵とは格が一枚か二枚下であった。そんな兵で夜襲をかければかえって自滅を招くだけだ、家次はそう腹の中で嘲笑っていた。
だがまもなく家次はそれが錯覚であり、楽観であった事を思い知る事になった。
突如、ワーワーと言う激しい声が陣幕の中にまで響き渡った。この時家次の本陣はかなり東側に据えられていたため、嘉明軍の攻撃にしてはおかしい。
何事かと思って家次が立ち上がった時、真っ青な顔をして一人の小者が飛び込んで来た。
「何事だ!」
「申し上げます! 謀反人が出ました!」
「なっ……馬鹿を申せ! どこの誰だ、こんな状況で! 黒田か? 細川か?」
「それが大久保です!」
小者の言葉に旗本たちはふざけるなと言わんばかりにその小者を睨み付けたが、家次の反応は違った。
「どういう理由でだ!?」
「やはり豊臣家は討てぬ、ここで立ち上がらねば豊臣家は終いだと……」
「しまった!」
家次のしまったという言葉に、旗本たちの顔色が変わった。
実は、大久保忠隣はこの大坂征伐に対して反対の立場をとっていたのである。忠隣が放逐されたのはそれが原因と言う説もあり、寝返りの理由としてはなくもない話であった。
「それでどこの部隊だ……」
「それがどこだか……」
「出所のわからない話を持ち込んで来るな!」
「いえ……あちらこちらで起こっているのでどこが出所だか……本陣に駆け込む途中で少なくとも三回は大久保謀反の話を耳にしましたゆえ……」
家次の顔色が土色に変わり始めた。こうなると敵が撒いた流言飛語だとしてももう抑えようがない。
「……いるはずだ……徳川に成り済まし謀反を引き起こさんとする真田がいるはずだ。そ奴らを見つけて葬れ……」
家次はかろうじて気力を振り絞り、そんな言葉を口から吐き出した。今となっては手遅れどころではないのだろうが、他に何も思いつかない。
「とりあえず間近にいる者は我が元に集まれ。真田を討つ」
激しい混乱の中に落とされた家次の精神を辛うじて保たせているのは、真田を討つと言う目的に向いたわずかな闘争心だけだった。
大久保軍謀反の噂はあっと言う間に秀忠軍をも駆け巡っていた。
「落ち着け! 明かりを増やせ! そうすればそんな噂がでたらめである事がすぐわかる!」
秀忠は必死に怒鳴ったが、その命令はなかなか本陣の外まで届かない。
「真田め……またしても余の前に立ち塞がるか」
怒りに打ち震える秀忠の元に、立て続けに伝令が飛び込んで来た。
「申し上げます! 東門の敵軍勢も城門より討って出た模様!」
「西門でも激しい戦いが繰り広げられております!」
確かに重要な情報であったが、今の秀忠には耳を貸す気にもなれず、「そうか」とうなずくだけであった。一体どうすればこの混乱を鎮める事ができるのか、その方法が全く思い付かないのだ。
「同士討ちだけは避けねばならん! 明かりを増やして周囲を明るくさせろ!」
結局、それしかやる事が思い付かなかった。
とにかく、同士討ちこそが真田の狙いであり唯一の勝ち筋なのだ。だとすれば、それを封じるしかない。だが、どうすればいいのかわからない。
とっさに思い付いたのは、真田が頼りとする暗闇を排除するために明かりを増やす事だけ――――だがそんな秀忠の苦しい決断も、今、踏みにじられようとしていた。
「大変です! 同士討ちが発生しました!」
「どこでだっ!?」
「宮内大輔様の陣の西側で……」
「真田の奇襲ではないのか!?」
「葵紋の旗を掲げておりますゆえ、同士討ちで間違いないかと……」
最悪の事態になってしまった……そう考えた秀忠の顔はたちまち真っ青になった。
同士討ちではないと思ってはいるが、それをどう皆に信じさせるべきかわからなかった。
※※※※※※※※※
「西門と東門ではずいぶん激しい戦闘が行われているようだな」
その頃南門を担当していた藤堂高虎もまた、大坂軍の攻撃を受けていた。
「西門では宮内少輔、東門では明石掃部がかなり激しく攻撃しています」
「だがこの南門は穏やかだな」
西門、東門とも大坂軍の夜襲により激しい戦闘が始まっていたが、南門では夜襲こそあったがその後の攻撃は激しくなかった。この前の戦闘で一番弱っていたのが自分たちであり、夜襲をかけ一気に殲滅するのに絶好の標的のはずなのにである。
「そう言えば北門はどうなっている?」
「報告はございませんが」
「北門は確か上様がいらっしゃったが……そうか!敵の狙いは上様だ!西門も東門も我らの目をごまかし、あるいは援軍を出させないための策だ!とすれば、狙いは北門しかない!」
「しかし上様の手勢は」
「わかっている、だが真田は何をするかわからん!大御所様も攻撃を受けておろうが、どうせ東門の敵は大御所様の手勢の半数。だとすれば、まだ余裕があるはずだ!援軍を上様に回していただけるように頼んでみてくれ!」
高虎の命を受け、使者は東側の家康本陣に向け走り出した。
※※※※※※※※※
「やはり泉州もそう思ったか……ふふふ、まこと使える男よ。にしてもやってくれるわ……真田の狙いは秀忠か」
家康は高虎の使者の要請を受けると笑みをこぼした。家康の意見も同じだったのである。
この時、家康の陣には塙団右衛門が殴り込みをかけようとしていた。
「どうしたどうした!家康の首をもぎ取られたくなければ、この団右衛門様と勝負しやがれ!」
団右衛門の声が響き渡るが、予想外に団右衛門に構う兵は少ない。団右衛門を恐れている訳ではなかった。
「あんな旗まで使ってわしを引き付けたいらしいな」
城門から出てきた軍勢の総大将は団右衛門ではなく、石川康勝であった。
康勝の祖父、数正は元々徳川家の譜代の臣であったが、秀吉に引き抜かれる形で豊臣家の家臣となったのである。徳川家の方から見れば石川は裏切り者であり、豊臣以上に許しがたい家であった。
「裏切り者の石川を叩き潰せ!」
当然、古くからの徳川兵たちは石川の旗に猪突する。その隙を突くように敵は団右衛門をぶつけ、こちらの足止めを図って来た。
「だがまだ余裕はある……誰か送ってやらねばなるまい」
家康がそう考えた時、一人の人物が頭に浮かんだ。
「治胤はおるか?」
「はっ」
大野治胤は二日の戦の功により、家康に近い位置に配属されていた。
「三千の兵を率い、秀忠の援軍に駆け付けてもらいたい」
「私がですか!?」
「どうやら真田が一枚噛んでいるらしい。あわよくば真田を討てるやも知れんぞ」
「やります!」
「では頼むぞ」
「ははっ」
治胤は驚いた。前回一応功績は挙げたとは言えただの使者だったのに対し、今回は援軍と言う大役である。
しかし真田を討てるかもという言葉に、治胤の血は一瞬で滾った。
家康は懐の深そうな表情で治胤を送り出した。無論この抜擢は懐柔策の一環ではあったが、治胤と言う男が存外使える人物であった事も、家康の気をよくしていた。
「真田め……この大勝負、必ずや空振りさせてやろう。さすればお前に打つ手はあるまい」
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