第三章-5 秀美、毒食わば皿まで
「仕方がない!一旦下がれ!寄せ具の用意が出来次第、再び突撃する!」
忠直と全く同じ経緯で大打撃を受けた義直は、後退を命じた。だが諦めた訳ではない。ここで諦めれば完全な負けであり、豊臣軍に勢いをつけてしまう。それだけでなく、越前勢にもなめられる危険性があった。
正成はさすがに歴戦の人物であり、負傷兵の運搬、兵たちの配置換え、長尺の鉄砲に備えての板楯や竹束の追加など、実務を着実にこなした。それに追従するかのように、越前勢も体勢を立て直しにかかった。
「ほら見ろ!やっぱり徳川には石を投げれば勝てるんだな!」
「何だよ、徳川って意外に弱いんだな」
「尾張の皆様、食い逃げしても大坂の人間は大らかだから、許してくれますよ」
「五郎太丸坊や、怖いなら
当然と言うべきか、豊臣方は嘲弄の言葉を放ってきた。
三方ヶ原で惨敗した家康は逃げる際に茶店に寄って小豆餅を食べていたが、その道中で武田軍に追いつかれ、武田軍恐ろしさに代金を払わずに逃げ、道中で店主の老婆に追いつかれ代金を払ったと言われており、更に家康はその道中で武田軍恐ろしさの余り脱糞したとも言われている。
家康にとって生涯最大の屈辱であり、徳川軍にとって最大の敗戦であった。
「全く、やってくれますな」
傍らにいた正信の言葉に、家康は少し顔を歪めた。
「だが火薬や弾が無尽蔵にあるわけでもあるまい。あんな強力な鉄砲を撃つためには火薬を並でなく消費する。消耗戦になれば勝つのはこちらだ。口だけで戦ができるならば苦労せん、しばらく様子を見ろと言っておけ」
家康と正信は流石に冷静であったが、義直や忠直はそうは行かなかった。このまま終わってしまえば、こちらの犠牲は大きく向こうの犠牲は皆無である。
いくら銃を撃たせ続ければその内……とは言え、連戦連敗を繰り返せばこちらの士気は萎えてしまう。だからこそ家康は大坂城に入った大将級の牢人一人でも倒せばそれで勝ち、それ以上は深追いしないと言う方針を立てたのだが、現在東門では雑兵一人すら倒せていない。
それが非常にまずい展開である事ぐらい、忠直も義直も、無論家康も正信もわかっている。
だが、この時家康はある見落としをしていた。
「おのれ!!態勢は整ったか!」
「整いました!」
「そうか!真田め、許さん!与えられた恥辱を幾倍にもして返してやれ!!」
「越前勢に負けるな!真田の首級を挙げるのは我々だ!!」
挑発に怒り狂った義直と忠直率いる尾張勢と越前勢は、再び突撃を開始した。今度は板楯・竹束などをきっちり備え鉄砲への防備は完璧であったが、それ以上に将兵の怒りと焦りが兵を駆り立てていた。
「お待ちください!大御所様はしばらく様子を見ろと」
「黙れ!あんな事を言われて黙っていろと言うのか!」
家康の放った伝令の使者も何の役にも立っていない。自分に向かって怒鳴り付けた相手が忠直や義直ならまだともかく、富正に正成では完全に貫禄負けである。
「ですがその……」
「大御所様に伝えて来い!真田の首を引きちぎるまでは戻ってくる気はないと!」
正成のこの剣幕に、伝令はすっかり脅えてしまい、青い顔で家康の元に戻って来た。
無論その間にも次々に鉄砲が撃たれ、犠牲者は増える一方である。
「弥八郎!何とかならんのか!」
使者が役に立たず腹を立てた家康が上げた怒鳴り声に、正信は立ちくらみを起こしそうになった。
「おい弥八郎!」
「いえ……私はご心配なく、上様が控えておりますから…」
一見前後の噛み合わない正信の言葉だが、家康はその正信の言葉を聞いてしまったと心の中で叫んだ。
この後数日もすれば、秀忠が五万近い直属の兵を連れて大坂にやって来る。更にその後ろには、忠直の年上の叔父であり義直の兄である忠輝を筆頭に伊達・蒲生・上杉・佐竹など合わせて最大で八万の大軍が控えており、初戦で成果を上げられないとなるとそれらの兵と取り換えられて後方に下げられ、功名を得る機会は二度となくなってしまう。
家康にとっては長期戦でも、忠直と義直にとっては短期決戦だったのだ。
もっとも、義直だけならばこんな再突撃はしなかっただろう。だが忠直の強引さにつられてしまい、忠直共々大坂城に再度突っ込んでしまったのである。忠直と義直を競わせる格好にしてお互いの力を増幅させようと言う家康の計画は、見事に裏目に出てしまったのである。
「治胤はおらぬか」
家康は内心の動揺を覆い隠し努めて落ち着き払った表情を作ると、大野治胤を呼んだ。
「三千の兵を率い忠直と義直を退かせてきてくれないか、どうか頼む」
「えっ」
治胤は驚いた。家康が直臣でなく自分をそんな大事な任務に使うと言うのか。しかも、ずいぶんと低姿勢だ。
「他におらんのだ、どうか」
「では……」
治胤は戸惑いながらもうなずき、天幕を後にした。
無論、治胤を起用したのは対外的には徳川家は豊臣家を踏みにじる気はなく秀頼の母である淀殿を追放した真田幸村とそれに追従する者たちを討つのだと言う宣伝であり、対内的には治胤の起用に対する不満を抑えるためである。
家康は、あくまでも冷静だった。
「大野だと?援軍にしては頼りない男だ。手柄を立てさせてやろうにもこの状況では無理があるぞ。「まあいい、援軍が来たのだ!一気に攻めるぞ!」
忠直は家康が撤退の命令を徹底させる為に治胤を寄越して来たとは全く思いもしていなおらず、治胤の到来を援軍だと判断した。
「尾張勢は何をやっている、だらしない!」
一方、義直率いる尾張勢はじりじりと後退していた。それがなお、忠直の怒りと意欲を煽った。忠直にしてみれば義直が醜態を見せる中成果を上げれば差を付けられるし、かと言って駄目すぎて役に立たなくては真田の攻撃を一手に受ける羽目になる。そういう意味でも義直と忠直の関係は複雑だった。
しかも、この越前勢の強引な攻撃を促す要素はまだ他にもあった。
「鉄砲など初戦から乱発できるものではない、まさにそういう事だ!」
この時忠直軍に向けて放たれていたのは銃弾ではなく、矢ばかりであった。
一応火矢が大半であったが、鉄砲と比べると当然射程は短く、届かないか届いた所で威力を失っているかのどちらかであり、せっかく竹束や板楯に点いた火も緩い攻撃のせいで消す暇が生まれてしまい、損害はほとんど出ていない。
その一方で、義直軍には銃弾が雨霰と降らされていた。既に板楯はボロボロに砕けており、銃弾の的になって絶命する兵の数が鰻登りになっていた。無論、先に使われた長尺の鉄砲による犠牲者も山のように生まれていた。
しかし、いささか信じ難い事であるが忠直はこの義直軍の状況に気が付いていなかった。忠直自身が癇癪持ちな所があり、この時すっかり頭が熱くなってしまっていたのである。冷静に前を見れば自分たちと尾張勢の攻撃の差に気付くはずだが、忠直にはそれができなかった。激しい銃声と火矢の羽音だけを聞いて、自分たちと義直が同じ攻撃を受けていると思い込んだのである。
この時、さすがに富正はこの異常に気が付いていた。
「ご覧ください、我々には銃弾が来ておりません」
「何……?」
富正の諫言に忠直はようやく落ち着きを取り戻し、冷静に前を見るとなるほど確かに自分たちと義直に対する攻撃にはずいぶん差がある。
「我らをなめておりますな!」
「おのれ……!」
だが、この時富正は自分たちに対する攻撃の緩さを、自分たちがなめられているせいだと判断していた。それは忠直の怒りを煽る物であり、冷静になりかかっていた忠直に再び火を点けようとする発言であった。
「越前宰相(忠直)様、どうかお退き下さい!」
そこに思わぬ言葉をかけてきた人物がいた。大野治胤である。
「大野!」
「大御所様より直に命を受けお二人を無事に退かせるべく参りました!」
「祖父がおぬしに直々に命を?ふざけるのも大概にしろ!」
「ですが私はこの耳で!」
「祖父は何を考えておるのだ……おぬしの様な新参に三千もの兵を付けて寄越すとは」
「三千と言う兵を付けたのは撤退を支援するためです!どうか、大御所様をお信じになって下さい!」
忠直は治胤の言葉に耳を貸そうとしない、と言うより治胤の存在を認めようとすらしなかった。
三千と言う兵を付けたのは実際にはそれと共に忠直と義直に言う事を聞かせるための圧力なのだが、治胤はそれには気付いていない。
「これは大御所様の命です!私の言う事が聞けないと言うのならば」
「ふざけるな!祖父の名を持ち出してわしを脅すか!」
治胤は心の中では、兄二人を殺した真田に対する憎しみにあふれていた。だがここでこの任務に失敗すれば家康からも見放され、いよいよ真田に復讐する機会はなくなる。
必死になっていた治胤は、つい家康の威を借るような言い方をしてしまった。忠直がさらに怒りをたぎらせたのは言うまでもない。忠直は脇差を抜き、掴みかからんばかりの表情で治胤を見据えた。
「一大事でございます!伊予侍従(加藤嘉明)が寝返りました!」
「何だと!」
しかし、治胤には運があった。一触即発の状況の中、南門で発生した加藤嘉明寝返りの報が東門に届いたのである。
忠直のたぎっていた怒りが、一気に冷めた。
「確かにこれは戦っていられる状況ではないな……退くぞ!」
忠直は脇差を鞘に収めると治胤に頭を下げた。
「なるほどな、寝返りが生まれたとあっては仕方がない。だからあそこまで強気だったのだな、すまない」
「いえ……」
治胤は嘉明裏切りの報を聞き内心では驚愕していた。だが、ここが勝負だと見た治胤は精一杯その驚愕を覆い隠し、冷静に振る舞い続けたのである。
「殿軍は我らが務める!」
治胤は内心の動揺を隠すように大声で叫んだ。そして、見事に越前勢を退却させたのである。
なお尾張勢は嘉明裏切りの報を聞くや自らの判断でこれ以上の戦いは無理と判断、退却を始めていた。
「……裏切りとは驚きました」
「わしもだ」
忠直は家康に素直に嘉明寝返りの報への驚きをぶつけた。
「本日は残念な結果になってしまい申し訳ござらん」
「まあよい。火薬と弾を浪費させただけでも十分だ。それで損害は」
富正に対しても、家康は寛容に言葉をかけた。
「銃撃が激しく、二百ほどの死者と倍の負傷者を出してしまいました」
その富正の言葉を聞いた家康は、正成が物凄い視線で富正をにらんでいたのに気付いた。
「六百ですか」
「正成……尾張勢はどうした?」
「死者だけで六百どころか七百はおり、負傷者は千百以上……」
同じように戦っていた軍勢なのに、越前勢と尾張勢との間には犠牲に三倍の差がついていた。
「それから、越前勢に比べ我らへの攻撃はなぜか苛烈で……」
「それは尾張勢が強兵だからでしょう、少なくともそう思われていたからでしょう」
富正は正成の真実ではあるが愚痴とも嫌味とも取れる言葉に、苛立ちをぶつけるような言葉で返した。忠直も富正も、嘉明寝返りの報を聞いてやむなく撤退を決行したものの、内心では「真田になめられている」という思いがくすぶっていたのである。
「宰相様も聞いたでしょう、あの真田兵の言いぐさを!」
「それはこっちも同じだ!」
「やめい!」
正成と富正の口論を鎮めるように、家康は一喝した。さすがに両名とも口は閉じたものの、両名の視線は未だに火花を散らしっぱなしだった。
「味方同士で喧嘩する物ではない。加藤嘉明の様な者をまた生み出したい訳でもあるまい。今日はもうこれまでだ、一旦下がり次の命あるまで待て」
徳川がこんな内輪もめをやっていては、嘉明のように徳川を見切り豊臣に鞍替えする者が出て来ても不思議はない。
さすがにその言葉は重く響いたのか忠直も義直も、富正も正成も黙って頭を下げたが、両者が視線を合わせる事はなかった。
家康はそんな四人の姿が見えなくなると溜め息をついた。
「あんなわかりやすい手に乗る奴があるか……」
忠直の父結城秀康は、一時期秀吉の養子だった。要するに、ある意味で忠直は大坂城に入っている池田長幸と同じ秀吉の孫である。そういう視点で考えれば、豊臣軍の将兵が忠直に手心を加えるのは当然であった。
また、徳川を罵倒した挑発にしても、よく聞けば尾張の皆様や五郎太丸(義直)であり、越前の皆様や忠直とは言っていない。明らかに、敵は忠直に甘い処置を取っていた。今はまだ気が付いてないようだが、忠直が秀吉の「孫」である事に気付いた場合、忠直がどういう行動を取るかわからない。いや、他の徳川の者が先にそれに気付き、越前勢に対して不必要な警戒を始めて混乱を来たす事態も起きかねない。
「やはり両名とも後ろに下げるか」
互いに競わせて成果を上げさせるつもりだったが、この調子では逆効果にしかなりそうもない。とすれば、共に戦わせない方向に行くしかなかった。
※※※※※※※※※
「初戦は取りましたか……ですが本番はこれからです」
この時秀美は、真田軍の一員として水桶を運んでいた。過熱する鉄砲や硝煙で目がやられた時の対策として、水は大量に必要だったのである。他にも同じ働きをする下女たちが十数人、幸村に付けられていた。
「そなたはなぜこうも激しく動くのだ?私はそなたに、そのような働きは期待しておらぬのだが……」
「私がこの戦を起こしたんです。ですから、私には後ろで黙って見ているなんて許されません。傍観者ではいたくないんです」
戦中ずっと働き通しで息が上がっている秀美を見て思わず発した幸村の言葉を受けた秀美は、力強く幸村に言い返した。
「伊予侍従をこちらに付ける策を立てたのはそなたであろう。策を立てるのは傍観しているとは言わん」
「いいえ!それでは私はただのプレ」
「ぷれ?」
「あっいえいえ、何でもありません!」
秀美はプレイヤーと言いかけてあわてて口を抑えた。秀美の時代、戦国時代をモチーフにしたシミュレーションゲームは山とある。だがその大半は自らが将となって相手と直接斬り合う事はなく、ただ策を指示してああしろこうしろと命じるだけである。
秀美は、シミュレーションゲームのプレイヤーにはなりたくなかった。ゲームなら失敗してもゲームオーバーでまた最初からやり直しで済むが、目の前の戦場は現実である。ゲームと同じ感覚でうまく行くはずがないし、ゲームで敵兵を殺すのと現実で殺すのは全く違う。
戦場を生身で感じなければ、いずれ自分はプレイヤーに成り下がり、結果として敗北を招いてしまう恐れがあった。ましてやこの場合、敗北は自分の死を意味していた。秀美も結局人の子であり、内心では死ぬのを怖れていた。だからこそ、その死を間近に見つめるために秀美は前線に出続けていた。現に、徳川軍の反撃も少ないながらあったためこの日真田軍も百名ほどの死傷者を出していた。
「とにかく、私は前線から離れるつもりはありません」
「……そうか、ならば止めまい」
幸村の背を見送ると、秀美は前方に視線を移した。
(これが私がもたらした結果……逃げちゃダメよ、秀美!)
そこには傷を負った数名の兵士がのたうち回っていた。手当てこそ済んでいるようだが、傷が深かったらしく未だに呻いている。
自分が来なければ戦などに巻き込まれず太平の世に生きられたかもしれない人たち、それを巻き込んだのは自分だ。
だから目を逸らしてはいけないのだ、そう決意した秀美の両目には一段と強い光が灯っていた。
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