第二章-4 はじめての殺人

 二十六日、家康からの命を受けた井伊直孝は彦根を出発した。そこは徳川譜代であっただけに軍備はあらかじめ整っており、命さえ出ればすぐ出撃可能と言う状態であった。


 兵力は本人が四千五百、近江の諸大名で三千と言った所であり、合わせて七千五百である。また二条城では京都所司代の板倉勝重が千五百程度の兵力を抱えており、更には伏見にも二千の旗本らが残っており合わせれば一万一千と十分な兵力となる。


「一刻も早く京に向かうのだ!」




 直孝は琵琶湖を西回りで進み、京へ急行する事とした。

 南回りの道を取らなかったのは、ほんの少し前に瀬田の唐橋が焼き落とされていたと言う報告が彦根に届いていたからである。


「軍勢は見えませんでしたが」

「ちっ、面倒くさい真似を」


 報告を聞いた直孝は軽く舌打ちしたが、その声色には余裕があった。そんな小手先で徳川を阻めるのか、ならば乗ってやる事もあるまい、その策を無駄にしてやろうとばかりに西回りの道を選択したのである。

 池田軍の大敗を知りながらも、まだ直孝、いや井伊軍全体には余裕があったのである。







「待ち伏せだと?」

「はい、十字架の旗が並んでおりました」


 二日後、山城国にたどり着いた直孝は思わぬ報告を聞いた。


「十字架とは誰だ」

「明石全登かと」




 明石全登は宇喜多家の家臣であった男で、敬虔なキリスト教徒であった。秀吉は一応禁教令を発布していたが貿易を禁止しなかったため不徹底であり、その後も細川忠興の妻、ガラシャこと玉のように信仰を捨てない者もいた。


 一方で家康は当初こそある程度寛容であったが今では幕府政治にとってキリスト教は危険極まりない代物であり、徹底的に弾圧するという考えの持ち主になっている。


 高台院はキリスト教に関しては無関心であったが、幸村の勧めもありキリスト教解禁の方針に傾いていた。全登が好機と判断したのも当然だろう。と言うより、このまま豊臣家が潰れては日本のキリシタンには絶望の二文字しかなくなるのだ。


「ふん、邪教の徒めが」


 無論、徳川幕府の申し子のような直孝にキリスト教に対する理解はない。


「詳しく調べて来い。わかっていれば待ち伏せなど意味がない」


 直孝は当然とも言える言葉を口にした。


「旗ばかりで一人も兵はいません、藁人形のみです」


 だが寸刻後、物見のもたらしたこの報告に直孝は笑った。


「またわかりやすい偽兵だな」


 旗だけを置き、待ち伏せがあると見せかけて時間を稼ごうと言うのか。あまりにも稚拙だ、経験のない自分ですらすぐわかる、一時凌ぎではないか。




「構わぬ、進め!」


 直孝は嘲笑して前進を開始した。しかし、また十五分も前進しない内に、両端に十字架の旗が見えて来た。


「本当の伏兵だとまずいかもしれんな、誰か調べて来い」


 しかし、やっぱり旗と藁人形だけが並んでいたただの偽兵であった。


「ですが」

「ですが何だ」

「この辺りは両側に小山が多く伏兵にはうってつけの場所」

「そう思わせたいのだろう、全くつまらん小細工を」


 井伊家の家老である木俣守安の進言を直孝は軽く退けた。守安にしても万が一程度の発言であり、さほど真剣に言った訳ではない。

 守安もまだ二十八歳と、二十一の直孝と七つしか違わない若年であり、戦の知識はあるが経験はなかった。



「また旗が見えました」


 三回目のその報告が来た。


「どうする」

「じっくり調べさせてみましょうか」

「よし、念入りに調べよ」


 直孝の命により、今度は入念に調べが開始された。そのため四半刻(三十分)以上行軍は停止したが、入ってきた報告は結局藁人形だけで兵はなし、であった。


「面倒くさい奴らだ」

「しかしこれ以上は」

「わかっている、前進を開始させよ」


 だが直孝の心を逆撫でするかのように、またもや十字架の旗が左右の山に翻っていると言う報告が飛び込んで来た。


「早く調べて来い」


 直孝はいささか投げやりにそう命じた、そしてやはり答えは同じであった。


「ふん、覚えていろ。この鬱憤は必ず晴らしてやるからな」


 直孝は偽兵に足を引っ張り続けられていることに腹を立て始めて来た。


「申し上げます」

「またか、今度は何だ」

「前方に柵あり、そこに十字架の旗が翻っております。そして今度は兵がおります」

「そうか」


 ようやく正体を現したか、直孝はそう言いたげに息を吐いた。


「どうせ敵は強くはない、落ち着いて戦えば勝てるぞ!」


 敵は我らを焦らして怒らせ、無理攻めをさせたいのだ。それに乗らなければ勝つのはこちらだ、そう言わんばかりに直孝は声を張り上げた。




「進め!」


 四半刻(三十分)後、直孝のその声と共に板楯を持った先陣の兵たちが一斉に柵に向けて突撃を開始した。そしてそれに合わせるように、柵の中から銃弾の雨が降り注いだ。

 さすがに死者は少なかったが射撃の精度は低くなく、次々に板楯を砕き、兵たちの頬をかすめた。


「ひるむな、敵はどうせ鉄砲だけが頼りだ!それさえ防げば大丈夫だ!」


 直孝は池田が大敗した戦いの経緯を大体知っており、豊臣家の鉄砲隊が強い事をわかっていた。そして兵の訓練不足を補うために鉄砲を重要視しているのだろう、だがそれを封じ込めればこちらの勝ちだと言う認識も同時にあった。


「来たな、白兵戦なら強いのはこちらだ!この戦もらった!」


 鉄砲隊を下がらせ足軽を繰り出して来た豊臣軍を見て、直孝は頬を緩めた。豊臣の足軽は五人で井伊の赤備え一人と変わらない、とすれば井伊軍四千五百を凌ぐには柵に因っている事を加味しても二万は必要だろう。

 そんな数を気付かれず隠せるわけがない、せいぜい五千だろうと直孝は見ていた。


 脆弱で急ごしらえな豊臣が多くて五千、徳川は強壮で装備の確かな七千五百である。

 実際十分もしない内に、柵内からの抵抗は弱まり始めた。




「さあ押せ押せ!これ以上好き勝手にさせるな!」

「一大事でございます!」


 しかし、今までの鬱憤を晴らし至福の時に浸っていた直孝の耳に、予想もしなかった一大事の三文字が飛び込んで来た。


「何だ一体?」

「伏兵が現れました!」

「何だと?どこからだ」

「先程の四つ目の山からです」

「なぜだ!?いや、数はいくつだ!」

「左右から千五百ずつ」


 調べたはずだぞ、直孝はそう叫びたくなった。だがよく思うと、その時の自分の調べが甘かったなとも考え直した。


「どうせ前の軍勢はまもなく崩れる、わし自ら回頭して迎撃する」


 すでに前面の敵は押し込まれているのだ、落ち着いて対処しこの奇襲を凌げば問題はなかろう、そう考えた直孝は自らその伏兵の迎撃にあたった。



「ひるむな!どうせ敵はこれだけが取り柄の弱兵だ!」


 敵はきっとこちらを包囲せんとしてくるだろう。だがどうせ前面と後方を合わせても数はほぼ互角であり、兵の質は大きく落ちる軍勢である。まともに戦えばこちらの勝ちだ。

 これでは京にたどり着くのは遅れるかもしれないが、豊臣軍に対し勝利を収めたのだから文句はないだろう。直孝の意識は、すでに次の戦に飛びかかっていた。







「塙団右衛門見参、井伊兵部の首はもらった!」

「えっ!?」


 だがそこに挑みかかって来た塙団右衛門なる武者の声に、直孝は思わず間の抜けた声を上げてしまった。その武者は旗に自分の名前を大書しており、わずか百騎ほどで直孝に向かって来たのだ。

 前面には十字架と五七の桐の旗しかなかった。とすれば、彼は奇襲軍の将としか考えられない。それが後方を押さえると言う大事な任務を無視してここに来たと言うのか。直孝は呆れるとか嘲笑するとか言う前に、混乱してしまった。


「馬鹿な、伏兵大将が任務を放棄する奴があるか!迎え撃て!」

「大丈夫です、大将がこんな馬鹿をやっていれば兵たちの統率はあったものではありません。実質千五百ならば十分切り抜けられます」

「うむ……」


 守安は混乱していた直孝を覚醒させるように正論を言い放ったが、予想に反し敵奇襲軍の統制は壊れていなかった。

 片側から来た千五百はともかくもう一方から来た、団右衛門を失った千四百も予想外に統制がとれており、混乱から立ち直りきれていない徳川軍を次々と追い込んで行く。


「なぜだ……あやつは大将ではないのか」


 直孝からその言葉が出るのは当然であった。だが実は紛れもなく団右衛門は奇襲軍の大将であった。その証拠に、千四百の兵は全て団右衛門の名前の旗を掲げていた。




「謀られたか!」




 直孝はようやく気が付いた。団右衛門のこの行動はすべて計算の範囲内であり、団右衛門がこの単騎突撃を敢行してしまう事を見越し、誰か別の人物を真の大将として任命しておいたに違いない。そうしておいて、奇襲軍は馬鹿をやっていると思わせ油断させる、それが敵の狙いだったのだ。


「くそっ、間に合わないか!残念だが負け戦だ!後ろを突き破れ!」


 直孝は前方に目をやったが、奇襲が始まると同時に豊臣軍が息を吹き返しており、柵の中に入り込んでいた徳川兵は柵の外に追い出されていた。

 しかも射撃は相変わらず正確であり、銃声が鳴り響くと同時に、確実に徳川軍の戦力をもぎ取って行った。後方が潰されるまでに前方の突破は無理だ、そう判断した直孝は撤退を決断した。

 さすがに徳川軍は強く、直孝の指揮の下、団右衛門の部隊ともう一方の薄田兼相率いる部隊相手に互角以上に戦い、やがて突破に成功した。


 だがその後ろでは、徳川軍をはね返した全登率いる豊臣軍が迫って来ていた。






「木俣守安は、この塙団右衛門様が討ち取った!!」



 更に後方から団右衛門の手にかかり守安が討ち取られたと言う凶報が飛び込んで来た。それでも、直孝は振り向かない。いつかの雪辱の為に今は逃げる。直孝を支えるのはその闘志だけであった。




 しかし――――――――


「ああっ!!」







 直孝は間もなく、絶望的な叫び声を上げてしまった。両側の山から兵が下りてくる。掲げた旗は五七の桐、そして六文銭。数は共におよそ二千。

 この四千の兵が井伊軍の心を打ち砕いた。




「さ、真田だ!!」

「どうしてここにいるんだ!」

「なぜだ、伏兵なんていないはずじゃ…!?」

「と……突破しろ!ここを凌げば大丈夫だ!」


 直孝は気力を振り絞ってそう叫ぶが、兵たちにそんな気力はなくなっていた。真田幸村は播磨にいたはずではないか、どうしてここにいるのだ。

 確かに池田に大勝したのは六日前ではあるが、それにしてもほとんど敵地である丹波をどうやって抜けて来られたのであろうか。

 本人はともかく兵が持たないだろう、では一体どうなっているのだ。真田と言う家は妖術でも使うのではないかと言う恐怖が、負け戦に追い打ちをかける。いないはずの伏兵と相まって、井伊軍を恐怖のどん底に突き落とした。


「逃げるな!逃げたいのならば前の敵を突き破れ!!」


 直孝はそう叫ぶが、声が届かない範囲の兵は次々と逃げて行く。直孝はもはやこれしかないとばかりに、自ら先陣に立って伏兵への突撃を敢行した。


(こっちの心理が読まれていたと言うのか!)


 まずわかりやすい偽兵を立てた。そして二回、三回と同じ事をやり、これしか手がないのかとこちらを侮らせる心理状況に相手を追い込んだ。


 もっとも敵も馬鹿ではないから一度は深く注意しようとするだろう。だが元々井伊軍は急ぎ京に入らねばならないと言う焦った行軍になっており、ただ遅滞させるだけの小手先の手段に内心イライラを募らせ、その内物見がいい加減になってくるであろうと読んだのである。


 案の定、井伊軍は四回目の偽兵の裏に隠れている伏兵に気が付かなかった。


 そして最初のわかりやすい偽兵の所に本物の伏兵を置いたのは、敵が偽兵を見破った事で満足させると言う狙いと、四回目の段階で敵が見破った時のための保険であった。最初の段階で敵に気付かれたら素直に後退し、本陣の明石軍と伏兵の塙軍・薄田軍と共に抗戦するつもりだったのである。


 直孝はようやく敵の策の全貌がつかめた気分になったが、あまりにも遅かった。赤備えと言われた精鋭がみっともなく崩壊しだし、次々と豊臣家将兵の刃にかかって果てていく。




※※※※※※※※※




 この時、真田の旗の下には一人の女性がいた。言うまでもなく、浅川秀美である。


「一人でも敵を倒せればそれでいいから」


 秀美は火縄銃を構えていた。さすがに弾を装填する作業は幸村の部下に手伝ってもらっているが、射撃の腕は幸村だけでなくその部下が認めるほどになっていた。だがどんなに肝が据わっていても、射撃の腕があったとしても秀美は合戦の素人だった。






 しかし、それが今回は吉と出た。


(女……!)


 何とかして包囲を破らねばならないと前だけを見据え突撃していた直孝が、敵を探すあまり前線に出てしまっていた秀美を見つけ、一瞬止まってしまったのだ。




(今しかない!!)


 ここで撃たなければ、私が討たれる!秀美は、夢中になって引き鉄を引いた。


 そして、別段耳新しくもない銃声が鳴り響くと共に、秀美の放った銃弾は目の前の直孝の胸に吸い込まれ、そのまま心の臓に達した。


「ぐはぁっ!」


 直孝はそう悲鳴を上げながら口から血を吐きだし、そして二度と呼吸をする事はなかった。




「ああっ、殿!!」


 井伊の勇士たちはそう叫ぶと同時に、また別の銃声により主と旅路を同じくした。




「やっ…………やったの…………?」




 何が起きたのか実感する暇もないうちに、周囲の真田軍の勝鬨が秀美の耳に入り、井伊軍がへたり込んで行く光景が秀美の視界を覆った。

 この時秀美が着ていた小袖には直孝の返り血がかかっていたが、秀美には気付く由すらなかった。







 とにかく秀美のこの一撃をきっかけに、戦は完全に決着した。


 豊臣方は高島の佐久間安政以外の降伏を許さず、井伊、長浜の内藤信正、膳所の戸田氏鉄、伏見・近江で五万石の松平定勝と言った徳川の譜代・親族の配下はことごとく討ち取られた。 


 逃げ延びた兵もいなかった訳ではないが、将共々投降した佐久間軍五百を除けば、逃げ切る事に成功したのは千にも満たなかった。しかも木俣守安を始め各大名の家老級もほとんど討ち死にしており、近江の徳川方勢力は事実上壊滅した。










「よくやってくれた。だが無理をするな、そなたの代わりはいないのだぞ」

「それは……左衛門佐様こそ」

「私の代わりはいる。播磨の事を聞いたであろう」


 幸村は秀美の肩に手を置きながら話していた。実は播磨にて池田軍と対峙していたのは幸村の影武者であり、長宗我部盛親だけがそれを知っていた。


 盛親も三十九歳、大名の地位を追われてから十年以上人に学問を教える仕事をして飯を食ってきた。それゆえか人間ができてきたようであり、将としての器も大きくなっていた。

 幸村不在でありながら二万の兵の指揮を執る事ができたのは国持ち大名であったと言う実績だけではなく、本人の器による所も大きかったのである。

 そして、本物の幸村は山城に潜んでいたのだ。




「だから不安だったんです、池田に勝てるのかと」

「心配する事はない、現にこうして大勝できたのだから。それと、そなたの言葉がなければあそこまで井伊を追い込めはしなかっただろう」


 秀美は幸村から井伊殲滅作戦を聞かされた際、将の顔ぶれに対していくつか助言をしていた。


「団右衛門は猪突の気がある故万が一勝手に駆け出した際に備え誰か指揮を執れる人物を混ぜておく事、薄田殿は好色な故前日に遊郭に行く事を認めたっぷり女性と触れ合わせておく事……参考になったぞ」


 秀美は塙団右衛門が勇猛だが猪突猛進の人物である事、薄田兼相が遊郭に行っている間に廓を落とされてしまった人物である事を知っていた。

 幸村はその言葉に従い、見事な勝利を挙げた。もちろんこの秀美の助言は幸村しか知らない。そしてこの結果、幸村に対する信望は確定的な物になるだろう。


「それで、伏見と二条は……」

「井伊軍の壊滅を知れば崩壊するだろう」

「いよいよ次からが本番ですか」

「そうだな」

「ところで私は」

「それだけはわからん。知られていないと思いたいが」






 秀美は自分が井伊直孝を討ち取った事に危惧を覚えていた。


 別に人を殺しちゃった、とんでもない事をしちゃったとか言う訳ではない。自分の存在はほとんどの人間に対して極秘でなければいけない。あくまで徳川に立ち向かうのは真田幸村であり、自分はその幸村に仕えるただの女でなければいけない。


 と言うより秀美自身がただの小娘であり、その事を本人が一番よく自覚していた。もしその小娘を幸村が当てにしている事が露見すれば、世間から幸村が失笑を買うだろう。味方からは軽蔑されて信を失い、敵からは侮られる。

 いや侮られるだけならばいいが、どんな厄介な策の種にされるかわからない。だがたった今、秀美は井伊直孝を討ち取ると言う大功を上げてしまった。逃げた井伊軍の者に顔を覚えられているかもしれない、家康に自分の存在を気付かれるかもしれない。


「どうか、知られていませんように……」


 秀美は自分でも気が付かぬうちに手を合わせ、祈っていた。そこには、女子高生浅川秀美の姿はない。あるのは、幸村の勝利の為に全てを賭して戦いに挑む十六歳の少女、いや女性であった。


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