第二章-2 豊臣軍初戦

 幸村が大坂城の兵権を握り込んでから半月後の八月二十日、家康の予想した通り姫路城に豊臣軍来たるの報が飛び込んで来た。







「大将は誰だ!数は」

「大将は真田幸村、数は二万との事」

「二万だと?大御所様の軍はどうした?」

「恐れながら、大御所様が駿府を出たと言う報告も上様が江戸を出たと言う報告も未だ」


 この時、家康も秀忠も未だ動いていない。最初に報告を受けてから十二日、治胤が駿府城を訪れてから六日経っているのにである。

 理由はもちろん家康が高台院を恐れて慎重になり大軍を集めようとしているからだが、姫路城城主の池田利隆は憤った。


「何を考えている!我々が抜かれれば福島と毛利はいよいよ豊臣家に与するぞ!」







 池田の事情は少し複雑である。この時、池田の家は三つに分かれていた。この利隆が四十二万石を播磨姫路城で取り、備前岡山三十一万五千石を利隆の義弟忠雄が治めていた。



 利隆は亡くなった輝政の最初の妻の子であり、忠雄は後妻である家康の娘の子である。もっとも当初の領主は忠雄の兄の忠継であり、忠雄は兄の夭折に伴い領していた淡路を離れて岡山に入ったのである。この時淡路と岡山の一部を削られ、池田家は十三万石ほど損をしていた。


「全く……偽書にしても真実にしても、実に性質が悪い書を……」


 利隆はここ数日の間に届いた所の事を思いながら足を踏み鳴らした。





 この時利隆の元には三通の書状が届いていた。差出人は一通が高台院、一通が本多正純、もう一通が家康である。




「是非とも徳川のために力をお貸しいただきたい。さすれば大坂落城の暁には姫路家には岡山を与え、岡山家には安芸一国を進呈いたす」


 最初に届いたのはこの書状である。確かに豊臣滅亡の暁には豊臣家の親族たる福島正則も確実に消えるだろうが、だからと言ってここまで気前よく領国をくれてやる家康なわけがない。


 第一それをやれば姫路家が七十三万石、岡山家が五十万石となり、合わせれば百二十三万石と今の豊臣家のほぼ倍、前田家をも上回る大国になってしまう。これでは豊臣家を滅ぼした意味がない。

 「差出人」である本多正純は家康の側近だが、家康の意図をよく理解しその先の展開の読める人間ならばこんな馬鹿な事はしない。それをやれば、他の大名も領国をよこせと徳川家に言い出し、収拾がつかなくなるのは確実だからである。




「太閤殿下の孫である備中守の兵力のみを大坂へ派遣し、その後備中守の領国を両家で攻撃してもらいたい。さすれば、我らが勝った暁には備中守に池田家を任せればよいし、負ければ豊臣方に付いた備中守を討伐していたと言う名目が立つ」


 次に届いたのは高台院のこの書状である。備中守とは鳥取六万石を治めている池田長幸の事であり、父の池田長吉は一時期秀吉の養子であった。だから、長幸の事を秀吉の孫と言うのは間違いではない。


 そして二行目以降は、要するに天下は今徳川と豊臣に分かれているのだから、池田から一人ぐらい豊臣に味方させて御家存続の可能性を高めさせても罰は当たらないのではないか、そう言っているのである。


 流石にこの書状は書いた人間からして重みがあったし、内容も正純のそれと違って非現実的ではない。




「豊臣方が動くとすれば確実に池田を狙うであろう。どうか我らの到着まで城を保ってもらいたい。事が成った暁には、収公していた備前の領国を池田に返還する。更に、福島と毛利が池田に攻撃をかけた事が確認できたならば、淡路も池田の領国として認める」


 そして最後に届いたのは家康のこの書状である。要約すれば増援は出せないから自力で何とかしろと家康は言っているのだが、家康の冷たさ、と言うより乱世の冷たさを知っている人間からすればまあそうだろうなと言う気分であった。


 しかも、「恩賞」があまりにも現実的であった。大坂城が潰れたとして、いやそれどころか大坂方と福島・毛利と挟撃を受けると言う一大事を乗り切ってやっと恩賞は旧領の回復に過ぎないのだ。そして、福島や毛利が動かなければこの危機を乗り切っても淡路は池田家の元に戻ってこない。

 もっとも、いくら功績があっても池田をこれ以上太らせると危ないと言う家康の判断は池田家首脳部もよくわかっているのだが。


「偽書にしてはな……」




 一番に届いた正純の書は明らかな偽書であろうし、二番目に届いた高台院の書は紛れもなく本物であろう。

 だが最後に届いた家康の書が問題であった。偽書と呼ぶには内容が家康のそれに適合しすぎているし、本物と呼ぶにはどこか怪しい。そのどこかがわからないのだ。


「やむを得まい。防戦に徹する」


 家康の書が偽書であればそれでいい。真実だとしても一手で大坂城に押し出して行けなどという無茶を家康が言うはずはない。徳川本隊が来るまで耐えていればそれでいい。利隆の判断は、防戦と決まった。








「それはおかしゅうございましょう」

「どういうことだ」

「大坂から二万の兵がとのことですが、大坂の常備軍は一万数千ですぞ」


 しかし、防戦に徹する旨を発表した利隆に異議の声が上がった。利隆がやや喧嘩腰な口調で尋ねたが、異議を示した家臣はひるまなかった。


「わかっている、だが現に二万の兵が来ているのだ」

「大坂の兵力はここしばらくで急に膨れ上がったのでしょう。とすればまともな訓練など受けていない、水増しの兵であると考えるのが自然。それに常備軍の七手組も弱兵。二万と言う数を額面通り受け取ってはなりません」

「ではどうせよと言うのだ」

「積極的に打って出るべきです。ここで勝てば敵の気勢をくじけます」

「他の者は」

「それがしもそう思います」

「同じく」



 言われてみればそうである。池田軍は正規兵であり、大坂軍は弱兵か水膨れの新兵なのだ。利隆の手勢およそ一万だけでも戦えそうである。利隆もそれを見落としていた事を認めざるを得なかった。だが、利隆の心の中には真田幸村という人間が何をするかわからないと言う恐怖があった。


「では、国境にて迎え撃つ事とする。岡山の忠雄にも二千ほど出させよう」


 その結果、中間的な案である迎撃態勢を取ると言う形で決着した。それでも不満を顔に出す者もいたが、利隆はこれが最終決断だと言う顔をして不満を抑え込んだ。



「岡山については」

「来なければ来ないでいい。福島が来る可能性のあるゆえ出せないと言われてもそれはそれで仕方がない事だ」

「ではなぜあの様な事を」

「来れば儲け物、その程度の事だ」


 と利隆は自信満々に言ってみせたものの、内心では二つの思案が渦巻いていた。

 一つは真田が何をするかわからないと言う恐怖、もう一つは忠雄に対する嫌悪である。



 利隆は三十歳の働き盛りであるが、忠雄は十二歳の幼年である。長幸ならともかく忠雄が自分と大差ない領国を持っているのは本人だけでなく、利隆の家臣たちも気に入らなかった。忠雄が来なくて勝利すれば忠雄に差を付けられるし、負ければ忠雄の不実を責めたてる事もできる。来れば来たで、後方に当てがっておいていざと言う時の盾にでもすればよい。こんな考えが利隆とその周辺にはあった。実はこの領国分けは大大名である池田の分裂を図った家康の策であったが、ここではそれが悪い方向に出ようとしていた。










 二十一日、播磨と摂津の国境で利隆は豊臣軍と対面した。


「敵の旗は」

「六文銭と五七の桐、そして七つ酢漿草の旗が見えます」

「七つ酢漿草だと……ふん、長宗我部か」


 利隆は長宗我部と聞いて鼻で笑った。長宗我部家はかつて四国の覇者であったが、関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方し失領、現在の当主盛親は寺子屋の師匠に成り下がっていた。


 当然、関ヶ原以来戦の経験などない。それでも京に住まう牢人たちの中では格上であり大坂方が挙兵したとなれば必ずや味方に引き込んで来るだろうとは考えていたが、利隆はまったく評価していなかった。


「関ヶ原の事を父から聞いている。宮内少輔(盛親)はとんだ腰抜けだとな」




 関ヶ原の際、長宗我部軍は吉川広家の後ろに陣を張っており、吉川の内通のせいもあって関ヶ原に兵を進めなかったのである。もっとも、盛親の失領は関ヶ原のせいと言うより帰国後に兄を殺す醜態を犯したせいだと言う見方も存在しているが定かではない。

 とにかく、利隆にとって盛親は余りにも与しやすい相手だった。


「落ち着いて戦えば良い。敵は何としても初戦の勝利を得んと焦って攻めてくる。そこを叩けば我らの勝ちだ!」

「申し上げます、池田忠雄様、我らより五里後方にご着陣なさいました」

「来たのか……まあ初陣だ、ゆっくり後方で構えていて勝ちが決まったら後からついて来ればよいと申し付けておけ」


 慎重であった利隆も、家臣たちの強気な意見や長宗我部の関ヶ原での失態を思い出すにつけすっかり豊臣軍を呑んでかかっていた。



 そして伝令が利隆の視界から消えるのとほぼ同時に、前面の豊臣軍が動き出した。


「よし、正規兵と牢人の格の違いを見せてやれ!」


 利隆の命と共に、池田軍は一斉射撃を開始した。

 豊臣軍の先鋒を走っていた数十人が倒れたが、ひるむ事なく豊臣軍は進んでくる。


「ひるむな、進め!」

「くそっ、撃ち返せ!」


 そして、こちらもとばかりに鉄砲を撃ち返して来た。


「怯むな!どうせ素人だ!狙いは不正確だ、そんな物にやられるな!」

「しかし敵の狙いは案外正確です」



 だが音が大きいのは豊臣軍である。

 一万対二万なのだから数が多いのは当然だが、予想外に狙いが正確であった。


「ここは守りに徹するべきだな、竹束と板楯を立てろ!」


 鉄砲が日本に伝来して七十年である。鉄砲の存在は既に周知の事実となり、鉄砲に対する対策も整っている。


「守りを固めればこちらの方が強い!強引なひた押しなどすぐに先が見える!」


 豊臣軍は鉄砲が通じないと見るや鉄砲隊を下げ、再び足軽を向かわせて来た。


「よし来た!にわか雑兵どもを叩きのめせ!」


 利隆の檄と共に池田軍の兵士が飛び出してくる。豊臣方と比べるといかにも装備がしっかりしており、これが正規兵なのだ、お前たちとは違うのだと言わんばかりである。

 実際、豊臣軍の雑兵たちは正規兵一人に四人でやっとこさ互角と言う状態であり、二十分もしない内に形勢は池田方に傾いた。

 力の違いを思い知らせてやったぞと利隆は至福の時間に入った。


「お前らなんかに負けてたまるか!」




 が、それは一瞬だった。雑兵たちが崩れた所から出てきた牢人たちが予想外に強い。


 関ヶ原から十四年、西国には改易された大名が多く、そして徳川幕府が彼らの家臣を採用しなかったため武士は余っていた。辛酸をなめ続けて来た彼らの徳川に対する恨みは強く、それが彼らの意欲を駆り立てていた。


「ええい、しぶとい!」


 利隆は再び歯噛みした。初戦の勝利を得んと必死になってくるのはわかるが、これではこちらの損害も馬鹿にはならないではないか。




「耐えろ!どうせ明日は今日より攻撃が激しくなることはない!今日耐えきればそれで勝ちなのだ!」


 既に戦いは一刻(二時間)近くに及んでいた。まさにがっぷり四つであり、どっちが倒れるかまで戦いは続きそうな気配を見せていた。


「忠雄様に援軍を頼んでは」

「駄目だ!敵はまだ幸村が動いていない!こっちは忠雄を出したらもう後がない!」


 前線で采配を振るっているのは盛親で、幸村はまだ本陣に留まり見た所二千の兵を残していた。忠雄軍をつぎ込めば幸村直属軍に抑え込まれそうで、それでは何の意味もない。


「宮内少輔め……甘く見すぎたか」


 盛親の見事な指揮に、利隆は少し後悔した。やはりあれは吉川に抑え込まれていたせいでまともに戦えばこれほどまで強いのだ、と言う事実を突き付けられたのが腹立たしい。


「申し上げます!敵本陣が動き始めました!」

「遂に来たか!よし今だ、忠雄に援軍を頼め!」


 だがその直後に飛び込んだ報告に、利隆の顔がほころんだ。


 同じ後がないならば先に兵を出した方が期待を裏切られるだけ心理的に損ではないか。勝利は無理にしても、ここから追い返して引き分けに持ち込む事はできそうだ。この場合引き分けは勝ちも同然なのだ。


「よし、敵はもう手がなくなった!ここを凌げば勝ちだ!!」


 利隆は大きな声を上げて兵たちを督戦する。勝利を確信した利隆の声は、一刻近く声を張り上げてきたも関わらずさわやかであった。







 しかし、その利隆の余裕を打ち砕く声がここで後方から聞こえて来た。


「申し上げます!福島軍が迫って参りました!」

「何っ!」


 本陣に突如飛び込んで来た伝令兵が、福島軍到来を告げたのである。


「馬鹿な!ここは播磨だぞ!どうやって安芸からここまで!」

「いやしかし……」

「迫って来たのならば備前や備中に入った段階で押し止められるであろう!というよりなぜその段階で報告がないのだ!」

「しかし現に」

「下がれ!」




 利隆は腹を立ててその伝令兵を放り出した。


「どうして福島がこんなところに来るのだ!幻覚でも見おったか!」


 利隆にとって、福島正則はすでに敵であった。その事を岡山にも徹底させているし、瀬戸内海からの上陸もさせないようにしている。

 ならどうして福島軍がこんな所までやって来られるのだ。利隆は憤りと困惑を露わにした。


 そこにまた伝令兵が飛び込んで来た。


「申し上げます!忠雄様の軍勢、福島軍の攻撃を受け危機!援軍には出られぬとの事!」

「馬鹿を言え!どうして福島軍が来られるのだ!」

「ですが黒地に山道の旗を掲げた軍隊が現に」

「どうせ……あっ!」




 成り済ましだろう、と言いかけた所で利隆は動かなくなった。




(やられた……!いつの間に奴らは後ろに回り込んだのだ…!)

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