第一章-4 女子高生、淀殿をビンタする

「どうなっておるのじゃ!」







 慶長十九年八月五日、大坂城では淀殿がいつにも増していら立ちを募らせた表情で両手に持った書状を休みなく動かしていた。







「徳川の手先からあんな戯けた書状を押し付けられたと思ったら今度は……!」


 四日前、本多正純から七手組の訓練を咎める書状を受け取り、淀君の苛立ちは爆発寸前であった。


 だが今持っている書状はそれではない。正純から寄越された書状はとっくの昔に破り捨てられ、火鉢に放り込まれて灰になっていた。







「まさか!よりによって、こんな事など。家康は吝嗇で有名、ありえませぬ」

「では何だと言うのじゃこの書状は!」

「家康は焦っております、我らを乱すための偽書では。近頃、大坂の町に不埒な噂が漂っており、それに乗じての……」

「ふん。そもそも、こんな物が出たのはそなたの責任ではないか」


 淀殿の乳母にして側近である大野治長の母大蔵卿局が必死に怒りを鎮めようとするが、淀殿は大蔵卿局に書状を突き付け更に怒りを露わにした。




「そなたがもはや戦いは避けられぬなどと言うのがいけないのではないか!」

「それは……」

「それで徳川を恨む市井の者をかき集めよ、と申したではないか! うっかり賛成したわらわもわらわじゃが、何故徳川に与する不逞の輩が紛れておる事に気付かなんだ!」


 正純を大坂城から放り出した後、大蔵卿局は淀殿にもはや徳川が豊臣家を潰しに来るは確実、よって急ぎ兵を集めるべしと意見していたのである。

 確かに、急募をかけた結果それなりの兵の数は集まっていたのだが、その分徳川に味方する可能性のある人間が紛れ込むのも容易になっていた。



「いえ、それは……」

「それはではない! もうよいわ! そなたの言う偽書を抱え、そしてばらまき大坂城を乱す輩を早く捕まえよ!」

「はっ……」







 大蔵卿局は急ぎ足で本丸から走り去って行った。


「あの狸親父め……そこまでして豊臣を潰すつもりか!」


 淀殿は書状を見ながらわなわなと手を震わせている。そして左下にちらりと目をやり、書状が紛れもない「家康の策」である事を確認した。


「よく知っておるわ……あの狸親父の花押だ」


 当然ながら、淀殿が家康の書状を受け取ったのはこれが初ではない。それだけに、家康の花押もよくわかっていた。









※※※※※※※※※




「ちょ、ちょっと待て!」

「待てませぬ! 証拠はすでにあがっております!」

「馬鹿を言え、そんな偽書に……」


 大蔵卿局が本丸から走り去ったちょうどその時、大坂城の一角で異変が起きていた。

 七十近い老人と数人の供が、美男子と言う形容が似合う二十代前半の青年と百人近い兵士に取り囲まれていたのである。青年と兵士たちは刀を抜いていた。


「相手が誰かはわかっています。ですが、我らを除けば家康にもはや恐れる物はなし。となればこれぐらいの報酬を寄越しても罰は当たりますまい。あるいはそんな物は知らん、ととぼけてもよいのですから」


 青年、木村重成は老人、織田有楽斎に刀を持ちながらにじり寄って行く。


「待て! 大蔵卿局殿に兵を集めるべきと諫言したのはわしじゃ! 信じてくれ、これは事実じゃ!」

「なるほど、そうすれば戦の名目ができる……ですか。自白なさいましたね、もはやこれまでです。斬れ!」


 有楽斎の言葉は確かに真実であったが、それがかえって重成の疑いを濃くし、確信にまで持ち込ませた。付き従う兵たちにも、躊躇いの色はない。重成の斬れと言う言葉と共に、兵士たちは有楽斎に突撃した。


「あぎゃぁぁぁ!」


 まもなく、有楽斎とその子長頼、両名の供は重成らの刃にかかって果てた。










 そしてこれとほぼ同じことが、別の一角でも起きていた。


「な、何をする! わしは織田信雄だぞ、淀殿の従兄弟だぞ!」

「我らは豊臣家の家臣、我らがお仕えするのは豊臣家だけです」


 追い詰められているのは現在は出家して常真入道と名乗っている織田信長の次男、織田信雄とその三男信良、そして両名の従者十数名。追い詰めているのは豊臣家直属の兵士、七手組百人ほど。


「わしを斬ればどうなるかわかっておるのか!?」

「だったら申し開きを淀のお方様の前でなさったらいかがですか? こんな物が出た手前無駄だとは思いますが」


 七手組の隊長と思しき男が信雄に書状を突き付けた。


「たわけ! なぜわしがそんな事をせねばならん!」

「織田の栄耀栄華のため……違いますか?」

「秀頼君は紛れもなく織田の血を引いているお方! 織田の栄耀栄華はもう十分達成されておるわ!」

「ですが信雄さまの御歳ならば秀頼君が今崖っぷちにある事はご存じのはず」

「いい加減にしろ! 貴様らはどうしてもわしを内通者にしたいのか!」

「それで」

「それでだと!? こんな下らん内輪もめをやっていては徳川に潰されるぞ!」


 信雄がそう言った瞬間、隊長は刀を抜いた。


「なっ!?」

「わしを殺せば徳川が待っている、ですか! とうとう自白なさいましたか! 御免!」


 七手組にしてみれば信雄と家康が内通しているのは確定事象であり、そんな相手にいくら口を動かした所で無実を証明するのは無理であった。




 ちなみに有楽斎は本当に徳川に内通していたが、信雄は内通していなかった。

 いずれにせよ、彼らにはそんな事は関係なかったのだが。


「うわぁー」


 信雄は急いで逃げ出そうとしたが、十数名対百名ではそれすらできそうになかった。十分もしない内に、信雄・信良を含む全員が七手組の手により一期を終えたのである。









※※※※※※※※※




「何の騒ぎじゃ!」

「申し上げます!」

「何じゃ、説明せい!」

「大野治房様が殺されています!」


 さて淀殿は本丸に急ぎ飛び込んで来た女官に事態の説明を迫ったが、その女官が持って来た話は有楽斎・信雄とはまた別の問題だった。治長の弟、治房が殺されていると言うのだ。


「何じゃと!? 誰じゃ犯人は!」

「わかりませぬ」

「はよう調べて来い!」

「はい…」


 女官を去らせると、淀殿は大声で治長を呼び付けた。


「治長はどうした、治長は!」

「こちらにおります」

「早く来い! いったい何が起こっておるのじゃ、説明せい!!」



 ガラッと言う音と共に襖が開けられると同時に、淀殿の顔に困惑の色が走った。


「そ、そなたらは誰じゃ……それは一体何じゃ!?」

「紛れもなく、大野治長です」





 確かに治長はそこにいた。

 しかし、後ろ手に縛られて転がされ、口に猿ぐつわをはめさせられた悲惨な姿で。




 代わりに毅然と座っていたのは、四十半ばぐらいの見慣れない顔で着古した装束を身に纏った武士とその武士の従者と思われる数名の男、そして彼らの後ろにはいったいどこの人間だかわからない、わかるとすればそれが女性であり十代半ばである事だけと言う面妖な格好の人間が仁王立ちしていた。







「何じゃ、何なんじゃ貴様らは!?」

「豊臣家の為にやって来た者です。大野治長が徳川と内通せし事、すでにご承知のはず。我らは豊臣家を徳川に売り渡す謀反人、大野治長を捕らえただけです。今頃、もう二人の内通者、織田有楽斎殿と常真入道も捕らわれているか、それとも死んでいるかのどちらかになっているでしょう」

「何じゃと…………」




 その面妖な格好の少女、浅川秀美は淀殿にもまったくひるむことなく口舌を回転させる。


「こちらにおわすのは、かつて二千で三万五千の徳川軍を迎撃した真田佐衛門佐様。このお方に兵を任せれば、徳川など物の数ではございませぬ」

「詰まる所、お主はこの真田幸村に兵を任せろと言うのか?」

「いかにも」

「ふん、それでわらわには何をせよと?」

「何もしないでください。あえて言えば、黙って幸村様の言葉にうなずいていただければ」


 秀美の言葉に何とか理性を保って答えていた淀殿であったが、何もするなと言う言葉に抑えていた怒りが爆発した。


「何じゃ、わらわが邪魔だとでも申すのか!!」

「申します!!」




 怒りを露わに吠えかかる淀殿に対し全く怯む事なく言い返す秀美に、幸村さえも後ずさりしそうになった。




「かつて治部少輔殿(石田三成)在世の際に、家康は前田殿と共にこの治長が自分の暗殺を企んでいると言う噂を流しました!

 その結果、前田殿は母を人質に出して家康に誠意を示さねばならなくなった! その時、家康の恐ろしさを感じ家康に逆らっては大野家の明日はない、治長がその考えに至ったとして何の不思議がありますか! そんな人間を側近に置くなど、あまりにも不注意にして不用意です!」

「わらわを何だと思っておる? 秀頼の母じゃぞ!」

「それがなぜ近親である有楽斎や信雄に見捨てられるんですか? あの吝嗇な家康が一国を保証するなどあり得ないはずなのに、それに乗せられているんですが?」

「貴様、どうしてわらわの元に送り付けられた書状を知っておるのじゃ!?」

「家康は確認できるだけでも十枚は書状を撒いていました。これは有能な真田忍びが調べたのですから間違いありません。無論、私の手の中にも入ったのです」




 秀美は書状を真田の家臣から受け取り、淀殿に突き付けた。

 その書状には、豊臣家を自滅に追い込むため挙兵に傾かせてくれて誠に感謝する。大坂城を落とした暁には、有楽斎に摂津を、信雄に河内を、治長に和泉を進呈すると記され、最後に家康の花押でしめくくられていた。




 そしてその内容は、淀殿や重成が受け取った書状と寸分たりとも違わなかった。




「これが現実です、受け止めて下さい」

「うるさい黙れ、口答えをするな!」

「いい加減にしてちょうだい!!」




 とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、秀美は淀殿に敬語を使わなくなった。




「おのれっ……秀頼の母たるわらわに向かって何たる口のききようじゃっ」

「今まで聞いてて、何かおかしいと思わなかったの!?」

「何を言いたいのじゃ!?」

「どうしてこんな妙な格好の娘が、ここまですんなり来られたかって言う事について、何とも思わないの!?」

「……し、知るかそんな事!」

「やっぱりあなたは邪魔なだけだわ! 普通ここまでくる間に、誰かが取り次いでいるはず、あるいは誰かが止めているはずって考えるでしょ?それすらできないだなんて……!」




 秀美の言葉は荒っぽくなり始めていた。秀美の変貌に淀殿だけでなく、いや淀殿以上に幸村たちが驚いていた。


「賢しら顔をしてわらわに説教か! 大概にせい!!」

「言っておきますけど、これから大坂城は戦場になります! そんなとこに秀頼君の母を置いておけって言うほど、私も非情じゃありませんので!」

「ふざけるな、わらわにこの城から出て行けと言うのか!」

「はい」

「ただの小娘の分際で……誰か、この娘を斬り捨てい!」

「やれるものならやってみなさいよ、代わりのいる分際で!!」

「わらわの代わりだと!? そんなのがいるか!! まさか自分とは言わんだろうな!」

「やっぱり無理か……おとなしく幸村様に全権を渡してくれればそれでよかったんだけど……仕方ありません、お願いします」




 秀美は三歩ほど下がり、襖の傍らに座って手をかけた。そして襖を開くと同時に、淀殿は声を失った。



「あっ……」


 そこに立っていたのは紛れもなく、高台院こと太閤秀吉の正室おねであった。










「今日から大坂城の主はこの方です」


 秀美はゆっくりと歩みを進めるおねに叩頭しながら言った。


「まったく、本当に強い娘です」


 おねは秀美と初めて会った日の事を思い返していた。







※※※※※※※※※







「わらわに大坂城に戻れと?」

「はい、他に豊臣家の終焉を防ぐ方法はありません」


 幸村たちが大坂の町に噂を撒いていたころ、秀美は佐助と共におねの元を訪れていた。


「しかしわらわが大坂城を離れて十六年経つ。今や大坂城は茶々の天下じゃ。今更わらわが戻る場所など」

「いえ、しょせんは正室と側室。正室のあなた様以外に今の豊臣家をまとめられる人物はおりません」

「すまぬが、わらわはもう俗世には戻りたくないのじゃ。お引き取り願おう」

「そんな」

「そなたの気持ちを無為にしたくはないが……」

「わかりました。高台院様が首を縦に振ってくれたら帰ります」

「頑固じゃな」

「はい」

「わらわの気が変わる事があるかもしれん、せいぜいそれまで待て」







 おねは淀殿に心底嫌悪を感じており、当然と言うべきか交渉は不調だった。

 だがここであきらめたら意味がない、この時代にやって来た意味がない。絶対、何らかの意味があるはずだ。


 何かを、自分を慕ってくれる幸村のためになさねばならない。その一念に支配された秀美は延々三日三晩、おねの元を離れようとせず、不眠不休の上に食事も取らなかった。

 一日三食に慣れていた現代人の秀美には辛かったが、それでも必死に耐えていた。





 そして秀美がおねの元を訪れてから三日経った二十八日、秀美の覚悟を感じ取ったおねは三日間顧みていなかった秀美に声をかけた。


「……そなた、未来から来たと言ったな」

「はい、四百年先からです」

「もし、わらわが大坂城に入る事によってそなたの知る歴史と世の流れが変わると言うのなら、生き延びるはずであったそなたの先祖を殺める事になるのかもしれんぞ。

 そうなればそなたは一体どうなる」

「その覚悟がなければこんな事はしません」

「……そうか。わらわが必要だと言うのならば大坂城に戻ろう」

「ありがとうございますっ!」




 おねはついに大坂城に入る事を決断した。秀美は三日間の不眠不休絶食でおぼつかない足取りになりながらも、おねに最大級の感謝の意を示した。


 秀美の言った通り、おねは正室で淀殿は側室なのである。それに大坂城の兵たちの中にも、秀頼の母と言う権威を振りかざす淀殿に嫌悪感を覚えている者が少なくなかった。

 ましてや淀殿の側近と親族二人が内通していると言う情報がまことしやかにささやかれる状況にあっては、淀殿に対しての不信は増しこそすれ消えはしなかった。

 一体豊臣家はどうなるんだという状況の中で現れたおねの存在は、まさに救い神であったのだ。だからこそ秀美も幸村も、途中に何の障害も受けることなく大坂城本丸に入る事ができたのである。




 しかし、先ほど秀美が言った通りもし淀殿がおとなしく幸村に全権を渡してくれるのならば、おねを呼び戻したり治長たちをこんな罠にかけたりはしなかっただろう。

 だが、それが淡い望みである事を嫌と言うほど知っているからこそ、秀美はこんな強硬手段を取ったのである。




※※※※※※※※※




「……もはや城兵のほとんどは高台院様に従ってるわ。あなたはゆっくり見守っていて」

「ふん、こんな老婆に何ができる!」

「私の知る限り、高台院様はあと十年生きられるわ! 大坂城とその街には、本気でそれぐらい籠城できる兵糧や金銀があるはずよ! 太閤殿下の威光をなめてるの?」


 立ち上がった秀美は、再びゆっくりと、そして先程よりさらに淀殿に歩み寄った。


「おのれ……秀頼の母たるわらわに、何たる無礼! 誰もやる気がないと言うのなら、いっそわらわの手によって」

「ふざけないで!!」







 その声と共に綺麗な音が鳴り響き、それと同時に淀殿が倒れ込んだ。




 その余りにも綺麗な音に、右手を力強く振り抜いた秀美に、そして右の頬を押さえて倒れ込んでいる淀殿に、幸村はおろかおねすら声を失った。




「徒手空拳の身から太閤殿下を天下人にした高台院様と、天下人への階段に足をかけてから側室になったあなたでは勝負にならないの! これ以上抵抗すると本気で容赦しないわよ! すぐに出てって!!」




 淀殿は右頬を押さえながら、わなわなと震え上がっていた。

 怒りではなく、恐怖で。




「お、おのれ……貴様だけは許さんぞ!!」


 淀殿はただ小刻みに震えていた。




「高台院様、よろしくお願いいたします」

「う、うむ……」


 おねもまた、秀美に気圧された様子で淀殿がいた座に着いた。


「淀のお方様は秀頼君の意向により大坂城を離れる事になった、これでよろしいですね」


 秀美はおねに向かってそうはっきりと言い放ち、そしてその言葉はおねの命令として正当化される事になったのである。







 そして翌日、淀殿は大坂城からの避難と言う名目で城を追われ、大野治長は処刑された。

 治長と治房の下の弟治胤及び大蔵卿局は淀殿の世話役と言う形で大坂城から追放され、そして高台院の命令により真田幸村を大坂城軍の総大将とすると言う命が下されたのである。




 この時、浅川秀美と言う名を知っていたのは幸村とその従者、高台院だけである。秀美にいかに知恵や度胸があろうとも、自分が浅川秀美と言う得体の知れぬ小娘である事を秀美自身が一番よく知っていた。

 ここで姿を現せば、豊臣の士たちをかえって失望させるだけであろう。






 秀美はこの時、幸村を導く存在から幸村に仕えるただの女になったのである。

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