第一章-2 四百年前の世界

「ううっ……」




 七月二十二日、紀州の山中に男のうめき声が響きわたっていた。その男の首には手裏剣が刺さっており、同じように倒れうめいている男が十人ほどいた。


 その倒れている男たちを見下ろしていたのは真田幸村である。


「案の定とは言え雑魚ばかりだな」

「案の定?」

「家康は我々を大和の高野山などではなく豊臣家の親族である浅野家の領国である紀州に置いた。高野山と九度山では大坂への距離がずっと違う。九度山を抜け出せば大坂は目の前だ。家康は我らに大坂城に入ってもらいたいのよ。流刑になった罪人をかくまえば討伐の大義ができるからな」

「なるほど……」


 だから、脱出してくださいと言わんばかりにこんな雑魚を置いたのだろうとまでは言おうとはせず、口を閉じて歩を進めた。







「雷の日……」


 幸村は、父の遺言にあった「雷の日」と言う文言を思い出していた。もちろんあれから三年の間、雷の日が他になかったわけではない。


 だが、それにしても昨日の雷は特別、いや何かの天変地異の前触れではないかと思うほどに異常であった。音はしなかったものの、九度山にいてもはっきりと存在を感じられるほどの明るさであり、それに光っている時間が妙に長く、それでいてパッと消えたのである。


 実際、摂津・河内・和泉と言った辺りでは民草が大混乱に陥っていた。


「明日、決行する」


 その雷を目の当たりにした幸村は二十一日の夜に突然共に暮らしていた三十人ほどの同志たちを集め、翌朝九度山を脱出すると宣言した。

 遂にこの時が来たと喜ぶ者もいたが、あまりにも急な幸村の言葉に戸惑う者が大半であった。だが、それらの者も幸村を信頼していたし、謎の雷を目の当たりにして何か起こるのではないかと言う気持ちになっていたため結局は幸村の言葉に従うことになった。







 幸村が大坂にたどりついたのは二十四日である。謎の雷から二日も経っていると言うのに大坂の町は相変わらず混乱の最中にあった。


「豊臣家は終いだだの、いや家康が死ぬ前触れだの、あるいは帝が崩御する予兆だの……」


 幸村の配下の忍びであり、真田十勇士の筆頭と称される猿飛佐助のもたらした民草の言葉は、大坂の町の混乱ぶりを如実に物語っていた。


「しかしどうします?こんな状態じゃうかつに動けませんよ」

「だが今一刻でも遅れれば通常の一日遅れるのと変わらん」

「……娘が気になりますか」

「ああ」

「家康には絶対に渡せないのだ」


 あの娘が何者なのかはわからない。わかるのは、彼女を家康の手には渡してはいけないと言う事だけ。


「幸村様!」


 そこに泡を食って飛び込んで来たのは佐助と同じく後に真田十勇士と称される忍び、霧隠才蔵であった。


「片桐殿が大坂城を追放されたとのこと!」

「まことか!」


 その才蔵の報告を聞いた幸村の顔が青ざめた。今の今まで豊臣家が暴走していなかったのは片桐且元あってであり、その且元を豊臣家自らが放逐するとはまるで最後の一本の命綱を投げ出すようなものではないか。


「理由は何だ」

「家康の手先の坊主が方広寺の鐘銘にケチをつけたとか。その結果頭に血が上った淀のお方様が片桐殿を怒鳴りつけ、片桐殿の対応を弱腰と非難なされ……」

「ああ……」


 幸村は思わず天を仰いでしまった。


 おそらく、且元は家康が死ぬのを待てと淀殿に言ったのだろう。且元にしてみれば冷静にして理性的な回答をしたつもりだが、家康の手先の坊主につまらない言いがかりをつけられ神経を逆撫でされた淀殿にはかえってそれがいけなかったのだろう。


「それで淀のお方様は七手組の訓練を始めているとか」

「馬鹿な……それこそ戦の名目を与えるも同然ではないか」

「これはもう一刻を争う事態ですな」

「わかった」


 幸村たち一行は焦燥に駆られながら大坂の町に飛び込んで行った。





「そう言えば三日前、徳川様の使いの坊さんが大坂城に来たらしいな」

「ああ聞いた聞いた。何でもさ、方広寺って知ってるだろ、今度豊臣家が建てるって言う寺。なんか鐘銘に文句があるからってさ」


 半刻(一時間)歩き回っても何の手がかりもなく、佐助共々裏路地に入っていた幸村がその何度目になるかわからない会話を聞いた時である。


「んっ!?」


 殺気を醸し出し怪しまれないためにそういう反応は控えていたつもりであったが、幸村はそう声を上げながら会話のあった方を向いてしまった。

 案の定、会話をしていた二人は驚いてどこかに走り去ってしまった。


「どうしたんです」

「いや、つい……」


 幸村も四十七歳である。十四年も幽閉されていたにも関わらず、感覚は鋭敏になりこそすれ鈍ってはいない。


「……三日前に方広寺の事件が起きたって事は……やっぱり……そうなんだ」


 幸村と佐助の耳に聞き取れるかわからないほどの小声が滑り込んできた。


「……今、聞いたか?」

「聞きました」


 幸村と佐助がお互いにその小声を聞いた事を確認し、同時にそちらの方を振り向くとそこには無宿人が寝泊まりするような粗末な小屋があった。

 二人が小屋に恐る恐る近づき、ゆっくりと戸に手をかけ、半分ほどまで開けた所で動けなくなった。


「えっ……?」







 間違いない。昌幸が書き残した、いや描き残した遺言の娘だ。




「えーと……今は慶長十九年の七月二十四日ですよね?」

「うむ……」




 その娘の言葉に、幸村は呆気にとられながらうなずいていた。




「そうなんだ……やっぱり私、四百年前の時代に来ちゃったんだ……」




 この少女は何者なのだろうか。幸村も佐助も目の前の少女を穴が開くほど見つめていた。少女も右手に黒い何かを持ったまま動こうとしない。この奇妙な沈黙を破ったのは幸村だった。







「そなた……もしかして名を浅川秀美と言うのではないか?」

「えっ!?」







 少女は幸村の言葉に飛び退き、佐助は思わず幸村の方を向いた。


「な、何で知ってるんですか!?」

「おお……やはりそうなのか! そなたに会いたかったぞ!」


 幸村は思わず歓喜の声を上げた。その音量の大きさに、佐助が思わず幸村の袖を引きそうになったほどである。


「どうしたんですか?」

「そ、そなたこれからどうするつもりだ?」

「どうするって言われても……」

「なら私と共に来てくれないか?頼む、この通りだ!」


 目の前で手を合わせてまで頼み込む幸村の勢いに圧倒されたその少女、浅川秀美は思わずうなずいた。


「ところでおじさんは……?」

「今は言えない、後で話す!おい、皆に伝えて来てくれ」

「了解」


 幸村は浮かれ上がって崩れそうになった顔を引き締め、佐助に命を下した。







 ※※※※※※※※※







「おじさんが真田幸村……様?」

「ああ、そうだ、私が真田幸村だ。それでそなたは先ほど、四百年も前に来たと言っていたが……」

「えーっと……私が生まれたのは1995年6月13日、つまり平成六年……あれ?ってことは今は慶長十九年、つまり1614年だから……」

「要するにそなたは三百八十年前から来たのか?」

「いや、私は今十六歳で、2010年の……」

「すると三百九十六年前からか……」

「そういうことになります」


 西暦は幸村たちにとっては全く未知の存在である。ただ単に、1995引く1614及び2010引く1614の計算をした幸村が数を言い当てたに過ぎない。


「そうか」


 幸村は秀美の言葉にうなずいたが、他の者はただただ秀美を見つめるだけで何も言わない。


「秀美とやら、四百年後ではそのような格好が当たり前になるのか?」

「はい……私たちの年代ではみんな…………」


 その沈黙を破り、そして再び黙り込んだのは霧隠才蔵である。










 浅川秀美、十六歳、高校一年生。それほど濃くはないものの茶色に染められた髪、左右にゆるく結ばれたいわゆるツインテールと言う髪型、全体的に濃い茶系統でまとめられたブレザーとスカート、そして白く長い靴下と真っ黒な通学靴。

 とまあ、平成二十六年の日本人から見ればありふれた格好であったが、慶長十九年の人間から見ると余りにも奇妙な格好をしていた。










(怪しまれてるのかな……)



「やはりお館様はすごいお人だ!」

「やはりそなたこそ我々を導いてくれるのか!」


 しかし、そこいら辺の女子高生に過ぎない秀美に、幸村たちはまるで女神を見るかのように歓声を浴びせていた。


 これまでまともに友人も作らず初恋さえしていなかった秀美に取り、こんなにもてはやされたのは初めての体験であった。

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