第一章 女子高生、大坂城を掌握する
第一章-1 国家安康 君臣豊楽
真田昌幸の死から三年の時が流れた慶長十九(一六一四)年。
豊臣家は、関ヶ原から十四年の間にずいぶんと孤立していた。
この三年の間に、浅野長政・幸長父子や前田利長、加藤清正など豊臣恩顧の大名が次々と世を去り、豊臣家と徳川家の対立が決定的になった際豊臣家に力を貸す者はかなり減少していた。
そして、豊臣家の当主である秀頼の母にして事実上の大坂城の主である茶々こと淀殿はその危機的状況に全く気付いていない。
淀殿が愚かであると言う訳ではない。家康のやり方が幾段も上であったと言うだけの話である。
家康の周りにはその家康のやり口を補強する金地院崇伝、南光坊天海、林羅山と言った坊主たちがおり、さらにその上には家康の盟友である本多正信がいた。
豊臣秀吉の死後、五奉行筆頭である石田三成を関ヶ原に引っ張り出し、徳川幕府を創立し徳川の天下を固めんとしたのは、家康というより正信の手腕による部分が大きいとも言われていた。
時に家康は七十二歳、正信は七十六歳。当時としてはどちらも相当な長寿であり、それに二人自身が自らの寿命の尽きかけている事を自覚していた。
それに対して豊臣の後継者である秀頼は二十一歳であり、その才覚は父に劣らないと言う噂もあった。
このまま自分たちが死ねば、果たして自らの息子たちである徳川秀忠と本多正純で豊臣家を御する事ができるのであろうか。
秀忠は三十五歳と脂の乗った年齢であるが、関ヶ原の戦いにて中山道を通り関ヶ原に向かおうとした際、わずか二千の真田軍に阻まれて四万近い兵を無為に停留させてしまった失態を犯しており、正面切っての戦となると心もとなかった。
そして正純は父に負けない知謀を持っていたが、若年時に家康に反抗して諸国流浪を命じられた正信と違って苦労した経験に乏しく、その分配慮が足りなかった。
そんな両名でも徳川の天下が確立され泰平の世が到来していれば問題はないが、まだ天下に乱の根源となり得る豊臣家が残っている状態では不安が残る。
自分たちが生きている内に、乱の根源となる豊臣家を本格的に潰す。その為の初めの一手が、今打たれようとしていた。
「方広寺の鐘銘は一体どういう料簡で刻まれた物か、お聞かせ願いたい」
「どういう料簡とはどういう意味じゃ」
慶長十九年七月二十一日、大坂城に一人の僧が現れた。僧の名は金地院崇伝。
家康の取り巻きの坊主である。
崇伝の言葉に対し、上座から甲高い声での反論が落ちて来た。上座に構えているのは淀殿であり、隣には淀殿の乳母、大蔵卿局の子にして淀殿の側近である大野治長が侍っていた。秀頼はいない。
「いえ、豊臣家が今何をお望みなのか、大御所様は困り果てている様子でしてな」
「家康がどう困り果てているのか訳が分からぬわ! 説明せい」
「国は安泰にして主君も臣下も共に富み楽しむ…それだけの事だ」
崇伝はいかにも真摯そうに淀殿の言葉に答えた。まるで、裏表など全くないと言わんばかりに。淀殿はそれに対しても苛立ちを露わに甲高い声で答えた。一体何の落ち度があると言うのだ、あるならば言ってみろと言わんばかりである。そして治長も畳み掛けるように崇伝に言葉を浴びせかける。
「おっとっと……これはこれは失礼いたしました、どうかお許しを」
「治長の申す通りじゃ! それ以外にどのような意味がある!? それとも家康は、その程度の事がわからん程の阿呆だと言うのか!?」
だが、崇伝は字面だけ動揺しながら、いたって平静に答えた。
当然と言うべきか、この態度は淀殿と治長の怒りをさらに煽った。
「いやいや、大御所様は豊臣家と御母上様の心持ちをよくわかっておいでです。ですが近頃、怪しき噂が江戸中に渦巻いておりましてな、それで大御所様が迷いを覚え始めてしまったのでございます」
「迷いとは何だ!」
淀殿と治長の怒気に満ちた叱責に対しても、崇伝は極めて平板に答えた。
「方広寺の鐘銘の事ですが、その鐘銘には大御所様、すなわち徳川家康の名に使われている家康の二文字を含んでおり、さらに豊臣家の豊臣の二文字が入っておりますな」
「そうじゃな、それがどうかしたのか!?」
「その大御所様の家康と言う名の間に安と言う字が入っておりますな」
「いい加減にせよ! 何を家康は言いたいのだ!! はっきりせい!」
「はっ、はい、では申し上げます……」
崇伝の余りにも回りくどい物言いに、淀殿はついに堪忍袋の緒が切れたと言わんばかりに崇伝に吠えかかった。崇伝はさすがにおののいて少し後ずさりしたものの、内心ではしめたとばかりに笑みを浮かべていた。
「国家安康、君臣豊楽と言う方広寺の鐘銘を見た一部の連中が、大御所様の家康と言う名を安の字で切っている、これは豊臣家が大御所様を討たんとしているのではないか、そう邪推を始められましてな。
さらに君臣豊楽という言葉も、臣豊、すなわち豊臣家が楽しむと言う意味であると言う意味ゆえ、大御所様を斬って豊臣家が楽しむ、そういう意味が込められていると言い出す者が多くおりまして、それで大御所様は豊臣家の真意を伺ってきてもらいたいと、拙僧に命じられたのでございます」
「…………」
崇伝はここぞとばかりに、自らが大坂にやって来たいきさつを述べた。
そしてそれから、淀殿も治長も崇伝もしばらく何も声を上げず、沈黙が本丸を支配した。
それを破ったのは予想通りと言うべきか淀殿だった。
「すると何じゃ、家康は豊臣家が家康を滅ぼそうとしていると思うているのか!?」
「いえ、大御所様や拙僧はそのつもりはございませんが…」
「ふん、家康如きの干渉など受ける筋合いはないわ! 寺を建て鐘銘を刻むぐらい豊臣家の勝手であろう! 早急に立ち去れ!!」
「そうですか、では……」
「おい、誰かおらぬか! この者を城門から放り出せ!」
完全に頭に血が上ってしまった淀殿は崇伝に怒鳴りかかり、さらに近習を使って崇伝を文字通り城外に放り出し、城門を固く閉めさせた。
崇伝を放り出した淀殿はすぐ甲高い声を上げて片桐且元を呼び付けた。四半刻(三十分)後、本丸に入ってきた且元が見たのは、右手に持った扇子をわなわなと震わせ苛立ちを露わにしている淀殿であった。
「且元! わらわには寺一つ建てる資格もないのか!」
「母上様、落ち着いてくだされ。私が経緯を説明いたします」
「治長、その必要はない! わらわが直に言う! 先ほど家康めが小坊主をわらわの元に寄越して来たのじゃ!」
「その話は耳にいたしております。それで」
「その小坊主めは方広寺に我が豊臣が刻んだ鐘銘についてケチをつけて来たのだ! 豊臣家はいつからそんな情けない家になったのだ!?」
「それはその」
崇伝と同じように口だけでは慌てていたもののさほど動揺する素振りのなかった且元に、淀殿はさらに頭に血を上らせてしまった。
「且元! 悔しくないのか!」
「家康はもう七十二です。いい加減、自分の寿命が尽きかけている事を自覚しているはずです。ですから、何としても豊臣家を潰したいと、難癖をつけている訳でございまして」
且元にしてみれば、「やっぱりか」の気分だったのである。家康がそういう難癖をつけてくるのは豊臣家と秀頼の力を恐れ、自分の寿命が尽きかけている事を認識しているからであり、しばらく放っておけば家康は死に、天下は勝手に豊臣家に傾く、それが且元の読みであった。
だが、家康は且元以上に巧妙であり、且元がこの淡々とした物言いで淀殿に自分の意見を言えばどうなるかをあらかじめ計算していたのである。
「何じゃと! こんな家康の横暴を黙って見過ごせと申すのか!?」
「はい、家康が死ねば徳川家は必ずや衰勢に向かいます。秀忠は家康と違って狸ではございませんゆえ」
「呆れたわ! そなたがそこまでの弱腰じゃったとは!そ れに家康が死ねば徳川は衰えると言うたが、それはいつだ? 五年先か? 十年先か?」
「それは…………」
「そなたのような弱腰では家康が死ぬ前に豊臣家の威が落ち、例え家康が死んでも状況が良化する事はないわ! 秀忠の様な狸の小倅にもなめられてよいのか!?」
「ですから、皆家康がいるから徳川に従っている訳でして、家康がいなくなれば」
「もうよい! そなたの言う事を聞いておったら豊臣家の威信が地に墜ちるわ! 下がれ、この腰抜けめが!」
且元の淡々とした物言いに、淀殿は完全に理性を失ってしまった。言っている内容そのものはそれなりに筋が通っていたのだが、目的が豊臣家と秀頼の将来のためと言うより且元を言い負かすためになっていた。
自分はこんなに腹を立てているのに、なぜ且元はこんなに冷静でいられるのか。そう考えただけで淀殿はなおさら腹が立たずにいられないのだ。且元にしてみればこれは自らの想像の範囲内であった故に冷静に頭を回す事ができたのであるが、それが却って淀殿の神経を逆撫でした。
且元も、家康がそこまで読んでいた事はさすがにわからなかったのである。
「七手組に訓練をさせておけ!」
「はっ?」
「万が一の時は七手組を付けてはっきりと豊臣家の回答を伝えさせる!」
且元を放り出した淀殿は治長に豊臣家の親衛隊である七手組の訓練を命じると、さっさと奥に引っ込んでしまった。この時、淀殿に戦が起きるであろうと言う認識はない。
豊臣家に対し家康がまた何か難癖をつけてくると言うのなら、今度は兵を付けて回答させ豊臣家は金輪際家康などの言う事を聞くつもりはない、と言う事を雄弁に述べるためである。七手組の訓練は、その時の為に兵の威を高めておこうと言うだけの話であった。
それこそが家康の狙いであり、正信の絵図面通りであるという事に淀殿も治長も全く気付いていなかった。
「くっくっく……これでいい……」
その日の夜、事の顛末を知った崇伝は浮かれていた。これで豊臣家に戦を仕掛ける口実ができた、そうなれば徳川の天下はあと一歩で完成する。
そこまで崇伝が考えた時、雨粒一滴落ちていないどころか雲一つなかった大坂の空から突如雷が落ちて来た。しかも、尋常ではない大きさの音を立てながら。
「これは……あるいは豊臣家終焉を告げるものかもな」
上々の首尾であると浮かれていた崇伝は、この雷をさほど気に留めなかった。
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