大坂の女子高生
@wizard-T
序章 女子高生、四百年前にタイムスリップする
序章 女子高生、大坂に行く
二〇一四年、七月八日。一人の女子高生が学校の図書室にいた。
「まだ調べてるのか」
期末テストなど関係のない勉強に励んでいる彼女に、図書委員以外声をかける人間はいないし、勉強熱心だと言う人間もいない。
彼女の興味はもっぱら歴史、それも日本史ばかりに向いていた。流行に流されている訳ではない、小学生時代からの筋金入り。
洋服もアクセサリーもまともに買わず、ただその事だけに情熱を注いで来た。
「他にする事はないのか」
「大学行って歴史を研究して過ごしたいから勉強もしてるし、それから運動だってちょっとはしてるから」
「軸がしっかりしててよろしいこって」
友人も作る事もなく、ただただそれだけのために青春をささげた。
運動も勉強もすべてはその為にある、後の事は枝葉末節。
カバンの中にあるスマホさえも親からの半ば一方的なプレゼントであり、三ヶ月の間に彼女の色にまるっきり染まっていた。
「卒業旅行に姉川に行きたいって言った女子中学生はお前ぐらいだぞ」
「そうでもないと思うけど」
「だとしてもメールの着信音を火縄銃の音にする奴はお前だけだ」
「好きでやってるんだからいいじゃないの」
姉川は、彼女にとってはメジャー過ぎてかえって遠い場所だった。小学校の時に長浜に来て、中学校になって金ヶ崎に来て、小谷城にも行った。
その事を入学してほどなくこぼして以来、その事は校内中の公然の秘密になっていた。
「その時の思い出だけで一時間は下らない自信があるんだけど」
「もう時間だよ」
一人の少女は、今日も古き世界に思いをはせながら本を閉じた。
※※※※※※※※※
それから四〇三年前の慶長十六(一六一一)年七月八日。まだ暑さは残っているとはいえ暦の上では既に秋、ましてや場所が場所だけに風はやたらと涼しかった。
「まったく、あやつは今も腹立たしいほどに元気なのだろうな」
憎まれ口を叩きながら、真っ昼間から粗末の屋敷の真ん中で男が寝ていた。男はずいぶんとやせ細っており、寝ているのが怠惰などではなく病である事を窺わせるには十分であった。
「父上、ご自愛下さいませ」
「ふん、わしの体はわしが一番よくわかるわ。わしはもう無理だ」
「それにしても家康はまもなく七十だと言うのに病一つ聞きませんな」
寝ている男は布団の傍らに座る男に向けて諦めの言葉を放ち、座っている男は徳川家康の名を呼び捨てにした。
十一年前、石田三成を討ち破り天下の実権をその手に握り、八年前には豊臣家を差し置いて幕府を起ち上げて征夷大将軍の座に就いた、この国の実質的最高権力者をである。
「あやつの最大の武器は狸親父の名をほしいままにする知謀でもないし、多くの家臣に慕われる信望でもない。その健康ぶりだ。わしにはそれがなかった」
寝ていた男はそこまで言うとゴホゴホと咳き込み出した。少しでも医の心得のある者ならば、その咳が病状の重篤たるを雄弁に語っている事にすぐ気づくには十分だった。
「幸村、わしはこれから最後の策を組む。三日ほど、わしの元を離れてくれぬか」
「私には何をしろと」
「何もせずともよい」
病の床に就いていた男、それは真田昌幸であった。二度にわたって数倍の徳川軍を打ち砕き、世から「表裏比興の者」と呼ばれた紛う事なき名将である。
徳川が天下を握った際に処刑されても何もおかしくなかったが、徳川方に味方した長男信之の助命嘆願により、次男幸村共々紀州九度山に流されたのである。
「無礼を承知で申しますが、三日間持ちますか」
「わしも家康ほどではないが、医についての知識はある。あと十日は大丈夫だろう」
「よいか、豊臣の天下が終わるのはもはや仕方があるまい。だが、徳川に天下をくれてやるのだけは許しがたい。あやつが天下を確立すればこの国はつまらない国になる」
「つまらない国?」
「あやつは己が乱世を戦い抜いてきたくせに、いやそのせいかわからんが徹底的に乱世を忌避し、破壊しようとしている。確かに乱世、戦国と言うのはその必要のない人間の命が無用に散って行く時代だ。
だがな、乱世の過程で多くの技術が発展を遂げた。戦術も、農作物も、築城の技術もな。そして、明や朝鮮だけでなく、はるか遠くの異国ともこの国は取引を行うようになった。だが家康は乱世の悪しき面ばかりを誇張し、乱世が生み出した幾多の成果を全く顧みていない。
いや、成果をわきまえた上でやるだろうな。おそらくあやつの事だ、異国との窓口はほとんど断ち切ってしまうだろう。異国の異変を聞いた諸大名が事を起こしたり、あるいは秘かに武器を買い付けられたりしたら一大事だからな。
仮に開けたとしても、徳川家の総取りになるは必至だ。農民も一揆を起こされたら困るから徹底的に縛るだろう。城も籠城でもされて反抗されたら面倒だから壊せと言い出すだろうし、そして絶対に反抗できないように家族の誰かを人質に取るなりするだろうな。
まあ、そういう事はお前の方がわしよりわかっているのだろうがな」
「いえ、そこまでは」
そしてロウソクの炎が燃え尽きる前とはこの事であろうか、普段はそれほど政治について雄弁に語る事のない昌幸が幸村も気圧されるほどの勢いで口を動かしている。
幸村は若年時豊臣家に人質として出されており、大坂にて政治の中枢を見ている。
その点昌幸は一流の軍略家ではあっても田舎侍に過ぎない。
「そうか、すると家康と腐れ縁の深いわしの方に一日の長があったようだな」
「とにかく、父の述べたような時代は私としても見たくありません」
「だが、わしはもう無理だ。家康はまだ生きられる。しかしあやつも流石に先は見えているし、その事は本人が一番わかっているだろう」
「では近いうちに豊臣家を潰すと」
「わしの見立てでは三年後だな」
そこまで言うと昌幸はもう良いであろうとばかりに手を振った。
「わかりました。これより三日間、父の元を離れましょう」
「うむ。皆にも伝えてくれ、卯の刻(午前六時ごろ)と酉の刻(午後六時ごろ)に食事を運ぶ者以外入れてはならぬと」
昌幸のその言葉が終わるや幸村はゆっくりと立ち上がり、昌幸の部屋を後にした。幸村がいなくなるや昌幸は最後の気力を振り絞って肉体を起こし、筆を手に取った。
「父上……!」
「幸村か……」
四日後、再会した幸村は言葉を失った。四日前とは比べ物にならぬほどにやつれていた上に、昌幸の目が妙に澄み切っていた。
「何ですか、それは……」
幸村は机の上にある巻紙を見るや思わずけげんな表情になった。手の震えのあまり昌幸が書いた文字が乱れきっていたからではない。
いや、文字など一字も書かれていない。書かれている、いや描かれていたのは何らかの絵であった。
見た所それは何らかの服の様であるが、およそ幸村には想像もできないような面妖な服であった。そしてその服を身にまとった人物はどうやら女性であるようだ。だが、その髪型も面相も、幸村が知る「女性」からは余りにもかけ離れていた。
「南蛮人ですか……?」
呆けたようにつぶやいた幸村に対し、昌幸は真顔で向き直った。
「幸村よ……悪いがおぬし一人では家康には勝てん」
「どういう事です」
「おぬしが大坂城に入り、豊臣家の軍勢や大坂城に集まる牢人たちの指揮を一手に握る事ができればともかく、それができようはずもあるまい」
昌幸はともかく、幸村には際立った実績と言う物はない。
あるとすれば三万八千の軍勢を二千で足止めした慶長五年(一六〇〇)の第二次上田城の戦いだが、それも世間は昌幸の実績と思っている。
要するに、世間的に無名と言ってよい幸村に全権をくれるはずがないのである。もちろん徳川に連なる者が甘く見てくれる分にはありがたいが、味方から侮られているのでは困るしかない。
「ではどうせよと言うのです」
「この娘の顔と服をよく覚えておけ……この娘がお前を救い、導いてくれる……だから三年待て、わかったな。案ずるな、言葉は通ずる」
「三年待て……」
「わかったな幸村。その頃、家康は必ず動き出す。その時、この娘を何としても徳川の手の者より早く見つけ出すのだ! わかったな」
「はっ……」
父は一体この面妖な服の娘に何を期待せよと言うのだろうか、幸村にはそんな疑問をぶつける事は許されなかった。
幸村が父から謎の娘の絵を託された翌日、昌幸の容体が急変。以後一言も口をきくことなく昌幸はこの世を去ったのである。享年、六十四歳。幸村は昌幸の遺体を囲む家臣に、父が最後に書き残した謎の女性の絵を見せた。
「父は申し上げられた。三年後、家康は豊臣家を潰すべき立ち上がると。その時、この娘が我らを導いてくれると私に言い残した。正直な所、私にはどうこの娘が我らを導いてくれるのかわからぬ。だが私、いや我らにとって父の言葉は値千金の金言であり、必ずや家康を打ち砕くための秘策へとつながると私は断言する」
そこまで言うと幸村は小刀に親指を押し当て、謎の娘が描かれた巻物の空白部分に親指を力強く押し当てた。
「これが私の決意だ」
幸村の言葉に呼応するように、昌幸の遺体を囲んでいた幸村の家臣、と言っても二、三十人程度であるが、次々と刀に親指を当て血まみれになった指を巻物の空白部分に代わる代わる押し当てた。
数日後、その二、三十名の家臣と共に昌幸の葬儀を執り行った幸村は、昌幸の遺言にして血判状となった謎の娘の描かれた巻物を抱きながら、一人考えていた。
「父上、この娘をご存じなのですか……」
全く誰だかわからない、存在するのかすら怪しい娘に運命を託せとは……。幸村は当然のように浮かんできた疑問を、頭を振って打ち消した。父に誤りなどはないのだ。
本来ならば武田家と一緒に織田信長に捻り潰されていても全くおかしくなかった真田家を守り、五倍の軍勢で侵攻して来た徳川軍を討ち破り、二十倍の徳川軍の攻撃を凌ぎ切り足止めに成功し、かつ「真田家」そのものの領国は拡充させることに成功した人間である。そんな人間が根拠もなくこんな雲をつかむような話をするだろうか、いやそんなはずはない。
頭を振った幸村は己が懐に手を突っ込み、一枚の懐紙を取り出して眺めた。家臣たちも知らない、昌幸が幸村に託したもう一つの遺言を。
「雷の日、浅川秀美……」
幸村はそれだけつぶやくと懐紙をしまった。
※※※※※※※※※
そして真田昌幸の死からちょうど四〇三年後の二〇一四年七月二十一日。一人の女子高生が、にわか雨と戦っていた。
「まったく、どうしてこんな急に!」
何が降水確率10%だ!
折りたたみ傘を持って来なかった事を後悔し、天気予報の不実を恨んだ、
せっかくの夏休み初日、勢い込んで図書館にこもり徹底的に歴史資料を読み漁る至福の時間を過ごしたと言うのに。通学カバンの中にしまい込んだ今日の戦果だけは守ってやると言わんばかりに、彼女はその物体を抱え込みながら走った。
「ったくもう……ああ寒い寒い」
ほどなくして雨はやんだが、彼女はぬれねずみになってしまった。黒髪を輝かせブツブツ言いながら歩き出した彼女に、今度は耳から災難が入り込んだ。
「雷!?」
雨がやんだのにどうして!と思って少しひるみ、そして雷に怖がるだなんて子どもじゃあるまいしとばかりに少女は一気に駆け出した。
「あっ」
だが雷は、決して背の高くもない彼女に向けてまっすぐに落ちた。そして空は明るくなり、気が付けば雲も雷も、女子高生————浅川秀美もなくなっていた。
その瞬間を目撃した者は、誰もいなかった。
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