第7話 誓い
健康検診センターから午前中のパートタイムを終えた美香が自宅前に着いたのは昼十二時を少し過ぎた頃だった。美香が鍵を開けようとしているところに男が勢いよく駆け込んできた。
「誰!」
驚く美香に「ジュンです」と笑いかけた。
「二週間ぶりの帰宅の仕方がこれなの」
美香が怒りの視線を順一に向けた。
順一が「すいません」と言いながら頭を軽く下げていると美香の表情は和らいだ。
「久々に帰って来たと思ったら、やけに早いご帰宅で、どうしたの、具合が悪いの」
珍しい旦那の姿を今度は不思議そうに見つめた。
「今日は早上がりにして貰った。二週間、母子家庭にして悪かった。大事な話しをしに来たんだ」
「そんな深刻な顔して、離婚話でもする気なの」
怪訝な表情に変わった美香が少しの笑みを足して聞いた。
「二週間前に話したことを覚えているよね…」
順一は美香の顔を伺いながら尋ねた。
「ええ…『数か月以内に日本が大きな不幸に見舞われる』って話でしょう。凄く唐突な話なんで、頭にこびりついている」
美香の表情に微かな恐怖が交ざり始めた。
「その…『大きな不幸』が近いの…」
順一は大きく何度も頷いた。続いて大きく息を吸い込んだ。
「ああ…そうみたいだ。極近いうちに日本は、ロシアと中国から攻撃される。侵略されるんだ」
「攻撃⁉ 日本が攻撃される?戦争になるの?」
美香の表情と身体には困惑と恐怖がハッキリと現れた。
「いや、戦争にはならない。日本は降伏するから。日本は戦わずして降伏する」
美香は言葉を失っていた。話しの内容を理解しようとしているのか、日本が攻撃されているところを想像しているのか分からないが、視線が宙を彷徨っていた。順一は美香の視線が落ち着くのを待った。十秒後、美香の視線が順一に戻ってきた。
「これから、日本はどうなるの…私たちの生活は…子どもたちは…現実に起こるとは、とても思えない」
確かに「日本が攻撃される」そんな話を突然言われても実感は持てないだろう。日本国民のごく一部には「もしかしたら、朝鮮が日本にミサイルを撃ってくるかもしれない」程度の認識を持っている者もいたが、日本国民の大部分には、他国から攻撃を受けるような危険な前兆は全く見えていないのだから。
「日本が降伏したら日本の領土はロシアと中国に全て占領される。二つの国は、日本を「良くて属国」最悪は「領土を分割して、それぞれが自国の一部」にするかもしれない。いずれにしても日本は二つの国に支配されることになる。これまで培ってきた日本の文化や教育、法律が全て否定される。間違いなく。人権も無くなる…かもしれない」
美香の呼吸が少し荒くなり、顔色が白くなってきた。
「何か…過呼吸になりそう。怖い…」
「大丈夫…占領されても直ぐには変わらないだろうから。特に、一般の国民生活は。暫くすれば、ほとんど元の生活になるよ。それに…」
順一は美香の恐怖を宥めるような話に変えた。そして、未来に希望を持たせるように
「それに、何?」
「世界には、日本を応援してくれる国が沢山有る。日本は、その国々と連携できれば『独立国家の日本』を取り戻すことが出来る…はずだ」
「でも…アメリカが当てにならないのに、ロシアと中国に勝てるのかしら」
「日本が復活する為、独立国家の日本を取り戻す為、日本政府は以前から手を打っているんだ」
「『以前から手を打っている』って、どんな手を打っているの」
順一は「復活への布石」を要約して話した。美香は無言で聞いていたが、表情は半信半疑のようだった。順一は構わず、一気に話しを続けた。話しを止めると二度と大事な話が出来ないように思えたからだ。
「攻撃が始まったら『日本を復活させる作戦を実行する一員』として国外に脱出して、第三国に亡命することにした。総理から直接話を聞いた。詳しいことは言えないし、自分も分からないことだらけだけど…」
「何…『亡命』って…」
美香は絶句して固まった。その状態が数分間続いた。
「ジュンが亡命したら、私たちはどうすればいいの…」
美香は虚ろな眼差しで順一に尋ねた。
「二週間前に言ったように、美香、マリ、ユリは米沢に疎開してくれ。今日からでもその準備してくれ。急に悪いけど…間違いなく日本の危機は迫っている。絶体絶命の危機だ。『日本を復活させる作戦の一員』に、何故か、課長補佐の私が選ばれた。『光栄なことだ』と思っている。許してくれ…必ず生きて日本に戻ってくる。復活した日本に戻ってくる。どのくらいの期間になるのかは…分からないが、必ず戻ってくる。誓うよ。頼む」
「『誓う』って言われても、突然、ジュンが『日本を復活させる作戦の一員になって日本脱出してどこかの国に亡命する』って言われても…分からない」
美香はそう言って目を閉じた。
順一は家族四人で夕食のテーブルを久々に囲んだ。夕食後、テレビを見ることなく子どもたちの話しをひとしきり聞いて過ごしていた。
「明日は、何時に家を出るの?」
打ち合わせ通りに美香が普段と変わらない口調で順一に尋ねた。
「やっと帰って来たのに、また明日仕事に行くの」
父親大好きの次女ユリが不満そうに呟いた。
「ごめんな、なかなか家に居られなくて。寂しくなったところに輪を掛けて言うけど、近いうち簡単に帰って来れない遠くのところに長期出張になるかもしれないんだ。ごめんな」
順一は娘二人に、当分の間会えなくなる事を伝えた。その間、三人で米沢に引っ越す事も伝えた。思いもよらず転校する事になったマリとユリは一気に暗くなった。
美香は数週間前から順一との電話でのやり取りで「何か大変なことが起こる」ような予感を漠然と抱いていた。美香の心には何に対しては分からないままに、覚悟のような決意が形成されていた。順一と顔を合わせ、話しを聞いていて「自分の予感が現実になる」そう思った美香の切り替えはそのせいか早かった。順一に「日本を復活してもらう」為に「自分が強くなり、子ども達を守る」そう誓っていた。それでも、順一と寂しそうな表情をした二人の子どものやり取りを見ていた美香の心と体は途轍もない力で締め付けられるように苦しくなっていた。
順一と美香の眠りをアラーム音が突然に終わらせた。
「ううう…時間か…」
朦朧としている順一の手が頭の上で左右に動いた。
「目覚ましじゃ…ないようだけど…」
美香の口調も朦朧としていた。順一が目覚まし時計を掴んで顔の上に持ってきた。
「三時三十分…前。何でだ?時間、間違えてセットしたのか?」
「んん…このスマホが鳴ったみたいよ…」
順一が枕元に置いた二つのスマホを置いていた。そのうちの一つを美香が順一にかざした。
「『緊急参集…』訓練にしては、あまりにも早いんだけど…」順一の頭は徐々に現実に戻ってきた。
「まさか…」順一は表示された「了解」の文字に人差し指をのせた。
「緊急非常事態・侵略対応対策室・至急参集」スマホの画面は非常事態レベル最高を示す真っ赤の点滅になっていた。順一が上体を起こし、改めてスマホの画面を見つめた。
「うぁ、本当に来たのか…」
美香の身体は横になったまま震えていた。順一は意を決して立ち上がり、無言で身支度を始めた。美香も何とか立ち上がり、眠る前に準備をしていた小さな鞄を順一に手渡した。順一は野口から「亡命の際は、荷物は二泊程度で最小限度の量にしてくれ」と言われていた。鞄の大きさまで指定されていた。
「見て…」
美香がスマホを差し出し画面を見せてきた。
「速報、秋田県北部山中で爆発」テロップの下に写しだされていた映像には、闇夜の中央に赤色とオレンジ色が大きく揺れ動き、山影が薄っすらと見て取れた。
「秋田県で、爆発…」
順一がうわ言のように呟いた。「日本国内でいま現実に起こっている惨事」と言う実感が湧いてこなかった。美香がノートパソコンで動画配信サービスを見始めた。
玄関で靴を履こうとしている順一に美香が今まで聞いた事の無いような甲高い口調で声を上げながらノートパソコンを両手に持って来た。
「凄い…ジュン、見て…」
美香はノートパソコンの画面を順一に向けた。スマホより大きな画面はより詳細に状況を理解することが出来た。闇夜に赤色やオレンジ色に揺れ動きながら立ち昇っている炎は、山影と比較すると高さ数百メートルに達しているように見えた。炎の周りには煙も沸き起こっていた。炎の周りは濃紺に色を変え、煙は闇夜の空に吸い込まれていた。暗闇の炎は、日本国民にとてつもない恐怖を抱かせた。
「何だ…これは…」
順一は呆然と立ちすくんだ。そして、現実に起こっていることだと認識できた。
スマホに浮かぶメッセージで状況がより見えてきた。
“何か落ちてきたみたい”
“火の玉見たって…”
“凄い爆発音だった…”
“地震みたいに、家が揺れた”
ほとんどのメッセージは緊迫感の無い情景描写を実況していた。言葉に恐怖感は現れていなかった。まだ他人事だった。
「攻撃してきたのは間違いないようだ。じゃ…行ってくる」
順一の言葉は少し震えていた。不安と悲しみが入り交じった表情だった。
「頑張って。マリとユリは絶対に守る。ジュンは、日本を絶対に守って」
美香の言葉には強さが戻っていた。「腹を決めた」意志が強く感じられた。
「絶対に生きて帰って来る 絶対。誓う。行ってくる」
美香に力強さが戻ったことで順一にも力が戻ってきた。順一の後をパジャマ姿の美香が追ってきた。
「今日は六月十一日よ、誕生日おめでとう。昨日の夜、マリとユリから頼まれていたの…」
美香はそう言ってマリとユリの字で「順一様」と書かれた封筒二通を順一に差し出した。
「プレゼントもあったんだけど、帰ってからのお楽しみして。それじゃ頑張って。いってらっしゃい」
「ありがとう、忘れてた」
東京の空が白んできた。順一の誕生日に日本の悲劇が始まった。
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