第5話 意外な助っ人

 執務室を出た順一は、野口の先導で官邸の地下に降りた。危機管理センターと侵略対応対策室の間に挟まれた目立たないところにあった扉の前に二人は立ち止まった。

防火扉のように重厚で人が普段から出入りするような感じではなかった。

「ここから私のオフィスに行きます」

「はぁ…ここからですか」

野口の言葉に順一は不思議そうにドアを見つめた。野口が右上に向かって顔を上げた。見つめている先に防犯カメラと思われる機器が取り付けてあった。顔を下すとドア脇の黒いスマホのような画面に右手をかざした。「ピッ」と画面から音が鳴ると、野口はドアを左にスライドさせた。ドアが一メートルほど開いて止まった。順一の目前に幅が三メートルほどの通路が現れた。

「秘密の地下通路ですよ」

野口は冗談でも話すような軽い口調で通路に足を踏み入れた。順一は野口の後に続いて慎重に一歩を踏み入れた。身体が半分入ったところで顔をぐるりと一周させた。通路の四方は黒い硝子面のようになっていた。順一の身体が完全に入ったのを確認した野口が「閉めて」と呟くと三秒ほどでドアが閉まった。マジックミラーで囲われているような状況に不気味さを感じながら野口の二歩後ろに続いて順一は進んだ。無言のまま二人は三分程歩いた。腕時計に一瞬視線を向けた野口が立ち止まった。

「ここが私の部屋の入口です」

「ここ…ですか…」

順一の目には、自分と野口が映る黒い硝子面だけしか見当たらなかった。

野口は不思議そうに顔を上下左右に動かしている順一にそれ以上の説明をしないまま黒い硝子面に指を這わせた。指の動きを止めた野口は顔を少し硝子面に近づけながら「おはようジェーン」と呟いた。その言葉に反応したのか目前の硝子面だけが奥に引き込まれた。横一メートル、縦二メートルほどの面積が引き込まれた。

「これがドアなのか…」

順一が呟いていると、二十センチほど引っ込んだ部分が今度は左にスライドした。

「この通路沿いの両側にはこれと同じ仕組みのドアが四十ほど並んでいるんです。分からなかったでしょうが…」

「そんなに並んでいるんだ…全然分からなかった」順一は改めて入って来た方に顔を向けた。そして、ゆっくりと反対側の方に顔を向けた。通路の先は右にカーブしているのでこの先がどこまで続いているのかは分からなかった。

「でも、どうやって自分の部屋を見つけるんだろう…目印が無いのに」

野口は左腕を順一の前に着き出した。

「部屋の前に来ると、この腕時計の文字盤が青く光ります。それで『部屋の前に着いたぞ』と教えてくれるのです。政府から支給された腕時計です。後で菊地さんにもお渡ししますよ。通路で話しているのも何ですから、どうぞ」

野口の左手がそのままドアの中に向いた。先に順一が室内にゆっくりと伺いながら入った。室中は三畳ほどのスペースで薄暗く、四方は通路と同じく黒い硝子面になっていた。インテリアは全く無い。

野口が入ると直ぐにドアは閉じるスライドを始めた。ドアが閉じられると隙間が無くなり、ドアがどこにあったのか全く分からなくなった。

「ドアが消えた…」

「凄い技術ですよね、ドアが閉じられると隙間は完全に無くなり、ドアと壁の境は全く分からなくなります。いくら見ても隙間を見つけられないんですから」

野口はそう話しながら左腕を伸ばし掌を硝子面に向けた。掌から少し右に離れた硝子面の一部分が同じような動きで開いた。今いるスペースより三倍ほどの部屋が順一の目前に現れた。部屋の中央付近に黒い重厚な机が置かれていた。机とセットになっている椅子が置かれ、椅子の後ろ側には本棚のような棚があったが、本は一冊も飾られていなかった。他の壁や床、天井面はやはり黒の硝子面だった。余計なインテリアも全く置かれていなかった。

「この部屋には何も置いていません。必要な物があれば遠慮無く言ってください。トイレ、シャワー室に寝室は壁の向こうにあります。入り方は後でお教えします。少し室内が暗いですから天井くらい明るい色にしますか…」

野口が天井見上げた。「ジェーン、天井を白く」一瞬で天井が白くなった。部屋の雰囲気がいくらか明るくなった。順一は口を開けたまま天井を見つめた。

「それと、国のデータベースに入れる最高ランクの権限も付与されています。それでは試しにしてみましょう」

野口は、口が半開きの順一を置き去りにして机の中央に右手をかざした。まっ平に見えたテーブルの中央が十センチ角で箱のような形状でせり上がってきた。五秒ほどで黒光りした十センチ角の立方体が現れて動きが止まった。

「何ですか…この頑丈そうな箱は」

野口は「黙って見ていろ」と言わんばかりに視線を動かすことなく、出てきた箱の四隅に無言で右中指を這わせた。

野口の指が止まると「菊地さんここに来てください」そう言って机の前に来るように手招きした。順一が机に近づくと野口が場所を譲った。

「菊地さん、黒い箱に手を置きながら『ジェーン、防衛、ミサイル、データ』と呟いてください」

順一は言われた通りに黒い箱に触れながら呟いた。呟いた瞬間に黒い箱の表面から微かに赤い光が放たれた。「数字が浮き出てきた」順一が不思議そうに呟きながら数字を見つめた。黒い箱の表面に十五桁の数字が赤く浮き上がった。

「菊地さん、ここに右の人差し指を付けてください」野口が机の右下を指さした。

順一は、野口が指示した辺りに右の人差し指を付けた。付けたところにテンキーが浮かび上がった。

「数字を読み上げるだけでもいいのですが、試しにテンキーで、この十五桁の数字をこの順序通りにタッチしてください。そうすると、防衛省のミサイルに関するデータベースを覗けるようになりますから」

順一は小さく頷き無言で十五桁をタッチした。十五桁目をタッチした瞬間、順一の目前に『防衛省管理』の文字と『警告文』の文面が日本語、英語、フランス語、中国語、ロシア語など十数か国で表示された。

「えっ、目の前に現れた…」

咄嗟に順一が声を上げた。そして、文字の裏側を覗き込むように身体を右に倒して文字を見つめた。

「浮かんでいるんです。宙に。手や言葉で大きさを変えたり、浮かぶ場所を変えたり、送信したりできます。室中だけで操作可能ですが、どこかで見たSF映画のようでしょう。でも、現実です。この部屋、ここに浮かんでいる文字、情報は全て現実にある本物なんです。私の部屋は、全て『AIのジェーン』によって管理されています。菊地さんもこの部屋で活動出来るようにジェーンに申請しました。許可されたようですよ。菊地さんが通路に入ったときからジェーンは、監視、観察していまいした。その時に菊地さんのあらゆる情報『表情、声、仕草、指紋、眼球の虹彩…』まあ、全てです。偽物が入ってこないように。私だけに反応していたジェーンは今日からは菊地さんの顔、声、手の動き、指紋にも反応します。新しい親友が増えと思ってください」

野口は薄笑いを浮かべたが、順一は口を半開きにしたままだった。

 声や手で行う画面操作の方法を教えて貰った順一は、いくつかの極秘データベースを覗いてみた。全てが驚きで唸り声しか出なかった。

「終わったら『ジェーン終了』と言えば…」その瞬間画面が消えた。

「やりたいことの言葉の前に『ジェーン』を付ければ、大体の望みは叶えられます。『ジェーン、トイレ』」

言葉に反応して壁の一部がドアの大きさに窪んだ。

「あそこがトイレです。シャワーやベッドルームも同じ要領で現れます。食事も出来ます。デリバリーではなく、缶詰や冷凍保存されたものばかりですが、カレー、ラーメン、焼きそば…刺身も大丈夫です」

野口がジェーンに「カレーライス二つ」を頼むと、五分後に壁の中からカレーライスが現れた。

「ドラえもんのような感覚ですよ。菊地さんが臨んだことは大体対応してくれます。菊地さん一人だけだったら一年くらいはここに籠れますよ。ただ、この雰囲気で籠るのも嫌でしょうから…そうだな『ジェーン、ナイアガラの風景』」

野口の言葉で、ナイアガラの瀑布とその周辺の風景が前後左右の壁、天井や床に映し出された。

「世界の風景…いや、月や火星の風景でも大丈夫です。この部屋に居ればどこにでも行けますよ」

そう言って野口は柔らかな表情で大きく頷いた。頷きが止まると硬い表情に変わった。そして、順一に視線を向け直した。

「ジェーンを菊地さんの助っ人として採用してください。“二人”で作戦を立案してください」

順一は突然の提案に戸惑う表情を浮かべながら思案を始めた。いくら学んだ分野といえども僅かな人力だけで必要な情報を選び出し、複雑な計算を行い、二週間で答えを導き出すのは「至難の業」のように思っていたからだった。

「確かに、僅かな人力だけで二週間以内に答えを出すのは難しいように思っていました。だったら…」

「だったら…なんですか?」

「ジェーンに作戦を立案して貰ったほうが話しが早いんじゃないですか。それこそ、誰にも知られず極秘裏に作戦を立案できそうですが」

野口は薄笑いを浮かべて小さく何度も頷いた。

「ええ、作戦を『ただ立案する』だけならジェーンに頼めば事は足ります。でも、作戦の立案だけでは駄目なのです。作戦を実行しなければならないのです。実行するのは人間です。ジェーンではありません。作戦を実行する時に、作戦を立案した人間が介在している方が作戦の成功確率は格段に上がります。トラブルへの対応や変更にも作戦立案者がいるといないのでは大きく違いますから」

順一は詰将棋で詰められたような渋い表情で頷いた。


 順一は、野口から詳しい室内の話しやジェーンとの付き合い方を聞いた。話しが終わると野口とデザインが少し違う腕時計を貰った。時計を腕にはめながら順一は野口に要望を伝えた。

「家に一旦戻ります。暫く帰れないでしょうから。二週間の殆どをここで過ごすことになるでしょうから」

「そうかもしれませんね。それでは、菊地さんが自宅に帰る前に二点聞いておきたいのですが」

「何でしょうか…なんか嫌な予感が…」

「大丈夫です。大したことではありませんから。一つは『科学者のリストアップを頼む当てがあるのか』と『ジェーンと会話出来るようにしますか』の二点です」

順一の表情から緊張が無くなり首を捻り考え込んだ。

「ジェーンと話せるんですか…でも、いいです。遠慮します。頭脳明晰な女性と会話を楽しめる自信が無いですから。リストアップは、ジェーンからリスト候補者を三百名ほど出して貰います。それを基に文科省で同期の野崎に頼みます。『夕食奢る』と言えば一週間くらいでやってくれるでしょうから」

 順一と野口は握手を交わし、笑いながら地下通路に出た。


 野崎は、科学技術・学術政策局にいる知り合い二人と「一週間以内にリストアップする」と約束してくれた。リストアップをする理由は、官房長官の言った通りに「総理との懇親を深める意見情報交換会」とした。何よりも「極秘で作業に当たってくれ」と強く念押しをした。


 順一が四日ぶりに戻った自宅には、二歳下で親友のような妻美香が買物から帰ってきたところだった。順一の顔を見た美香の機嫌は少し悪くなった。順一は年度末が近づいてきたここ二ヶ月は、三、四日間隔でしか家に帰って来ていなかった。年度末で忙しいことは理解しているつもりの美香だったが、それでも疲れと不満が表情に出てしまったのだろう。

 順一は、一緒に家に入った美香をソファーに座るように促した。順一の誘いに美香は「何?」と少し訝し気な返事をした。

「二人が帰って来る前に話をしたくて」

「何…離婚でもする気…」

順一は苦笑いをしながら首を横に何度も振った。

 小学五年の長女マリと小学三年の次女ユリが帰って来る前に「恐らく二週間、家に帰って来ない」ことを美香に伝えた。美香の機嫌は頗る悪くなった。続けて順一は美香にだけ「数か月以内に日本が大きな不幸に見舞われる」ことを伝えた。半信半疑の美香に順一は「いつでも米沢の実家に帰られるように準備しておいてくれ」と頼んだ。家族を疎開させようと考えたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る