第9話 日本降伏

 1945年八月十五日正午に行われた「玉音放送」以来になる屈辱に満ちた長門総理の会見が三分ほどで終わった。

 総理の会見後、三十分程で亡命希望者が二百名に達した。予想よりもかなり早く二百名に達した。総理の会見が科学者たちにかなりの危機意識を持たせたようだった。

「召集メンバーは各部署に戻り、緊急非常事態と戦時下体制への対応をお願いします。以上です」

菅原官房長官の低い声は侵略対応対策室の室内に沈んだ。

 順一は野口の後に続いて地下通路を進んだ。通路の突き当りに着いた。ドアノブだけが突き出ていた。野口はドアノブを握り身体を押し付けた。鋼鉄製の重厚なドアがゆっくり開いた。

「どうぞ、入ってください」

順一が先にドアを抜けた。帝国ホテルのような重厚な空間が現れた。

「ここは…もしかして、首相公邸ですか」

「そうです。進みましょう」

順一の前を野口が進んだ。人影が無く、物音一つしない旧官邸だった主なき首相公邸の廊下を奥に進んだ。

「少し肌寒い感じがしますね…」

旧官邸内の空調は切られていたが、百名近くの熱気が籠っていた侵略対応対策室から移ると五度は低いと感じられるくらいひんやりとしていた。

「どうぞ、そちらにお掛けください」

野口と順一は重厚なソファーに腰を降ろした。野口は前置き無しで直ぐに話し始めた。

 野口が最初に話した内容は、順一の亡命に関する話しだった。「亡命国に出発する日時は六月十四日の午後二十二時」「日本政府が降伏を通告する二時間前。静岡県の沼津港に隣接する公園が集合場所で出発する三十分前までに来ること」「その場所に二十名近くの亡命者が集合する」「出発するのは国内複数個所ある」大きくはそのような内容だった。

「どこに、どうやって、行くのですか…」

ここまで来ても、その事には触れられなかった。順一の苛立っている口調の問いかけに野口は冷静に頷いた。

「その質問に対する回答は当日になります。すみませんが、ギリギリまで極秘なんでです」

打ち切るようなキッパリとした口調で野口は答えた。亡命するにあたって「荷物の量は二泊分程度の着替だけにして欲しい」「お金は一切持たなくていい」などの細かな追加説明を行うと、野口の姿勢が改まった。

「私はこれから亡命国の大使館職員と共に日本を脱出します。菊地さんには申し訳ないのですが。先に亡命します。向こうで亡命者の皆さんが安心して過ごせるように環境を整えておきます」

「飛行機で行くんですか…」

「まだ、飛行機で日本から脱出できますから。三日間は、誰でも世界に向かって脱出できます。でも、占領国に行方を追われる危険がありますし、二度と日本に戻れなくなるかもしれません…それに今日から一週間は、国内の国際空港は脱出する外国人だけで溢れかえりますよ。逃げ足は速いですから」

「そんなに早く…」

「自国民を脱出させるために、世界各国の政府がチャーターした飛行機が飛んで来ますよ。急がないと脱出できなくなくなるかもしれませんから…そして、放射能を浴びるかもしれませんから…」

野口は溜息を吐き出し、話しを続けた。

「菊地さん、明後日の集合時間に間に合えば自宅に戻られても構いません。明日の朝七時から明後日の夜十時まで交通機関は動きますし、十四日まではどの交通機関もタダで乗り放題です」

順一は小さく頷きながら思案した。

「そうか…分かりました。明日、家に戻って家族を疎開させます」

順一の声は意を決したような強くなっていた。

「それでは菊地さん、向こうで逢いましょう。実はタクシーを呼んでいます。これから直ぐに帰ってください。明日から交通機関が動くと言ってもどうなるのか不安がありますから」

 野口と順一は再会を誓い握手を交わし別れた。


 六月十三日17時。順一と美香、マリ、ユリの四人は東京駅東北新幹線ホームの混雑に押し潰されそうになっていた。下りの新幹線から戻ってきた人たちはホームに降りようと必死の形相になっていた。地方に戻ろうとする人の形相も必死だった。新幹線ホームは必死同士のぶつかりで怒号と悲鳴で殺伐とした状況になっていた。

 東京の主要な駅や空港、そこに至るまでの道路や交通機関も混雑、混乱していた。 野口が言っていたように、昨日の朝から駅、空港、フェリー乗り場などの交通機関はダムの決壊を予知した昆虫が一斉に逃げ出すように、我先にと地方に脱出する人々が殺到していた。

 これまで、日本国民はあらゆる天災に幾度も見舞われ、幾度もその災禍から秩序を持って克服してきた。しかし、他国から占領される経験を記憶しているのは九十代の老人から上の世代だけになった。

「占領された」後に「自分や家族に何が待っているのか」日本国民の殆どが全く分からない。その恐怖から日本人の心と身体に急激な変化が起こった。日本人の精神に僅かに残っていた「秩序」や「奥ゆかしさ」がほとんど消滅してしまった。

 順一と美香は、凄まじい圧力から子ども達を必死に守りながら、新幹線に乗り込もうとしていた。

 妻と子ども二人が乗車した山形新幹線は一時間遅れで疎開先の米沢に向け発車した。新幹線や飛行機は明日深夜まで休むことなく、日本国民を運び続けることになっていた。


「こんな黄昏を見るのが最後になるかも」

日没直前の黄金色に囲まれながら順一は沼津港公園のベンチに腰掛けていた。

「これからどうなるか分からないから…もう少し腹に入れておくかな」

今日二度目の夕食を鞄から取り出した。

「お一人様二個まで」に制限された貴重な「コンビニおにぎり」をゆっくり大事に噛みしめた。

「菊地順一さんでしょうか」

「そうですが…」

疲れ切った表情で咀嚼していた順一が困惑を浮かべ返した。声をかけてきた男性は、海上自衛隊の森谷と名乗った。亡命者救援で来ていた。

 順一は東京駅で家族と別れると直ぐに沼津に向かう為に東海道新幹線ホームに向かっていた。五時間かかって新幹線に乗車して沼津港の公園に着いた時には日付が十四日に変わっていた。

 順一は森谷の後に続いて集合場所となっている駐車場に向かった。自衛隊の車両が一台と普通のワンボックス車が五台ほど停まっていた。

 車の周辺に十数人の人影が分かった。遠目には怪しい人影に見えた。日没となり空が雲で覆われ新月が間近となっていたので視界は狭くなっていた。

 戦時下体制に移行してからは、周囲が暗くなってから外出する人は少なくなっていた。歩いている人がいたとしても一人か二人で、それもどこか遠くを目指し黙々と歩いている人たちだった。

「ここから何人が亡命するんですか」

順一は人影を目で数えながら尋ねた。

「ここからは二十名の予定です。まだ、二名の方が到着していません」

「皆さん、随分早く集まっていたんだ…」順一は独り言のように呟いた。

 人影に近づくと、男性ばかり三十人近くが立っていた。その中で十人程が荷物を持っていなかった。制服は着ていなかったが、亡命をサポートする自衛官のようだった。

 会話をしている者は一人もいなかった。暗くなり、灯りがほとんど無くても全員の表情に緊張感が漂っているのが分かった。

 順一は、自衛隊仕様に赤十字のマークが入った車両に案内された。

「よろしくお願いします。私は、海上自衛隊医官の小山です。それでは…」

順一は、血圧や体温測定などの簡単な健康診断を受けた。

「身体に問題は無いようです。何か持病とか、最近体調で気になる点とかありますか、それと、何か飲んでいる薬はありますか」

「いえ、別に無いです。いまのところ健康体です」

「分かりました。それなら良かったです。これから小さな船に一時間ほど乗るんですが、酔い止めの薬は飲まれますか」

小山医官がノートパソコンに打ち込みながら尋ねてきた。

「船に乗るんですか?」

順一の頭には「亡命手段が船であるだろう」と予想は出ていたが「一時間ほど」が引っ掛かった。乗船時間の余りの短さに恐れのような不安が湧いてきていた。

小山医官が私に向き直し繰り返し尋ねて来た。

「一時間から一時間半くらいの乗船になるようです。乗船して頂くのは小さな漁船です。今日の波は穏やかなのですが、結構、揺れると思いますよ」

「漁船に乗るんですか…どの辺まで行くんでしょうか…」

「どの辺りまで行くのかは、私には分かりません」

「そうですか。酔い止め薬、いただけますか…お願いします」

順一は酔い止めの薬とミネラルウォーターを受け取った。

 不安がドンドン重くなる精神状態で、亡命仲間と僅かな会話をしながら時を待った。

「それでは、移動します。皆さん、こちらにお願いします」

暗闇から微かに聞こえてきた。時計を見ると、針は午後9時45分を指していた。指示を出したと思われる自衛官の十メートルほど後に付いて、全員が俯き無言で歩き出した。そんな順一たちの周りを十名ほどの自衛官が囲んでいた。犯罪者たちが連行されているような光景だった。 

 灯が消されていたのでハッキリと確認は出来ないが、岸壁と思われる雰囲気の場所に着いたようだった。薄っすらと、漁船数艇の影とその手前に数人の影がぼんやりと見えた。段々に近づくと数艇の漁船を確認出来る距離まで来た。

 先頭で歩いていた自衛官がこちらに振り返り話し始めた。

「ここで、一旦止まってください。それでは、私の方から話をさせて頂きます」

指揮官と思われる人物は立ち止まった全員の様子を見つめた。

「私は『亡命する皆さんが、ここ沼津港から日本国を無事に離れられるように』と仰せつかった、海上自衛隊の遠藤です。私以下、四十名ほどの隊員が皆さんを沼津の沖合までお送りして、その次を担当する者たちにバトンを渡す任務にあたっております。宜しくお願い致します」

遠藤が軽く頭を下げた。

 亡命国まで漁船で行くとはさすがに全員思ってはいないが「大洋の真っ只中でどうするのか」興味が出てきてもいたようだった。

「沼津港からは二十名を送り出す予定でしたが、残念ながら二名の方は間に合いそうもありません。十八名の方を、これより…」

遠藤は振り返り、漁船に右手を向けた。

「無事に皆さんを沖合に送り出す方策としまして、漁船5艘に分乗して頂きます。警戒警備にあたる漁船5艘も同行致します。皆さんの旅立ちに小型漁船で大変心苦しいのですが、出来る限り目立たないようにする為ですので、ご了承ください。皆さんの乗船が完了次第、沖合に向かいます。万全を期してお送りします」

遠藤は一旦話しを止めた。亡命者の不安な表情が暗がりでも分かるほどの雰囲気になっていた。

「大きな不安を持たれるのはお察し致します。この期に及んでも『どこの国に行くのか、どうやって行くのか、それが分からない』のですから。私も、皆さんがどこの国に亡命するのか知りません。ですから、聞かれても答えることが出来ません。亡命国までの移動手段は知っていますが、ギリギリまでお教え出来ません。ご了承ください。皆さんが無事に亡命国に到着出来るようにお手伝いすることしかできません」

 順一や亡命希望者から大きな溜息が暗闇に吐き出された。暫くの間、口を開く者は無く、岸壁に寄せる波音に混じり、荒く重苦しい呼吸音が微かに漂っていた。

 遠藤が腕時計に視線を向けた。

「二十二時の五分前になりました。それでは…」

順一たちの周りに整列していた隊員達は、その言葉に反応し身体の向きを一斉に変えた。その勢いのまま駆け足で漁船に向かった。

 隊員の準備が整ったことを確認した遠藤は順一たちの方に向き直った。

「皆さん、漁船に移動していただきます。四、五人ずつに分かれて漁船に乗り込んでもらいます」

遠藤が亡命者を四、五人ずつのグループに分け始めた。

 乗船の時も波は穏やかだった。十艇の漁船群は、日本国に訪れる途轍もない荒波から逃れようと暗闇の太平洋に進み始めた。





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