第18話 「ありがとう」の反対
朝、出勤すると机の上に妙な紙が置かれていた。A4サイズの印刷用紙にマジックで描かれていたのは、二つ並んだ丸印だった。ところが、一方は眼科検診のCのように一部が欠けていた。
私は自分の机に座るなり、怪訝な表情でそれを手に取った。
「はい、浜島先生。どちらの丸が気になりましたか?」
突然声をかけられて、私はビクッとした。声の主は田坂先生だった。
「えっ…。この丸が欠けてる方…」
「じゃあ、これは?」
次に見せられたのは、通知表だった。オール5の通知表だけれど、音楽だけが4だった。
「えっと…、音楽の4が…」
「ですよね~」
田坂先生は、嬉々として答えた。朝から、なんとも腹立たしい気分だ。
「なんなの、いったい?」
そう尋ねる私の隣に腰を下ろすと、熱く語り出した。
「いいですか?浜島先生。人間って、欠けてる部分とか足りない部分とかに、自動的にフォーカスしてしまうようにできてるんです。悪いところにオートフォーカスしてしまうんです」
「どういうことよ?」
「今も欠けた丸に意識が向いたでしょ?オール5の通知表の唯一の4に目が行ったでしょ?人間の意識って、異物を検索してしまうんだそうです」
「だから、どうしろって言うのよ」
「フォーカスするところを変えるんです。子どもたちのいいところ、輝いているところに。これは意識しないとできないんです。そして、それを感謝で伝えてあげるんだそうです」
「感謝で伝える?」
田坂先生は、真剣なまなざしで見つめてきた。
「ありがとうって一言添えるんです。黒板をきれいにしてくれてありがとう。掃除をしてくれてありがとう。プリントを集めてくれてありがとう。子どもたちの存在そのものに、ありがとうって伝えるんですね」
私は混乱していた。朝から、わけのわからない宗教に勧誘されている気分だった。
「なにそれ。まさか、それも葉山先生の押し売り?」
彼は、満面の笑みを浮かべて、「はい」と返事をした。
「学級経営のキーワードは、感謝と応援だって教えられました。子どもたちに愛されなさい。保護者に応援されなさいって、ハテンコー先生がおっしゃってたんです」
また、ハテンコー先生だ。あの冴えない中年の先生に、いったい何がわかると言うのだ。私は、ムキになって答えた。
「いい?田坂先生ね。黒板をきれいにするのも、掃除をするのも、プリントを集めるのも、当たり前。私が感謝されることがあっても、なんで私が子どもたちに感謝しなきゃいけないわけ?私に感謝して当たり前なわけ。わかる?」
すると、彼は悲しげな表情を見せた。少し言いすぎたのだろうか。しばらく沈黙が続いた。
「それじゃ、私は教室の準備があるから。田坂先生、もっとしっかりしなきゃダメよ」
そう言って席を立つと、彼は口を開いた。
「浜島先生。ありがとうの反対の言葉って知ってますか?」
「なっ…、なによ?」
「ありがとうの反対は、当たり前なんだそうです」
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