第17話 帰る時間を決める

 相変わらず子どもたちの態度に可愛げはなく、授業を終えるとどっと疲れが押し寄せてきた。「このままではいけない」と心では思うのに、うまく動けない自分がいた。情けないとは思うけれど何もできず、時間だけが刻一刻と流れていった。

 子どもたちとの関係が悪化しているのは明らかだった。そんなことは子どもたちの表情を見ていれば気づく。注意すれば注意するほど、子どもたちの心が離れていくことを感じていた。けれど、注意しないわけにはいかない。それが私の仕事なのだ。



「浜島先生、今日も遅くまで働くんですか?」



時計の針は20時を少し回ったところだった。今日は、何時に帰れるのだろう。教師になってからというもの、こんな生活がずっと続いていた。



「22時くらいまでには帰ろうかなって思ってるよ。いい?田坂先生。若いうちはとにかく遅い時間まで学校にいて仕事をしなきゃダメよ。長い時間仕事ができる先生がいい先生なんだから」



そういうと、二人してハテンコー先生の机に目が行った。



「あの先生は、いつも早いわよね。私は先輩たちからそう教わったの。先輩たちもその先輩から教わってきたの。言ってみれば、遅くまでいることができる教師の条件よね」



すると、田坂は不服そうに口を尖らせて答えた。



「それは違いますよ。時間内に終われるのが、仕事のできる先生です。僕だってできれば早く帰りたいのですが、仕事が遅くて…。生徒指導がないなら、早く帰れって言うんですよね。一学期にハテンコー先生には迷惑をかけちゃったから、二学期は大きな事件もなく進んでいるし、本当はもっと仕事をテキパキとこなして早く帰りたいんですけどね」


「だけど、あの先生みたいに、あんなに早く帰ることはできないわよね。どうしているのかしら?」


「ハテンコー先生が出勤したら最初にすることを知っていますか?」


「えっ⁉︎なに?出勤簿にハンコを押すこと?」



田坂はニヤリとした。



「違います。出勤した瞬間に帰る時間を決めるんだそうです。タイムリミットを。そして、その時間に帰れるようにプランを練るんだそうです。一学期は生徒指導でいろいろ迷惑をかけてしまって手伝っていただいたので、ずいぶん遅い時間まで僕に付き合わせてしまったんですけどね」



 帰る時間を決める…。そんなこと、考えたこともなかった。どうせ遅くなる、と思って仕事をしてきた。21時台に学校を出られたらいいかな。そんな気持ちで仕事をしていた。だからこそゆとりをもって仕事できていたとも言える。でも、それってゆとりだったのだろうか。



「浜島先生、やっぱりゴールがないと、僕らってダラダラ仕事をしてしまうんですよね。じゃないと、なかなかプライベートの時間も取れないし。なんだか家と学校の往復だけで毎日が過ぎていきますよね。それじゃダメなんだそうです」


「えっ⁉︎だって、それが普通でしょ?」



私はまた聞き返した。すると、田坂は笑って言葉を返した。



「ほら、浜島先生は、また『こうでなければならない』に縛られていますよ。ハテンコー先生は言うんです。身を粉にして働くことが美徳みたいな言い方をする人がいるけど、それじゃダメだって。自分自身がハッピーじゃない先生が、子どもたちをハッピーにできるかい?って言うんです。こんなに僕は仕事をがんばってますよ!じゃダメなんだそうです。こんなに僕はハッピーに生きてるよ!って姿を子どもたちには見せないといけないって。あれ?先生、聞いてます?」



 私はぼんやり言葉の意味をかみしめていた。身を粉にして働く。まるで、私のことじゃないか。毎晩、日付けが変わるような時間まで仕事をし、家に帰っても採点やら何やらで働きづめだった。私は幸せなのだろうか。小さいころからの夢だった「学校の先生」という仕事。自分が描いていた理想とは、ずいぶん違う姿だった。

 仕事に追われ、子どもたちとの関係もぎくしゃくしている。何より今、私は私の仕事が誇れていない。急に胸が締め付けられるような想いがして、咳き込んだ。

 「大丈夫ですか?」と田坂が声をかけてくれた。なんだか、その言葉が妙に温かかった。しかしそれから、彼は思い出したように時計を見ると、「僕はあと30分で帰ります」と言った。



「へえ~っ、時計を気にしてるところを見るとデート?」



田坂は真面目な顔で私の方に目をやった。



「いえ、彼女はいませんから」



その言葉に、私は内心ドキッとした。

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