第9話 教師のPDCA
初夏の陽はまだまだ長く、いっこうに沈む気配を見せていなかった。グラウンドに響く子どもたちの声。部活動は真夏の公式戦に向けて、いっそう熱を帯びていた。この大会が終われば、中3は引退して、勉強に専念することになる。テニス部顧問の僕としても、なんとか1勝ぐらいはさせてあげたいと思っている。
その前に、僕には家庭訪問が待っていた。あの鈴木のお母さんと顔を合わせなければならない。そう考えるだけでも、気持ちが重かった。
僕は恐る恐るハテンコー先生に尋ねた。
「先生、さっきの「話せばわかる」は間違いってどういうことですか?」
ハテンコー先生は、前を見据えて歩きながら、話し始めた。
「そうだね。話せばわかるってのはさ、話すのが僕ら教師で、わかるのが保護者でしょ?自分の言いたいこと言ってさ、それを相手に理解させよう、納得させようなんてマインドがそもそも間違ってるんだよ」
僕は黙って耳を傾けた。
「こちらが自分の意見を通そうとすればするほど、相手だって自分の意見を通そうとする。人間関係は鏡のようなものだからね。戦えば戦うほど、相手も武器をもつか城に閉じこもるかのどちらかになるのさ」
僕は、鈴木の母親と戦っていた。自分の考えをわかってくれないことにイライラしていたのは事実だった。
「話せばわかるんじゃなくてね、そうだな…。「聴くからわかる」って方が正しいかな。まず、保護者の話をじっくり聴くの。聴くのは僕らね。で、保護者の気持ちが「わかる」んだよね。もちろん、「わかる」のも僕ら。寄り添って、共感して、人間関係を築いてさ。そうやって、しっかり耕しておくんだよね」
「耕しておく…」
「そうだよ。今、田坂先生は僕の話に耳を傾けてくれているじゃない?でも、最初はどうだった?出会ったばかりのころさ」
「あっ⁉︎…いや…、普通に尊敬してました…」
ハテンコー先生は笑った。だが、僕は当初この先生に反感を抱いていた。異動してきたばかりなのに、なんでもシャシャリ出てくる。そんなおせっかいな先生だと思っていたのだ。
「まぁ、いいさ。でも覚えておいてね。その田坂先生の気持ちを僕は感じちゃってるわけだ」
「えっ…⁉︎」
「ほら、なんとなく感じるじゃない?この人、自分のこと嫌いなのかな~みたいな気持ちって」
「そうかもしれません…」
「だからね、自分が壁をつくれば、相手はその壁を感じるわけ。戦えば戦うほど、相手は身構えてしまう。人間関係は、自分を映す鏡だからね。自分の気持ちや行動が周囲の状況を生み出しているんだね」
「じゃあ、今回のことを招いたのは僕のミスということでしょうか?」
僕はこれから迫っている家庭訪問を前に、さらに重たい気持ちになった。
「出来事を成功や失敗、良い悪いで判断するのはやめた方がいいよ。冷静に自分の置かれた状況を眺めてごらん。それは、自分を映す鏡を見ているようなものだからさ。それを見ながら、改めるべきを改めればいいんだよ」
改めるべきを改める…。僕は、自分のしていることを正当化し、お母さんにわかってもらうことだけに一生懸命になっていた。僕の方が正しいに決まっている、そう思い込んでいた。いや、思い込もうとしていた。
それが、今の状況なのかもしれない。今回、子どもたちから話を聴いて、ようやくいろんなことが見えてきた。わかっていなかったのは、僕の方だったのだ。
「先生。今回の件で言えば、僕が子どもたちの気持ちに気づいてあげられなかったことはやっぱり僕のミスだと思うんです。僕の力不足だと思います」
「で?」
「えっ…?で…と言われましても」
「だからさ、で、どうするの?そこでしょ大事なのは」
僕は、答えに詰まってしまった。自分の力が足りないことはよくわかった。これまでだってたくさんの失敗をしてきた。深く反省した。けれど、だからどうするかなんて考えたこともなかった。後悔して終わりだったのだ。
「いいかい?反省してます、とか、力不足ですなんて言うのはさ、実はなんにも反省してないわけだよ。PDCAって言葉を知っているかい?」
それならよく知っている。PはPlan、つまり計画を立てること。DはDo、それを実行すること。CはCheck、評価すること。そしてAはAction、改善すること。このサイクルを回しながら、よりよくしていくこと、それがPDCAだ。
「はい、それなら知っています」
「うん、で、やってる?」
「えっ…、いや…、できていないです」
「うん、なんで?」
「なんで…と言われましても…」
「だって、知ってるんでしょ?知っててなんでやらないの?」
ううっ…。僕は黙り込んでしまった。その僕の気持ちを察したかのようにハテンコー先生は口を開いた。
「おもしろいよね、人間ってさ。知ってる、わかってる、なんて思ってることはたくさんあるの。でも、それをちゃんとやれている人って少ないんだよね。ほら、願望達成の本とか、たくさんあるじゃない?でもさ、夢を叶えてる人なんて少ないでしょ?」
「そうかもしれません…」
「願望達成の本や自己啓発の本なんて、読み比べていけばわかるんだけど、だいたい同じようなことが書いてあるんだよ。そしてそれは、特別なことではなく、当たり前のことなんだよね」
「当たり前って、どんなことが…?」
「うん、挨拶をしようとか、いつもニコニコ笑顔で過ごそうとかさ。周囲に感謝しようなんてのもあるかな」
「よくわかります。でも、できないんですよね」
僕の言葉にハテンコー先生はうなづいた。
「そう。だから、知ってる、わかってるって言うときはさ、まず実行してからじゃないとダメだよ。で、今回の件をちゃんとPDCAしておくことは大切かな。鈴木さんのお母さんにActionが提案できるようにしておけるといいよね。ただ…」
「ただ?」
「僕のPDCAはちょっと違うんだ」
「違うと言いますと?」
「まず、PはPlanね、どうやったらこの子が幸せになるかな~って考えるんだよね。まず目の前にいるたった一人のこの子のハッピーについて考えるんだわ。Dはね、もうトコトンDo~んとやってみるの。ど~んとのDoね。Cはチェンジね、Change!うまくいかなきゃ変えるの。チェックなんかしてる暇なんかないよね」
「でも、先生。それじゃあ、Aが残ってしまいますよ。Aはどうするんですか?」
ハテンコー先生は、ニヤリと笑った。
「Aはね、ありがとうのA」
「なんすか、それ?」
「だから、ありがとうのAだよ。うまくいかなきゃチェンジ!チェンジ!どんどんやり方を変えるの。もうね、目の前の子どもたちのために、先生自身がどんどん変わっていくの。子どもを変えるんじゃなくて、変わるのは先生の方なんだ」
「変わるのは、先生…」
「そう。いつだって変えられるのは自分だけだからさ。相手を変えようとするなんて傲慢だよ。自分が変わるの。それならもうさ、今この瞬間から変われるじゃない?」
僕はいつも変わるのは相手の方だと思っていた。間違っているのは、他人。子どもたちであり、保護者であり、同僚。正しいのは僕で、間違っているのは他者。そう思っていた。いや、信じていた。
ハテンコー先生の言葉が、僕の心に重くのしかかった。さらに、ハテンコー先生は言葉を続けた。
「それでね、うまく行ったときはさ、ありがとうなんだよ。うまく行ったら、子どものおかげ、保護者のおかげ。そうやって、感謝の気持ちをもつ謙虚さが一番大事なの。うまく行かなきゃやり方を変えて、うまく行ったら感謝する。それが、先生のPDCAだと思ってるんだよね」
僕は、ハテンコー先生の言葉をしっかりと飲み込んだ。僕に足りないもの、それは謙虚さだったのだ。(変わらなきゃいけない)と心から思った。
「あぁ、ここだ、ここだ。鈴木さんのお家だね」
僕らは比較的新しい一軒家の前で足を止めた。周囲にも同じような家が建ち並んでいる。表札の『鈴木』の文字に、僕の心はまた少しだけどんよりとしてしまった。
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