第7話 目の前の子どもをハッピーにする

 その後、お互いに気持ちを伝えると3人で帰っていった。僕は、その姿にほっとした。

 職員室に戻って教頭先生に報告すると、教頭先生も一緒になって喜んでくれた。



「そう、よかったね。いい経験になったねぇ。ハテンコー先生の指導はどうだった?」



指導というと、事実を明らかにして、どちらが悪いかをはっきりさせて注意するという感じだろうか。去年自分の指導教官になっていただいた先生は、そう話をされていた。場合によっては怒鳴ることもあった。

 ところが、ハテンコー先生と言えば、終始ニコニコしているだけだった。穏やかに耳を傾ける。「どんな気持ちだった?」ずっと問いかけ続けていたのだった。



 「ハテンコー先生は、なんだかこれまで僕が教わってきたこととは、ずいぶん違いました」


「そう?何が違ったんだろう?」


「なんていうか、力づくで聞き出すような感じじゃなくて、すっと心に入り込んでいくような…。うまく言葉にできませんが」


「そうか。じゃあ、直接尋ねてみればいいんじゃない?」



僕ににっこり微笑むと、教頭先生は「これで話は終わり」とばかりに視線をパソコンに移した。別れ際に一言、こう付け加えた。



「田坂先生、やっぱりハテンコー先生はすごいだろ?伝説の先生だからね」


「伝説?」



教頭先生はニヤリと笑って、また視線をパソコンに移した。






 「先生、先ほどはありがとうございました」



ハテンコー先生はマグカップに注がれたコーヒーをさも美味しそうに口にしながら微笑んだ。



「いや~、おもしろかったなぁ」


「えっ、何がおもしろかったんですか?僕はどうなることかと思いましたよ」


「そうかい?だってさ、つまり、鈴木さんと山下さんは恋敵ってことだろ?加藤さんは何にも関係なかったわけで、橋本くんも松本くんも振り回されたねぇ」


「そうですね」


「でも、まあ、一番振り回されたのは、田坂先生かな」



と言うと、豪快に笑った。



「あの…、先生。ちょっといいですか?」


「んっ?なに?」


「今日の指導なんですけど…、あの…、ありがとうございました」



ハテンコー先生は、僕の方に向きを変えると、コーヒーを一口、口に含んで先を促した。



「あの~、今日の指導は、その…、どんな感じだったのでしょうか」


「んっ?どんな感じって、何が?」



僕はどう尋ねていいのかわからなかったが、感じたことをそのまま伝えることにした。



「僕がこれまで見てきた指導って、何があったか尋ねて情報を集めます。そして、だれが悪いのかをはっきりさせて、叱ります。で、今日の場合だと、やっぱり事件の発端をつくった鈴木を叱ってですね…」


「ふん、それで?」


「やっぱり、橋本から聞いた話をちゃんと伝えなかった山下も、それはよくないんじゃないかって叱って。喧嘩両成敗って感じですかね」


「ふ~ん、で?」


「で…、双方謝罪して仲直りさせて、お終いです」



ハテンコー先生は、さも可笑しそうな表情を口元に浮かべて、僕の瞳の奥をのぞきこんだ。



「それで、目の前の子どもたちはハッピーになるのかい?」


「どういうことですか?」


「僕らのシゴトはさ、目の前の子どもたちをハッピーにするためにあるんだよ。



あっ、この場合のシゴトは志に事と書いて志事ね」



「でも、これまでの指導って、そういうものじゃ…。子どもの幸せなんて考えたこともなかったです」



ハテンコー先生は、いつになく真剣な顔をしていた。



「いいかい、田坂先生。今はね、もう昔のように無条件で保護者や子どもたちからリスペクトされていた時代じゃないんだ。その時代のやり方に縛られていたら、学校は時代に取り残されるよ。なぁ、学校の制度っていつからだい?」



僕は即答できずにスマホを取り出すと、さっと検索した。



「へぇ~っ、イマドキって感じだねぇ」



ハテンコー先生は、ちょっとだけ寂しそうな顔をしていた。



「えっとですね。学制は明治5年です」


「いや、一人の先生がいて、一つの部屋で学ぶなんてのは、寺子屋の時代からずっと変わってないんだ。江戸だよ、江戸」


「えっ…江戸ですか?」


「じゃあさ、そのスマホ。できたのはいつだい?」


「えっと…」


「せいぜい、ここ数年だろ?SNSが生まれ、だれもが情報発信できるようになった。スマホ一つで映画も音楽も買い物もできる。スマホ一つ取ったって、時代がどんどん変わっていってることがわかるよね。外資系企業もどんどん増えてきている。世の中が急速に進化していってるんだ。それなのに、学校だけは大昔から変わらないんだ。いや変われないんだ」


「そうかもしれません…」



ハテンコー先生の瞳がキラリと光ったように見えたのは気のせいだろうか。



「だけど、僕らには学校という仕組みそのものを変えるような力はないよね。でも、僕はね、先生の在り方は変えられると思ってるんだよ」


「在り方…、ですか?」


「そう、先生の在り方。これまでは、子どもたちを管理して指導するのが仕事だったじゃない?でもね、これからは目の前の子どもをハッピーにすることを志事にする先生が必要だと思うんだよね」



僕は、黙って言葉の意味を噛み締めていた。「目の前の子どもをハッピーにする」そんなことは考えたこともなかった。



「目の前の子どもをハッピーにしようとするから、子どもたちに愛される先生になれる。目の前の子どもたちをハッピーにしようとするから、保護者に応援される。そうやって、子どもたちに愛されて、保護者に応援されたら僕らもハッピーだよな」



 僕は、子どもたちに愛されているだろうか。保護者に応援されているだろうか。自問自答したが、答えは明白だった。僕には足りないものが多すぎる。


「で、本題に入ろうか」


「はい…」



僕はか細い声で返事をした。



「生徒指導は引き分けがいいんだ。トラブルなんて双方に原因があって当たり前。僕らは裁判所でも警察でもないからね。裁く必要なんてないさ。どんなことがあったの?どんな気持ちだったの?って尋ねながら、お互いのもつれた糸をほぐしていくんだね」


「あっ、もつれた糸をほぐすという感覚はよくわかりました。話しているうちに、ほぐれていく感じがありました」


「うん、そうだね。でもね、それは僕が明らかにしていったわけじゃないよね。子どもたちが話をしながら、自分たちで解決していったんだよね」


「そうですね。先生は問いかけていただけでした」


「うん、それでいいと思うんだ。問いをつくれば、自然と答えは生まれる。話をしていれば、もつれた糸はほぐれてくる。人間って不器用だからさ、問題を抱えた者同士で解決するのは難しいんだな」



僕は、黙ってうなづいた。



「だから、そこは大人が臆せず介入してあげる。だけど、それはあくまでも間に入るだけ。指導したり、裁いたりしなんだな」


「でも、そうやって間に入るのって難しくないですか?」


「これからの先生はさ、ファシリテーターになることが必要なんだよ。ファシリテーターってのは、会議などの場で参加者の気持ちや言葉を受け止めながら、話し合いを促進していく司会者のような人ね。そういうものになる必要があるんだよね」


「ファシリテーターですか…」


「うん、結局ね、問題は問題を抱えた者同士で解決するしかないの。それを促進してあげる、助けてあげるイメージで間に立つんだよ。で、そのためには、話し合いやすい雰囲気をつくる必要があるよね」

そういえば、ハテンコー先生は終始ニコニコとしていて穏やかな表情を浮かべていた。



「いや~、しかし、なんか険悪な雰囲気でヒヤヒヤしたよね。あのままケンカでも始まるんじゃないかって感じだったもんねぇ」


「僕には、先生はヒヤヒヤしているようには見えませんでしたよ」


「いやいや、むちゃくちゃヒヤヒヤしてたって。どうなるかなんてノープランだったしさ」



ハテンコー先生は、僕をからかっているのだろうか。そんな素振りは一切見せていなかった。



「でも、先生はずっとニコニコとしていたじゃないですか?全然そんな感じはしませんでしたよ」



ハテンコー先生は、さも可笑しそうに笑った。



「そりゃ、そうさ。演じるよ。まず空気をつくるの。温かい空気をつくってね、あなたの話を受け止めますよ、って感じにしなきゃね。怒ってる人間に話なんかしたくないでしょ?イライラしている人間と話したいと思う?」



僕はハッとして、思わず顔を赤らめて俯いた。それは、僕の姿だった。たしかに、怒っている人やイライラしている人となんて、僕だって話したくはない。



「あのね、基本的に子どもたちって大人の介入を嫌うんだよ。そんなの自分が子どものときのことを思い出せばわかるじゃない?」


「はい…」


「でね、ただでさえ話したくないことを話させようと思ったらさ空気感ってすごく大事なんだよね」


「あの一瞬で、それを生み出すんですか?」


「まさか!日頃の人間関係だよ。あの場面だけでそんな関係はつくれないさ。ちゃんと種まきをしておくことが大事なんだよね」


「だけど、先生はこの4月にウチの学校へ赴任してきたばかりじゃないですか」



僕は思わず、大きな声を出してしまった。僕は彼らが入学したころからの付き合いである。一方、ハテンコー先生はまだ3ヶ月の付き合いなのだ。



「う~ん、まあ、それはねぇ」



僕には、ハテンコー先生のもつノウハウが必要だった。この先生は僕に足りないものをたくさんもっているはずだと直感で理解した。



「先生、僕も子どもたちに愛され、保護者に応援される先生になれるでしょうか。僕にその才能があるでしょうか?」



すると、ハテンコー先生はニッコリ微笑んでこう言った。



「才能は関係ないよ。謙虚に学ぶ姿勢さえあれば、だれだってそんなハッピーな先生になれるんだよ」



僕は、思わず立ち上がると、大きな声で叫んでしまった。



「先生、僕を育ててください!」



職員室中の視線を感じた。だが、その視線は心地の良いものだった。

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