第4話 覚悟を問う
「なぁ、幸子さぁ、なんか困ってることがあったら教えてくれないかな?なんでも力になるからさ」
鈴木幸子はびっくりした顔をしている。
「何ですか急に?お母さんが何か変なこと言ったんじゃないですか?」
「えっ…、そういうわけじゃないけど」
「私、大丈夫ですから」
そういうと、彼女は足早に教室へと向かった。理科室からの帰り道を捕まえて、話を聞こうと思ったのだけれど、どうも彼女は僕に話をする気などないらしい。
その日の放課後、鈴木のお母さんから電話がかかってきた。だが、僕につながることはなかった。教頭先生がまた電話口の前でひたすら頭を下げていたのだ。僕は部活動のテニスウエアに着替えたまま、所在なく職員室の自席でぼんやりとその様子を眺めていた。
すると、背中をポンと叩かれた。隣で椅子のきしむ音がした。
「どうだった?鈴木さんは。今日、話を聞いてたみたいだけど」
ハテンコー先生は、僕にコーヒーカップを手渡して尋ねた。
「本人は、何もないって、大丈夫だって」
「それで?」
「だけど、理科室に行くときも、体育の時間に行くときも一人なんです。それに、休み時間も田中と一緒にいるんですけど…」
「ですけど?」
「幸子と田中って、趣味や性格が合うようにも見えなくて。田中も幸子が寄ってきて面倒臭い、みたいなことを言ってたんです」
「そうか…。鈴木さんと仲が良かったのってだれなの?」
「山下と加藤です」
山下由香里と加藤愛。二人とも活発で発言力のあるタイプだった。ハテンコー先生は視線をマグカップに落とすと、何やら考え事をしている様子だった。
「う~ん…、どうしようね?」
僕にはどうしていいかわからなかった。すると、職員室の前の方から教頭先生の呼ぶ声が聞こえてきた。
「お~い、田坂くん。それにハテンコー先生もちょっといいですか?」
僕はハテンコー先生について、教頭先生のところへ行った。初夏のグラウンドは、陽がまだ長く部活動に汗を流す子どもたちの元気な声が響いていた。
「今ね、鈴木さんのお母さんから電話があってね。やっぱり鈴木さん、学校でのことでだいぶ悩んでるみたいなんだよね。ただ…、田坂先生、今日幸子さん本人と話をしたんだって?」
「えぇ、まぁ…。話をしたというほどの話はできてないんですが。困ったことはないかと声をかけました」
「そう…」
教頭先生は次の言葉を探るように、お茶を口に含んだ。
「あのね、幸子さん自身がちょっとイヤなんだって。その…、なんていうのかな?突然、声をかけてきて、心配してくれるのはうれしいけど、かき回されたくない、というか…、その…」
ハテンコー先生が口を挟んだ。
「うれしいって言ったんですか?」
「えっ⁉︎いや…、まぁ、それはね…」
教頭先生は、僕に気を遣ってくれたのだろう。早い話が、僕ではダメだってお母さんは言ったのだと思った。
「それでね、ハテンコー先生。なんとか、先生に指導を引き継いでもらえないかな…と思いまして」
僕は背中を丸め、今にも泣き出しそうな気分だった。戦力外通告、僕にはそう聞こえたのだ。けれど、内心少しだけホッともしていた。毎日、こんな気持ちにさせられるぐらいなら、誰かに任せてしまいたいのが本音だった。
ところが、ハテンコー先生はきっぱりとこう言った。
「お断りします」
僕は、目を丸くしてハテンコー先生の方を見た。いつも穏やかな彼が、いつになく語気を強めて言ったからだ。
「これは、彼のクラスで起きた問題です。田坂先生が自分自身の力で解決しなくて、本当の意味で独り立ちできるでしょうか?我々が本来すべきは、田坂先生をサポートして、この課題を解決することではないですか?」
教頭先生も目を丸くしている。
「なぁ、田坂くん。君は一生、生涯をかけてこの仕事をしていくのかい?」
「当たり前じゃないですか」
僕は、思わず大きな声で答えてしまった。職員室中の視線が僕の背中に集まったのを感じて、言ってしまってから、背中に嫌な汗が流れるのを感じた。
「一生やっていくつもりなら、この課題は自分で解決するんだ。できるだろ?」
僕にできるだろうか?どうしたらいいのか、考えもつかなかった。だから、急にか細い声でこう答えた。
「僕にできるでしょうか…?」
すると、ハテンコー先生はいつもの穏やかな表情で僕に語りかけた。
「だれだって、最初からうまくできるわけじゃないさ。失敗して失敗して、そのたびに自分の問題として変わり続けられた人間だけが本物の先生になれるんだよ。目の前で苦しんでいる子どもがいる。うまくいく、いかないは別問題として、そこから逃げたらさ、もう君は先生じゃないんだよ」
僕は、まっすぐなハテンコー先生の視線から目をそらさずに耳を傾けた。最後にハテンコー先生は、にっこり微笑んでこう言った。
「さあ、鈴木さんをハッピーにしようか?」
「はい!」
僕は一層、大きな声で返事をすると、また職員室中の視線を集めることになった。けれど、僕の背中には、もう嫌な汗はなかった。
その後、僕はテニス部の練習を指導していた。子どもたちと汗を流すのは気持ちがいいものだ。抱えた不安な気持ちを吹き飛ばすように、僕はラケットを振り続けた。夏の大会も近づき、どの部活動も練習に熱を帯びている。気がつくと、もうすっかり陽が落ちてしまっていた。
子どもたち帰宅させて職員室に戻ると、こんな時間でも珍しくハテンコー先生は職員室の電話で、なにやら話をしていた。ハテンコー先生といえば、だれよりも早く帰宅することで有名だった。
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